夜噺骨董談義

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文天祥 寺崎廣業筆 明治40年頃 その135

2024-08-30 00:01:00 | 掛け軸
最近は寺崎廣業の前半期の作品が数多く入手されていますが、出所が様々であり、運よく入手できている感があります。

本日紹介する作品は、寺崎廣業が名を成し始めた頃の佳作。明治末頃の寺崎廣業の作品には名作が多いとされます。美術館などでは展覧会に出品された大正期の代表的な作品が展示されることが多いのですが、蒐集する者としてはこの頃の作品の方が見るべき作品が多いと感じています。



文天祥 寺崎廣業筆 明治40年頃 その135
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 鳥谷幡山鑑定書添付 合二重箱
全体サイズ:縦2240*横650 画サイズ:縦1270*横497
寺崎廣業遺作展覧会出品記録添付

 

文 天祥の来歴は下記のとおりです。

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文 天祥:(ぶん てんしょう)端平3年5月2日(1236年6月6日) ~至元19年12月8日(1283年1月9日))。

中国南宋末期の軍人・政治家。もとの名は雲孫(うんそん)。字は宋瑞(そうずい)、または履善(りぜん)。号は文山(ぶんざん)。吉州廬陵県富川(現在の江西省吉安市青原区富田鎮)の人。

滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。張世傑や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。父は文儀。母は曾氏。妻は欧陽氏。子は文道生(1260年 - 1278年)・文仏生ら。弟は文璧・文霆孫・文璋。

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補足すると下記のとおりです。

吉州廬陵県の官吏の文儀の子として生まれています。宝祐4年(1256年)、20歳の時に科挙を状元(首席の事)で合格していますが、その際提出された論文の題は「法天息まず」という名論文であり、試験官の王応麟をして理宗に「人材を得たことを慶賀します」と言わしめたそうです。

当時の状況は北の金は既にモンゴル帝国によって滅ぼされ、南宋は強力なモンゴル軍の侵攻に耐えていた時代です。



開慶元年(1259年)にモンゴル軍が四川に侵攻してきた際に遷都が決定されましたが、文天祥はこれに反対して任官まもなくして免官されています。

その後、復職しますが当時の宰相の賈似道との折り合いが悪く辞職すています。いったんは下野した文天祥ですがモンゴルの攻撃が激しくなると復職して元との戦いに転戦、徳祐2年(1276年)に右丞相兼枢密使となります。

そして元との和約交渉の使者とされますが、元側の伯顔との談判の後で捕らえられます。文天祥が捕らえられている間に首都の臨安が陥落し、張世傑・陸秀夫などは幼帝を奉じて抵抗を続けていました。

文天祥も元の軍中より脱出して各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けますが、至元14年(1278年)に遂に捕らえられ、大都(現在の北京)へと連行されます。



その後は死ぬまで獄中にあり、崖山に追い詰められた宋の残党軍への降伏勧告文書を書くことを求められますが『過零丁洋』の詩を送って断っています。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ」と言うような内容のようです。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受けています。



この時に文天祥は有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んでいます。何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかったそうです。朝廷でも文天祥の人気は高く隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけます。

しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めます。

文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、至元19年(1283年1月)、南(南宋の方角)に向かって拝して刑が執行されます。享年47。

クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したとそうです。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられました。

文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれます。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が靖献遺言に評伝を載せ幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っています。



戦前の尋常小學校國語讀本に文天祥の物語が掲載されていました。



「文天祥(ぶんてんしやう)」 法本義弘『淺見絅齋の靖獻遺言』文中より
「支那の宋朝の末、北方に元といふ國おこり、勢(せい)日々盛(さかん)にして、宋の領地ををかしゝかば 宋は次第に衰へてほとんど亡びんとするに至れり。宋の文天祥大いに之をうれへ、義兵を集めて國難を救はんとす。其の友之を止めていはく「羊の虎に向ふが如し、危し」と。

天祥きかずしていはく、「我もとより之を知る。唯國家の危きを如何せん」と。

出でゝ元軍に當る。然るに元軍の勢いよいよ盛にして、宋軍到る處に敗れ、皇帝・皇后も遂に敵手に落ちぬ。こゝにおいて皇兄(くわうけい)位(くらゐ)をつぐ。文天祥命(めい)を奉じ、各地に轉戰して元軍を破る。されど宋軍の大勢日々に非にして、天祥の誠忠を以てしても如何ともすることあたはず。たまたま元の大軍到るに及んで天祥大いに敗れ、遂に敵兵に捕へらる。

時に宋の勇將張世傑(ちやうせいけつ)よく戰ひて元軍を防ぐ。敵將張弘範(ちやうこうはん)如何にもして之を降らしめんとし、文天祥に命じていはく、「書をしたためて張世傑(ちやうせいけつ)を招け。」と。

天祥固くこばみていはく「我、國を救ふことあたはず、いづくんぞ人をいざなひてそむかしめんや。」と。

天祥いはく、「父母の病あつければ、醫藥(いやく)の效(かう)なきを知りても、尚治療につとむるは人情の常にあらずや。心力を盡くしてしかも救ふあたはざるは天命なり。事既にここに至る。天祥唯死せんのみ。」と。遂に獄に投ぜらる。元の皇帝深く文天祥を惜しみ、ねんごろに諭して元に仕へしめんとす。

天祥いはく「我は宋の臣なり。いづくんぞ二朝に仕へんや。願はくば我に死をたまへ。」と。帝(てい)其の志の動かすべからざるを知り、之を刑場に送らしむ。天祥刑せらるにのぞみ、從容としていはく、「臣が事終る。」と。うやうやしく南、宋の方を拜して死す。

元帝(げんてい)歎じていはく、「文天祥は眞の男兒なり。」と。

昔の尋常小学校の教育は賛否あろうが、侮っていはいけませんね。

先日、息子の授業参観で小学校6年生の授業を観ていたら吉田松陰の言葉を引用した授業をしていました。
その言葉は「夢なき者に理想なし 理想なき者に計画なし 計画なき者に実行なし 実行なき者に成功なし 故に、夢なき者に成功なし」でしたが、現在の小学校の授業も侮るなかれ・・・。

文天祥と吉田松陰には相通じるものがありますね。

作品の誂えは当時としては上等なものとなっています。



寺崎廣業遺作展覧会出品記録添付と湯沢美術鑑賞会に出品された栞が同封され、昭和乙亥(昭和10年 1935年)に記された門下の鳥谷幡山の鑑定書もあります。



叔父が所蔵していた作品の「寿老人」と同一印章が押印されています。この印章の組み合わせは非常に珍しく、当方の所蔵作品でも初めてですが、各々は資料に一致しており、真印に相違ありません。落款がまだ「二本廣業」となっています。

 

「寿老人」の落款と印章は下記の写真のとおりです。落款がいわゆる「二本廣業」から「三本廣業」に変遷する時期の明治40年頃の作品と推定されます。

累印として押印されている印章は本作品と上下が逆となっていますね。

 

以前に叔父が所蔵していた作品「寿老」は下記の作品ですが、今は子息らが手放しています。

寿老 寺崎廣業筆
水墨着色絹本共箱 
画サイズ:横416*縦1146

 

若き頃の寺崎廣業の佳作の作品はまだまだ市場にありそうですね。






























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