今度のバスで行く 西でも東でも
ペドロ&カプリシャスの「ジョニーへの伝言」を聴いていると、なんだかバスで動くのって実に欧米風で格好がいいような気がしてくる。外国を旅しているみたいだな。日本だと旅行の風景といえばやはり「終着駅」であったり「波止場」であったりして演歌風になったりするのだが、バスであるとちょっと雰囲気が違うような気がしてくる。あまりウェットじゃない、砂埃舞うバスストップのちょっと愛想のない舞台。
Kathy, I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
Michigan seems like a dream to me now
「キャシー、今じゃミシガンの事なんてもう夢見てたみたいだよ。」ピッツバーグでグレイハウンドバスに乗るとき僕はそう言ったんだ…僕の大好きなS&Gの「America」の一節だが、やはり街を抜け広い荒野を走るバスの遠景が目に浮かぶようだ。軌道がないところが寂しさを助長するのだろうか。旅好きのバイブルでもある沢木耕太郎の「深夜特急」はバス旅の話だ。なんだか乾いた風景が感じられてくる。
もっとも、こういうのはアメリカとかメキシコに似合うのであって、日本だとどうもピンとこない。日本では長距離移動はやはり鉄道のものであって、バスは駅から目的地に向ってちょっとだけ乗るもの。それは都会であっても田舎であっても同様、停留所がたくさんあって直ぐに停まり昇降が激しく、常に「次は○○前~」とアナウンスが流れてピンポンとボタンを押して整理券と表示画面を見比べ小銭をポケットから出す。そういう風情が普通である。旅行にはあくまで補助的なもの。
ずっとそう思っていたのだが、昨今の「夜行長距離バス」の隆盛はそんな感情などどこかへ押しやってしまった。日本でもバスだけで旅行は出来る。バスを乗り継いで北海道でも鹿児島でもどこだって行ける。そういうご時世になった。
昔は、長距離バス、夜行バスと言えば首都圏と関西を結ぶ「ドリーム号」がその代名詞だった。僕も若い頃に幾度も乗った。これは国鉄バスであり周遊券でも乗れたので、東京ミニ周遊券の場合には大垣鈍行よりも直通であるだけマシ(直角クロスシートよりリクライニングする座席が寝やすいなどの理由も)ということで、列車よりもバスを選んだものだ。
しかし、四半世紀前のバスの座席は狭かった。まあ観光バスより少しボロい感じであって、トイレは付いているものの形だけであり、座席も隣と密着していてちょっと太ったおっちゃんが隣に座ろうものならもうその圧力でひしゃげてしまうようだった。暑苦しい。なので夜行バスにはあまりいいイメージを持たなかった。ただ安いという理由だけ。
今は違う。座席はたいてい三列シートでひとつひとつの席が独立している。カーテンで間を仕切る。ちょっとB寝台かフェリーの特二等を連想させる。初めて金沢~博多間のバス「加賀号」に乗ったときは驚いた。夜行バスってこんなに乗り心地がいいのか。もちろん寝台列車と比べてはいけないが、リクライニングも相当傾く。限りなく寝た姿勢に近くなる。バスで熟睡などかつては考えられなかったのだが、このときはよく寝た。
それ以来、バスを見直した。もちろん疲れることは疲れるが、昔の比ではない。夜行バスのいいところは、もちろん夜行列車と同様夜に移動してくれる点で、朝になれば目的地に着いている。行動時間が確保できる。僕は若い頃ずいぶんと活用した。
今はあまり乗らなくなってしまったが、それでも利用するときもある。またバス網が非常に発達して、ありとあらゆるところへ行ける。乗車にはかつて都心のバスターミナルへ行かなくてはいけなかったものだが、最近ではあれっという場所からも発着している。僕の住む最寄の阪神甲子園駅からも、なんと鹿児島行き夜行バスが停まる(甲子園発というわけではないが停留所となっている)。なのでこれは利用しない手はないと思いあるとき乗ってみた。自宅から5分でバス停、そして鹿児島の繁華街天文館まで直通である。ドアtoドア。なんだか信じられない気がした。昨夜自宅で食事をしていて、今日は朝早くから西郷隆盛や大久保利通の住んでいた鹿児島の加治屋町をブラブラしている。飛行機でもこの感触は味わえない。
僕はバスに可能性を見出し(たつもりになって)、ある年の冬の三連休、バス旅だけで東北を旅行しようと思った。当時住んでいた金沢から新潟へ、そして山形へとバスを乗り継ぎ、最終的には盛岡まで足を伸ばした。そして盛岡から夕刻、仙台行きのバスに乗った。これは約2時間半で着く。着いたらゆっくり酒でも呑んで金沢行き夜行バスに乗って帰ろう。そんな算段だった。
バスという乗り物の怖さは、交通事情によって遅滞がかなり広範囲に及ぶということである。
僕は仙台行きのバスの車中、眠りこけてしまっていた。どうせ終点下車だからのんびりと、というつもりだったのだが、ふと目を覚ますとあたりの様子が一変していた。
その冬は暖冬で、雪などほとんどなかった。だからここまで順調にバス旅を続けてきたのだが、天候が一転して豪雪となっている。バスは渋滞の中で立ち往生していたのだ。時計を見るともうニ時間が経過している。いったいここはどこだ? 何、北上だと?!
