家内らは小生が出勤時に「雛祭り茶事」を催したらしい・・。
小生分のお菓子は「残しておいたよ!」と息子・・。茶筅でお茶をたてた??
茶碗は熱いらしく、ティッシュを当てるらしい?
さて本日は手元には印章の資料なども無く、真贋なども不明で、ひと目見たら誰も買う人も無いような作品。それを購入するのはひとえに物好き以外のなにものでもない。
湖畔山家図 伝紀楳亭筆 その8
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1680*横405 画サイズ:縦1120*横270
落款は「湘南九老 押印」とあり、印章は「紀時敏印」の白文朱方印と「楳亭図書之印」の主文朱長方印が押印されています。
この落款は寛政年間(18世紀末)、紀楳亭が大津に移り住んだ時期の制作と考えらます。落款と印章は文献資料と比較しています。(左:本作品 右:文献資料)*以下同じ
大津に住んでからは、縁起の良い吉祥物や、温和でのどかな山水画、そして軽妙な俳画を近所の商家のために描いて好評を博していました。
湖南の穏やかな風光や、気さくな人々たちとの交遊が、彼の画風にも影響を与え,コミカルな表情をみせる点で、面白さと斬新さを感じさせる作品が、ほのぼのとした彼のお人柄とともに大津の人々に慕われたそうです。
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紀楳亭:名は時敏、字(あざな)は子恵といい、巌郁(がんいく)、楳亭とも号し、のちに九老と号した。与謝蕪村(1716~83)に師事して、画と俳諧をまなんだ。楳亭は蕪村の画風の忠実な継承者であったので、近江蕪村とよばれた。1788年(天明8)の京都の大火にみまわれ大津に身を寄せ、27年間とどまり、俳画、大津絵写、美人画、道釈人物画、山水画と多様な画題の作品を制作した。大津時代の楳亭の署名は「湖南九老」を冠してもちいた。楳亭は1810年(文化7)7月7日、77歳でその生涯を閉じた。
購入後に印影を掲載している資料を見つけました。本作品の印章は非常に類例の少ない印章を押印しているようで、たくさん掲載されている作品の1,2作品にありました。
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このような風景は現実には存在しないように思います。崖の路を繋ぐように家が建っている異様な景色と山並み・・。
印象に残る風景を自由に描いた作品です。
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補足
山城国鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。名は時敏、字は子恵、仲文。大津移住以前は、「巖」姓と、名に「郁」を用いて巖郁と称し、移住後は紀姓を名乗った。還暦後は九老という号で署名しており、大津の人々にも「九老さん」と親しまれている。
はじめ蕪村の友人であった文人・岩城藍田に、家僕として働いていた。藍田は楳亭の画才を見抜き、蕪村入門を仲介したという。当初名乗った「巖」姓は、その恩義から岩城を1字に修めた名乗りとも考えられる。蕪村に絵と俳諧を学び、松村月渓(呉春)と共に親しく仕えた。安永7年(1778年)以前に剃髪し、楳亭と称する。楳亭の史料上の初見は、天明2年(1782年)版『平安人物志』で、画家の部の21番目に記載されており(蕪村は4番目)、この時点で師から独立した画人として京で認知されていたことがわかる。翌年の12月に蕪村が亡くなると、追善集『から檜葉』に「夜や昼や 涙にわかぬ 雪くもり」と師を悼む句を寄せている。
天明8年(1788年)1月に天明の大火で焼き出されると、同門で南画をよくした大津石川町長寿寺の住職・龍賀の元に身を寄せる。近隣の両替商で俳諧を嗜む中村愈鄂に借家を世話してもらい、以後大津に居を定めた。
翌年、同じく大津に移ってきた娘さとを、大家の罹災が原因と推察されますが、亡くしてしまいます。楳亭作品は寛政年間前期以前の現存作品が少ないですが、大火以前に手掛けた作品の焼失と、移住後まもなくの身内の不幸が原因だと考えらています。
大きな「楳亭図書之印」の主文朱長方印はこれも類例を探しても、資料には下記の2作品しかありませんでした。印が全体に太いのが気になりますが・・。
移住は、楳亭の画人としてのあり方に少なからず影響を与えたようで、例えば、それまで画号を中国風の「巖郁(がんいく)」としていましたが、移住後は姓を「紀」とし、名に「楳亭」、「槑美(ばいび)」を用いるようになります。これは当時の京を席巻していた漢学や中国文化から少し距離を置いて、移住地・大津に溶け込んでいったためと考えられています。
「楳亭図書之印」の主文朱長方印が押印された参考作品、この作品を知っている方は多いと思います。
さらに還暦後の作品には、俗名の立花屋九兵衛によってか、「九老」と署名するようになります。
その後、大津の人々との交流を通じて立ち直り、多くの作品を残しています。大津移住後の作品を概観すると、福禄寿や恵比須などといった神仙(仙人)を描いた、いわゆる縁起物の作品が多いことに気づかされます。これは大津町人から長寿や商売繁盛を願った作品の注文を受けていたためと思われます。
また楳亭が思う存分才能を発揮できたのもこの大津町人の経済的基盤があったためともいえます。
享年77歳。墓は小関町の共同墓地。大津鍵屋町の借家跡には、「紀楳亭居住之地」の標石が建っている。
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当然保存箱もなく、シミもあり、痛んだ本作品・・、黴臭くて嫌だという御仁もおられるでしょうが、打ち捨てることには逡巡する私のような物好きもこの世にはいるのです。
さて、残ったお菓子でお茶でも飲もうかな?
