中村餘容は、類まれなる三絶(詩・書・画の名手)さらには篆刻を加えて四絶の人と称されその作品の素晴らしさは高く評価されていますが、餘容は、非常に優れた作品を残しながらも社会的には殆ど知れれることなくその生涯を終わっています。女性の画家です。これからもっと高く評価されるべき画家のひとりといえるでしょう。
家内がさいたま市岩槻区にある餘容館(よようかん)を訪ねました。高齢の女性がおられましたが、体調が良くなく、しばらく入院するとのことで、長期休館になるため中を観ることはできなかったそうです。
館の跡を継ぐ人もまだおらず、中村餘容先生とは館の面倒と跡を継ぐ人を見つけることを約束したとため、その方は約束を果たすまではがんばるとのことでした。
本作品で本ブログに投稿した作品は四作品目ですが、家内がすっかり中村餘容のファンとなり、本作品は家内の購入です。知らない間に本も買っていました。
なかなかいい作品が掲載されています。井上章大人??誰でしょうね。
秋景山水図 中村餘容筆
紙本水墨着色 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦2260*横560 画サイズ:縦1505*横407
箱書には「秋景山水図」と題され「丙申(1956年:昭和31年)夏の夢遊秩父長瀞醒後作此圖至丁酉(1957年:昭和32年)夏の忽然一詩成之并題恭清 藍川老禅教正 餘容女士 中村雍自題鑑 印」とあり、昭和32年頃の作と思われます。
漢詩は「水如明鏡蘸山容 客盪扁舟入亂峯 一陣天風楓葉下 満渓織出身錦重々 餘容 印」とあります。
中村餘容:(1904~1982) 埼玉県は武州岩槻の出身。名は雍子。号は餘容。別に一葦の号が有る。明治37年東京神田に生まれ、書・画・詩・禅・を学び、餘容は、非常に優れた作品を残しながらも社会的には殆ど知られることなく南画家として一生を終わる。
著書に「孤雲詩画集」がある。類まれなる三絶(詩・書・画の名手)さらには篆刻を加えて四絶の人と称されその作品の素晴らしさは高く評価されている。
中国では芍薬を "よよう" と称し、餘容は、この花をこよなく愛し多くの作品を描き自身の名とした。
「水如明鏡蘸山容 客盪扁舟入亂峯 一陣天風楓葉下 満渓織出身錦重」・・・長瀞の紅葉にすっかり心奪われた心情がうかがい知れる逸品です。
せめて埼玉県内に在住する方々だけでもこの画家を再評価してあげたらと思います。きっと知らない人が多いのでしょう。地元に住む人は地元の歴史や文化を知らなくてはいけないと思います。日本人は非常にそういう面には努力が希薄です。
家内がさいたま市岩槻区にある餘容館(よようかん)を訪ねました。高齢の女性がおられましたが、体調が良くなく、しばらく入院するとのことで、長期休館になるため中を観ることはできなかったそうです。
館の跡を継ぐ人もまだおらず、中村餘容先生とは館の面倒と跡を継ぐ人を見つけることを約束したとため、その方は約束を果たすまではがんばるとのことでした。
本作品で本ブログに投稿した作品は四作品目ですが、家内がすっかり中村餘容のファンとなり、本作品は家内の購入です。知らない間に本も買っていました。
なかなかいい作品が掲載されています。井上章大人??誰でしょうね。
秋景山水図 中村餘容筆
紙本水墨着色 軸先木製 共箱
全体サイズ:縦2260*横560 画サイズ:縦1505*横407
箱書には「秋景山水図」と題され「丙申(1956年:昭和31年)夏の夢遊秩父長瀞醒後作此圖至丁酉(1957年:昭和32年)夏の忽然一詩成之并題恭清 藍川老禅教正 餘容女士 中村雍自題鑑 印」とあり、昭和32年頃の作と思われます。
漢詩は「水如明鏡蘸山容 客盪扁舟入亂峯 一陣天風楓葉下 満渓織出身錦重々 餘容 印」とあります。
中村餘容:(1904~1982) 埼玉県は武州岩槻の出身。名は雍子。号は餘容。別に一葦の号が有る。明治37年東京神田に生まれ、書・画・詩・禅・を学び、餘容は、非常に優れた作品を残しながらも社会的には殆ど知られることなく南画家として一生を終わる。
著書に「孤雲詩画集」がある。類まれなる三絶(詩・書・画の名手)さらには篆刻を加えて四絶の人と称されその作品の素晴らしさは高く評価されている。
中国では芍薬を "よよう" と称し、餘容は、この花をこよなく愛し多くの作品を描き自身の名とした。
「水如明鏡蘸山容 客盪扁舟入亂峯 一陣天風楓葉下 満渓織出身錦重」・・・長瀞の紅葉にすっかり心奪われた心情がうかがい知れる逸品です。
せめて埼玉県内に在住する方々だけでもこの画家を再評価してあげたらと思います。きっと知らない人が多いのでしょう。地元に住む人は地元の歴史や文化を知らなくてはいけないと思います。日本人は非常にそういう面には努力が希薄です。
で、漢詩が趣味でした。年に何度か自宅に仲間をまねき 詩会を開いておりました。祖父の先生は根岸霊鳳 という方で、そのまた先生が、中村よう先生でした。一昨年母が亡くなり、その遺品の中から、中村よう先生の筆書きのお手紙が出てきました。祖父の亡くなった時にいただいたものです。敬弔で始まる美しい 文字のお手紙。墨で書かれた白蓮の色紙2枚。大変優雅な絵に美しい手の漢字。美しいものです。子供のころ中村先生のお名前は聞き覚えがありましたが、すっかりわすれておりました。色紙がでてきて、こちらのページにたどりつきました。祖父たちが漢詩をたしなんでおりした昭和40年代、いまよりずっと教養高い文化の薫り高い時代だったと思います。日本人は大事なものたくさん捨ててしまったものですね。
本ブログに投稿された画家や陶芸家などの作品と縁のある方の投稿には各々思い出があり、素晴らしいコメントになっていることは投稿する私としても非常に嬉しいものです。引き続き愛読していただけると嬉しく思います。
そう日本人は誇るべき文化をたくさん捨ててしまっていますね。
家内ともども「中村餘容」の作品はお気に入りです。また機会がありましたら投稿したいと思います。
古美術品店で作品を入手したいと探しましたが見つかりませんでした。詩画集は手に入りましたが餘容館も閉館中で残念です。確かにもっと知られてほしい人です。
中村餘容から依頼された方が、一時閉館して療養から復帰されたらまた開館すると家内が管理されている方から聞いてきたのが4年くらい前? まだ開館していたころですが・・。
埼玉には奥原晴湖や中村餘容などもっと評価されていい画家がいるのですが、現代人には楽しめる余裕と素養がないのかもしれません。