福島応援プロジェクト茨城

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“ 球美の里 / 久米島” 通信 No.11/No.12

2015年06月28日 | 保養
“ 球美の里 / 久米島” 通信 No.11
6月26日 今朝は、球美の里 とのお別れの朝
朝食は、いつもより1時間早く6時半から、フライトは2グループに分かれているので、7時半出発と、8時20分出発の2回、慌ただしく、バスに乗り込み出発した。
怒涛のような10日間の幕切れは、余り感傷の入る余地も無く、意外とアッサリしたものだった。
あんなに「オショー、オショー」と言って、抱きついたり、膝に乗ったりした幼な子達は、居なくなってしまい、建物の中は、急に静かになり、いつもより広くなった様だった。 (「オショー」‥私のこと)
保養者、スタッフ、ボランティア 計63~4人が、一体となって、10日間も過ごす体験は、極めて珍しいことである。
この体験は、私にとって、後々大きな意味を持つことになることであろう。
見送った後、気の抜けた様な、虚脱感に襲われる。 ーーあれは、嵐との遭遇だったのだろうか?!
9時半、館内の掃除、寝具の除菌、洗濯等が始まる。4時、シャワー。早目のビール。
ヤット、感傷に浸る余裕が出来る。
ナターシャ・グジーの曲を聴く。涙を流す。

“ 球美の里 / 久米島” 通信 No.12
6月27日 球美の里 / 久米島 から、私が出発する日である。
言うに言えないこともある、複雑な感情を抱いたまま、島を去ることになった。
10時過ぎ、残りの閉館作業の為、居合わせたスタッフ 女 3人、男 3人と別れの挨拶を交わし、握手して、車に乗る。運転は、池田 けい子さん。 久米島博物館まで行ってもらう。
学芸員の中島氏と会い、立ち話を15分程する。 内容は、久米島のこと、沖縄と日本との関係のこと、アメリカのこと、沖縄と本土の宗教の違い、等など短時間に盛り沢山の内容となった。
館内を一巡し、併設の図書室に行く。入り口の横に幾つかの箱があり、「整理の為、どなたでも どうぞお持ちください」と貼紙してあったので、中を覗くと、これはまた興味深い本が沢山ある。その中から数冊を頂いてきた。
リックを背負い、本を入れた袋を下げ、炎熱の長い坂道を下って行くと、坂下に野菜の無人スタンドがあり、フェリー乗り場への道を訊くと、其処にあった車で送ってくれることになり、フェリー乗り場まで乗せてもらった。
車中で話しを聞くと、県立久米島高校の先生で、名を 奥松さんという。球美の里 のボランティアのこと等、話すと興味を示し、また会いたいものだ。と言う。
12時半、フェリー乗り場に到着。2時の出港まで時間があるので、近くの食堂で昼食を摂る。
那覇泊港には、球美の里を突然辞めた田村氏が、車で迎えに来てくれる。浦添市の彼のアパートにお世話になる。
彼のアパートで、彼の手料理で、泡盛をご馳走になる。彼は、大変に料理上手だ。
彼の仕事(生き方)は、民族楽器の演奏者であり、同時にジュエリー デザイナーでもある。風変わりな人物だ。大変に多方面の能力を持つ人と見受ける。 球美の里 の最優秀スタッフであった人物である。それが、突然急に辞めるとは、全く解せない。
近く、台湾にいく予定だという。
歓談し、寝りに付く。
明日は、いよいよレンタカーで、宜野湾市から、伊江島である。
以上、“ 球美の里 / 久米島 ” 編 おわり。

🌽 大和 オショーの沖縄滞在 報告記 後編
乞うご期待 ‼️⁉️