運転手に聞いてみたら「いつになれば仙台に着けるのかはわかりません。のろのろ運転ですから」とのんびりした答え。うーむ。僕は心底焦った。明日の朝には金沢に居ないとまずいのに。
バスが一般道を走っていて(高速は通行止めになったのか)のろのろ運転であることを幸いに僕は「下ろしてくれ」と叫んだ。運ちゃんはちょっと渋い顔をしたが緊急事態なのでしょうがない。ただしバス停はないので、北上駅に最も近い場所で、と頼んだ。「ああもうここが近いですよ」わかりましたありがとう。それじゃ。
それから約1kmくらい僕は雪道を走るように歩き(焦っていたのだ)、北上駅にたどり着いた。新幹線は…と見ると、みんな相当の遅れを出している。ただ駅員に聞くと、ここより南は雪も少なく除雪も進んで比較的順調であるという。盛岡周辺の局地的豪雪であるようだ。とにかく僕は来た新幹線に飛び乗った。
乗った新幹線車内は、乗客が皆憔悴しきった顔をしている。この新幹線も既に二時間遅れである由。ただ、その後は遅れを取り戻すとまではいかないものの比較的順調に走った。僕は仙台で下車せずそのまま乗り続けた。仙台発の夜行バスなんてとてもこの天候ではアテにならない。大宮で下車して、そこから夜行急行「能登」に乗った。これにもギリギリの時間だった。ふぅ。なんとか助かったぞ。(余談だが、この新幹線の特急料金、列車が二時間以上遅れたので払い戻しの対象となった。僕が乗り込んでからは少ししか遅延していないのでいいのかな、とも思ったのだが細かいことは問い合わせなかった。バス代が浮いた)
バスという乗り物は怖い。雪などの天候でもこのように左右されるが、その他にも事故などの交通渋滞で時間の振れ幅が大きい。僕は結構懲りてしまって、行きはいいが帰りに使うのはやはり時間に余裕がないと躊躇してしまう。夜行バスはまだ柔軟に対応してくれるが、昼行バスで接続させる場合は相当の余裕が必要であることを学んだ。(しかし僕はこんなことばっかりやっているな)
さて、長距離バスなどはともかくとして、旅行先ではやはりバスに乗らないといけないときが出てくる。バスはあらゆる地域を網羅している。鉄道はそんな細かい地域まで面倒を見てくれない。
しかし、バスは知らない街で乗るのはちょっと怖い。バスターミナルを併設している大きな駅から乗るのならともかく(こういう場合はたいてい始発だ)、田舎でバス停を探したりするのはなかなか慣れない。雪の降る県道でいつ来るかわからないバスを待っているときなど相当に心細くなる。バスはたいてい時間通りにやってこない。もしかしたらもう行ってしまった後では、と不安になったりする。
都会でも不安は同じだ。まず、繁華街などバス停がいくつもあって、どこから乗って良いのかわからない。また、知らない街でバス路線図など読み解くのは至難のワザで、どのバスに乗ればいいのかまず分からない。目的地も「○○団地前」とか聞いたことのないものばかりだ。よほど地理に精通していないと無理である。
また地方によってバスの作法も違う。東京などは料金先払いだ。均一料金だから先に払えと言われても、旅行者は料金を知らないのにどうするんだ。回数券などもちろん持ってないぞ。オタオタしちゃうじゃないか。また沖縄では手を上げないとバスが止まってくれない。タクシーじゃないんだから。直前にならないと目の悪い旅行者は目的のバスかどうかわからんじゃないか。うーむ。
