自然文化研究科

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赤穂塩業の歴史・流通

2013年09月10日 | 食物の歴史
9月10日

本日は「赤穂塩業の歴史・流通」について
流通科学大学 加藤慶一郎 教授にご講演頂きました。
加藤慶一郎教授

①赤穂塩田
 
江戸時代に「十州(じゅっしゅう)塩田」が成立。
 1799年頃全国の50%を生産 その内赤穂が十州の中で有力な生産地であった

 十州塩田とは 播磨・備前・備中・備後・安芸・長門・周防・阿波・讃岐・伊予の、瀬戸内
 海沿岸10国の塩田
 
②江戸時代の瀬戸内塩業の推移
 ・入浜式塩田の出現(16世紀〜18世紀)
   江戸時代前期頃、海水を塩田に取り込む方法として、潮の干満を利用する方法が開
   発され。これにより海水を塩砂に散布する作業が省略され、大幅な労力の軽減が実
   現した。

・入浜式塩田の構造・作業の流れ

 塩田での作業の流れ

  1.砂を塩田に撒いて広げる
  2.毛細管現象の促進のために上から海水を撒く
  3.水分の蒸発を助けるために表面の砂をかきおこす
  4.砂が乾いたら集めて沼井に入れる
  5.沼井(ぬい=かん水抽出装置)に海水をかけて砂についた塩分を溶かす 
  6.沼井からかん水がでてくる(→後で煮つめて結晶化させる)

 ・塩田開発期(17世紀後半〜18世紀) 

 ・塩業不況期 生産過剰による塩価下落、燃料高騰による経営悪化。(18世紀後半)

 ・塩業好況期 製塩燃料が薪から石炭に転換され燃料費の低下と人件費削減、赤穂塩の需要増加   によって好況期を迎えた・ (19世紀後半)

③赤穂塩の生産と流通
 入浜式塩田→赤穂塩問屋→廻船業者→江戸塩問屋→江戸塩仲買→消費者・醤油生産者 この構造 は17世紀後半に確立、入浜式塩田は昭和20年代まで続いた。

④塩田の開発
 赤穂塩の主な販売先は江戸方面70%、大坂方面20%、赤穂周辺が10%であり塩田の開発は「前川 浜」「西浜」等塩田面積は増大し、大坂では真塩の専売に成功するなど大きな成果を収めた。
 しかし、こうした塩業隆盛による利益は藩財政に流れることはなく、城下町周辺における大地主 の 成長を促し又この頃には地主は貸塩田として他人に貸出していた。特に御崎の田淵家、塩屋の柴 原家、坂越の奥藤家が有名である

⑤塩田経営からの転業
 赤穂の塩は江戸等遠方への運送が多くなり廻船業者に転業も増えた。
 塩田近くでは大型船舶の入港が困難な為、坂越湾が西廻り航路などの一拠点として大いに栄え  た。
 坂越には黒崎墓所(他所三昧・県指定文化財)と呼ばれる、全国各地の水夫が坂越で客死した際 の墓があり、その隆盛を今も静かに物語る。

坂越湾(赤丸印)




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