福島応援プロジェクト茨城

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“ 球美の里 / 久米島 " 通信 No.6~No.10

2015年06月27日 | 保養
“ 球美の里 / 久米島 " 通信 No.6
6月21日 午前 イーフビーチで海水浴。
午後 留守番、静かな“ 球美の里 ”で休養。
初めての半日の‘のんびりタイム’
夜、予定より1時間遅れで理事の向井さん(医師)が来る。既に21:30を過ぎている。 スタッフとボランティア、広河氏、向井さんのミーティングが始まる。
広河氏は、翌日東京に帰るということで、その前に言っておくことがあるという。 今迄にも色々と試行錯誤はあった。PTSDについての一般的な解釈では、過去の苦しみの体験の解消を最重要視するが、放射能による被害は、過去、現在、未来に常に持続し続けるトラウマであり、Post(過去)に限定されるものではなく、心身に大きな傷を与え続けるものである。というのが広河氏の見解である。
チェルノブイリの例を出す迄もなく、放射能の被害は、世代を超えて何時まで続くか、見当もつかない事態だけに、覚悟してかからねばならない。Postではなく「On going」として対応すべきだ。
この事態は、原爆被曝者が今もなお苦しみ続けていることを深く理解する必要がある。 ややもすれば、被害者の状況に引きずり込まれてしまうこともあるが、援護者と要援護者が共に溺れてしまうことを警戒すべきだ。‥‥というのが広河氏の見解であり、訓示であった。
まことに当を得た話しである。しかし、大変重く、且つ 覚悟してかからねばならない。 「この事態に対応するには、真剣に腹をくくっていかねばならぬ!」と、自分にも 他にも言ってきたのであるが、更にホゾを固めなければと、思い直した。
これは、人間力を試されることであり、私個人としては、宗教者としての正念場であると、今更ながらに心に決した夜であった。

“ 球美の里 / 久米島 ” 通信 No.7
6月22日 “球美の里"に隣接する「やちむん」(焼き物-陶器工房)で、シーサー作りをする。 親子合作の焼き物である。工房の方が、作り方を指導してくれる。夫々の性格が出て仲々、個性的なものに仕上がった。 窯で焼いて送ってくれるという。
理事長 広河氏は、午後の便で東京に帰る。
アメリカから来ていたボランティア親子、富田 恵、健達は、母親の郷里の日立那珂に寄り、アメリカに帰る為、昼頃出発した。
私は、ここ1週間の疲れが出て、午後 2時間程 横になる。
午後、激しい雷雨。現在、ボランティアは3名、6月16日夜からの、増田 満里奈。20日からの小野 真美(マッサージ)。それに私である。有給スタッフ 7名と計10名で、50人の母子をみるのは、大変である。
これが、最終日 26日まで続くのである。

“ 球美の里 / 久米島 ” 通信 No.8
6月23日、今日は「フリー デー」。と言っても基本的には、食事の世話、掃除等の仕事はある。
今日は、又 沖縄戦終結の日でもある。
9時からの久米島での慰霊祭に、向井理事とスタッフ3名、計5人が参列。
午後、久米島博物館で「平和学習会」があるというので、球美の里 の車を借り出掛けた。
博物館内で、沖縄戦と久米島での様相の説明があり、その後、関係個所を4ヶ所博物館の車で回り、4時半に終了した。
大変、勉強になった。

“ 球美の里 / 久米島 ” 通信 No.9

6月24日 午前中" ほたる館 ”に行く。
もうひと月早ければ、離島だけに「久米島源氏蛍」という固有種が、見られたという。しかし、久米島の昆虫、植物等が、多数見られ、子供達も楽しそうであった。
今の日本に、子供達が、日常的に接することができる自然がどの位残っているだろうか? 子供達の楽しそうな姿を見て、考え込んでしまった。
午後、船に乗って、「ハテの島」へ海水浴に行く。此処は、海の沖合いに出来た砂州である。沖合いだけに、海岸よりも更に海水の透明度は高く、きれいである。
「西瓜割り」をする。
放射能障害対策には、豊かな自然、特に、海は絶対の要素である。

“ 球美の里 / 久米島 ” 通信 No.10
6月25日 明日 保養者達は、福島に帰る。
午前中は、街へ出て、お土産等の買い物。
午後は、荷物の整理。子連れの10泊11日の保養には、多くの品物が必要なのだろう。
大きなスーツケースと段ボール箱にいっぱいの衣類やお土産、チョトした民族移動だ。
私のように、リックひとつでの手軽な旅とは、違うのだ。
小さな子達から「パパ、パパ」という声が出始める。母親が「パパが待っているお家に
帰ろうね」と言っているのだろう。
夜、「お別れ会」。

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