僕は京都育ちなので京都市内を走るバスには精通しているが、旅行者は戸惑うだろうな。よく泣きそうな顔で「晴明神社に行きたいんですけどどれに乗ったらいいんでしょうか」と尋ねる人が居る。そうだろう。バスには「晴明神社行き」なんて書いてはいないもんな。あっちのバス停から堀川通り上賀茂神社行きに乗ってください。一条戻り橋で降りればいいですから。そうすっと出るようになるには京都に精通しないと無理だよ。これが僕も旅先だと「すいませんけど…」と人に尋ねることになるのだ。かくして、歩いたりレンタサイクルの方が早いや、と思ってしまいだんだんバスには乗らなくなってしまう。
なんだかバスの問題点をあげつらったみたいになってしまった。決してそんなつもりじゃなかったのだが。
路線バスというものは、道路さえあればありとあらゆるところへ入っていってくれる。それが都市部では路線が多すぎることに繋がり旅行者はどうしていいのかわからなくなるが、当然ローカルな山間部などにも入っていってくれる。よく晴れた渚の道も走ってくれる。有難い乗り物なのである。
最近過疎地を中心に路線バスはどんどん衰退している。時代の流れではあるが、旅行者としては惜しい。本当にローカルバスに乗ると、昇降客は最初だけであとは延々運転手と二人きりなんてことはしばしばある。「どちらまで行かれるのですか」などと話しかけられたりして。○○温泉ですよ。ああそれなら終点ですからどうぞごゆっくり。もうすぐ紅葉が綺麗なところへ差し掛かりますよ…てな会話もまた楽しい。地元の人の足はもう乗用車となり路線バスの命脈もあとどれくらいか。しょうがないことだけれども、もう少し乗ってみたいと勝手な旅行者は考えてしまうのである。
ペドロ&カプリシャスの「ジョニーへの伝言」を聴いていると、なんだかバスで動くのって実に欧米風で格好がいいような気がしてくる。外国を旅しているみたいだな。日本だと旅行の風景といえばやはり「終着駅」であったり「波止場」であったりして演歌風になったりするのだが、バスであるとちょっと雰囲気が違うような気がしてくる。あまりウェットじゃない、砂埃舞うバスストップのちょっと愛想のない舞台。
Kathy, I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
Michigan seems like a dream to me now
「キャシー、今じゃミシガンの事なんてもう夢見てたみたいだよ。」ピッツバーグでグレイハウンドバスに乗るとき僕はそう言ったんだ…僕の大好きなS&Gの「America」の一節だが、やはり街を抜け広い荒野を走るバスの遠景が目に浮かぶようだ。軌道がないところが寂しさを助長するのだろうか。旅好きのバイブルでもある沢木耕太郎の「深夜特急」はバス旅の話だ。なんだか乾いた風景が感じられてくる。
もっとも、こういうのはアメリカとかメキシコに似合うのであって、日本だとどうもピンとこない。日本では長距離移動はやはり鉄道のものであって、バスは駅から目的地に向ってちょっとだけ乗るもの。それは都会であっても田舎であっても同様、停留所がたくさんあって直ぐに停まり昇降が激しく、常に「次は○○前~」とアナウンスが流れてピンポンとボタンを押して整理券と表示画面を見比べ小銭をポケットから出す。そういう風情が普通である。旅行にはあくまで補助的なもの。
ずっとそう思っていたのだが、昨今の「夜行長距離バス」の隆盛はそんな感情などどこかへ押しやってしまった。日本でもバスだけで旅行は出来る。バスを乗り継いで北海道でも鹿児島でもどこだって行ける。そういうご時世になった。
昔は、長距離バス、夜行バスと言えば首都圏と関西を結ぶ「ドリーム号」がその代名詞だった。僕も若い頃に幾度も乗った。これは国鉄バスであり周遊券でも乗れたので、東京ミニ周遊券の場合には大垣鈍行よりも直通であるだけマシ(直角クロスシートよりリクライニングする座席が寝やすいなどの理由も)ということで、列車よりもバスを選んだものだ。
しかし、四半世紀前のバスの座席は狭かった。まあ観光バスより少しボロい感じであって、トイレは付いているものの形だけであり、座席も隣と密着していてちょっと太ったおっちゃんが隣に座ろうものならもうその圧力でひしゃげてしまうようだった。暑苦しい。なので夜行バスにはあまりいいイメージを持たなかった。ただ安いという理由だけ。
今は違う。座席はたいてい三列シートでひとつひとつの席が独立している。カーテンで間を仕切る。ちょっとB寝台かフェリーの特二等を連想させる。初めて金沢~博多間のバス「加賀号」に乗ったときは驚いた。夜行バスってこんなに乗り心地がいいのか。もちろん寝台列車と比べてはいけないが、リクライニングも相当傾く。限りなく寝た姿勢に近くなる。バスで熟睡などかつては考えられなかったのだが、このときはよく寝た。
それ以来、バスを見直した。もちろん疲れることは疲れるが、昔の比ではない。夜行バスのいいところは、もちろん夜行列車と同様夜に移動してくれる点で、朝になれば目的地に着いている。行動時間が確保できる。僕は若い頃ずいぶんと活用した。
今はあまり乗らなくなってしまったが、それでも利用するときもある。またバス網が非常に発達して、ありとあらゆるところへ行ける。乗車にはかつて都心のバスターミナルへ行かなくてはいけなかったものだが、最近ではあれっという場所からも発着している。僕の住む最寄の阪神甲子園駅からも、なんと鹿児島行き夜行バスが停まる(甲子園発というわけではないが停留所となっている)。なのでこれは利用しない手はないと思いあるとき乗ってみた。自宅から5分でバス停、そして鹿児島の繁華街天文館まで直通である。ドアtoドア。なんだか信じられない気がした。昨夜自宅で食事をしていて、今日は朝早くから西郷隆盛や大久保利通の住んでいた鹿児島の加治屋町をブラブラしている。飛行機でもこの感触は味わえない。
僕はバスに可能性を見出し(たつもりになって)、ある年の冬の三連休、バス旅だけで東北を旅行しようと思った。当時住んでいた金沢から新潟へ、そして山形へとバスを乗り継ぎ、最終的には盛岡まで足を伸ばした。そして盛岡から夕刻、仙台行きのバスに乗った。これは約2時間半で着く。着いたらゆっくり酒でも呑んで金沢行き夜行バスに乗って帰ろう。そんな算段だった。
バスという乗り物の怖さは、交通事情によって遅滞がかなり広範囲に及ぶということである。
僕は仙台行きのバスの車中、眠りこけてしまっていた。どうせ終点下車だからのんびりと、というつもりだったのだが、ふと目を覚ますとあたりの様子が一変していた。
その冬は暖冬で、雪などほとんどなかった。だからここまで順調にバス旅を続けてきたのだが、天候が一転して豪雪となっている。バスは渋滞の中で立ち往生していたのだ。時計を見るともうニ時間が経過している。いったいここはどこだ? 何、北上だと?!
運転手に聞いてみたら「いつになれば仙台に着けるのかはわかりません。のろのろ運転ですから」とのんびりした答え。うーむ。僕は心底焦った。明日の朝には金沢に居ないとまずいのに。
バスが一般道を走っていて(高速は通行止めになったのか)のろのろ運転であることを幸いに僕は「下ろしてくれ」と叫んだ。運ちゃんはちょっと渋い顔をしたが緊急事態なのでしょうがない。ただしバス停はないので、北上駅に最も近い場所で、と頼んだ。「ああもうここが近いですよ」わかりましたありがとう。それじゃ。
それから約1kmくらい僕は雪道を走るように歩き(焦っていたのだ)、北上駅にたどり着いた。新幹線は…と見ると、みんな相当の遅れを出している。ただ駅員に聞くと、ここより南は雪も少なく除雪も進んで比較的順調であるという。盛岡周辺の局地的豪雪であるようだ。とにかく僕は来た新幹線に飛び乗った。
乗った新幹線車内は、乗客が皆憔悴しきった顔をしている。この新幹線も既に二時間遅れである由。ただ、その後は遅れを取り戻すとまではいかないものの比較的順調に走った。僕は仙台で下車せずそのまま乗り続けた。仙台発の夜行バスなんてとてもこの天候ではアテにならない。大宮で下車して、そこから夜行急行「能登」に乗った。これにもギリギリの時間だった。ふぅ。なんとか助かったぞ。(余談だが、この新幹線の特急料金、列車が二時間以上遅れたので払い戻しの対象となった。僕が乗り込んでからは少ししか遅延していないのでいいのかな、とも思ったのだが細かいことは問い合わせなかった。バス代が浮いた)
バスという乗り物は怖い。雪などの天候でもこのように左右されるが、その他にも事故などの交通渋滞で時間の振れ幅が大きい。僕は結構懲りてしまって、行きはいいが帰りに使うのはやはり時間に余裕がないと躊躇してしまう。夜行バスはまだ柔軟に対応してくれるが、昼行バスで接続させる場合は相当の余裕が必要であることを学んだ。(しかし僕はこんなことばっかりやっているな)
さて、長距離バスなどはともかくとして、旅行先ではやはりバスに乗らないといけないときが出てくる。バスはあらゆる地域を網羅している。鉄道はそんな細かい地域まで面倒を見てくれない。
しかし、バスは知らない街で乗るのはちょっと怖い。バスターミナルを併設している大きな駅から乗るのならともかく(こういう場合はたいてい始発だ)、田舎でバス停を探したりするのはなかなか慣れない。雪の降る県道でいつ来るかわからないバスを待っているときなど相当に心細くなる。バスはたいてい時間通りにやってこない。もしかしたらもう行ってしまった後では、と不安になったりする。
都会でも不安は同じだ。まず、繁華街などバス停がいくつもあって、どこから乗って良いのかわからない。また、知らない街でバス路線図など読み解くのは至難のワザで、どのバスに乗ればいいのかまず分からない。目的地も「○○団地前」とか聞いたことのないものばかりだ。よほど地理に精通していないと無理である。
また地方によってバスの作法も違う。東京などは料金先払いだ。均一料金だから先に払えと言われても、旅行者は料金を知らないのにどうするんだ。回数券などもちろん持ってないぞ。オタオタしちゃうじゃないか。また沖縄では手を上げないとバスが止まってくれない。タクシーじゃないんだから。直前にならないと目の悪い旅行者は目的のバスかどうかわからんじゃないか。うーむ。
僕は京都育ちなので京都市内を走るバスには精通しているが、旅行者は戸惑うだろうな。よく泣きそうな顔で「晴明神社に行きたいんですけどどれに乗ったらいいんでしょうか」と尋ねる人が居る。そうだろう。バスには「晴明神社行き」なんて書いてはいないもんな。あっちのバス停から堀川通り上賀茂神社行きに乗ってください。一条戻り橋で降りればいいですから。そうすっと出るようになるには京都に精通しないと無理だよ。これが僕も旅先だと「すいませんけど…」と人に尋ねることになるのだ。かくして、歩いたりレンタサイクルの方が早いや、と思ってしまいだんだんバスには乗らなくなってしまう。
なんだかバスの問題点をあげつらったみたいになってしまった。決してそんなつもりじゃなかったのだが。
路線バスというものは、道路さえあればありとあらゆるところへ入っていってくれる。それが都市部では路線が多すぎることに繋がり旅行者はどうしていいのかわからなくなるが、当然ローカルな山間部などにも入っていってくれる。よく晴れた渚の道も走ってくれる。有難い乗り物なのである。
最近過疎地を中心に路線バスはどんどん衰退している。時代の流れではあるが、旅行者としては惜しい。本当にローカルバスに乗ると、昇降客は最初だけであとは延々運転手と二人きりなんてことはしばしばある。「どちらまで行かれるのですか」などと話しかけられたりして。○○温泉ですよ。ああそれなら終点ですからどうぞごゆっくり。もうすぐ紅葉が綺麗なところへ差し掛かりますよ…てな会話もまた楽しい。地元の人の足はもう乗用車となり路線バスの命脈もあとどれくらいか。しょうがないことだけれども、もう少し乗ってみたいと勝手な旅行者は考えてしまうのである。