小生分のお菓子は「残しておいたよ!」と息子・・。茶筅でお茶をたてた??
茶碗は熱いらしく、ティッシュを当てるらしい?
さて本日は手元には印章の資料なども無く、真贋なども不明で、ひと目見たら誰も買う人も無いような作品。それを購入するのはひとえに物好き以外のなにものでもない。
湖畔山家図 伝紀楳亭筆 その8
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1680*横405 画サイズ:縦1120*横270
落款は「湘南九老 押印」とあり、印章は「紀時敏印」の白文朱方印と「楳亭図書之印」の主文朱長方印が押印されています。
この落款は寛政年間(18世紀末)、紀楳亭が大津に移り住んだ時期の制作と考えらます。落款と印章は文献資料と比較しています。(左:本作品 右:文献資料)*以下同じ
大津に住んでからは、縁起の良い吉祥物や、温和でのどかな山水画、そして軽妙な俳画を近所の商家のために描いて好評を博していました。
湖南の穏やかな風光や、気さくな人々たちとの交遊が、彼の画風にも影響を与え,コミカルな表情をみせる点で、面白さと斬新さを感じさせる作品が、ほのぼのとした彼のお人柄とともに大津の人々に慕われたそうです。
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紀楳亭:名は時敏、字(あざな)は子恵といい、巌郁(がんいく)、楳亭とも号し、のちに九老と号した。与謝蕪村(1716~83)に師事して、画と俳諧をまなんだ。楳亭は蕪村の画風の忠実な継承者であったので、近江蕪村とよばれた。1788年(天明8)の京都の大火にみまわれ大津に身を寄せ、27年間とどまり、俳画、大津絵写、美人画、道釈人物画、山水画と多様な画題の作品を制作した。大津時代の楳亭の署名は「湖南九老」を冠してもちいた。楳亭は1810年(文化7)7月7日、77歳でその生涯を閉じた。
購入後に印影を掲載している資料を見つけました。本作品の印章は非常に類例の少ない印章を押印しているようで、たくさん掲載されている作品の1,2作品にありました。
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このような風景は現実には存在しないように思います。崖の路を繋ぐように家が建っている異様な景色と山並み・・。
印象に残る風景を自由に描いた作品です。
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補足
山城国鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。名は時敏、字は子恵、仲文。大津移住以前は、「巖」姓と、名に「郁」を用いて巖郁と称し、移住後は紀姓を名乗った。還暦後は九老という号で署名しており、大津の人々にも「九老さん」と親しまれている。
はじめ蕪村の友人であった文人・岩城藍田に、家僕として働いていた。藍田は楳亭の画才を見抜き、蕪村入門を仲介したという。当初名乗った「巖」姓は、その恩義から岩城を1字に修めた名乗りとも考えられる。蕪村に絵と俳諧を学び、松村月渓(呉春)と共に親しく仕えた。安永7年(1778年)以前に剃髪し、楳亭と称する。楳亭の史料上の初見は、天明2年(1782年)版『平安人物志』で、画家の部の21番目に記載されており(蕪村は4番目)、この時点で師から独立した画人として京で認知されていたことがわかる。翌年の12月に蕪村が亡くなると、追善集『から檜葉』に「夜や昼や 涙にわかぬ 雪くもり」と師を悼む句を寄せている。
天明8年(1788年)1月に天明の大火で焼き出されると、同門で南画をよくした大津石川町長寿寺の住職・龍賀の元に身を寄せる。近隣の両替商で俳諧を嗜む中村愈鄂に借家を世話してもらい、以後大津に居を定めた。
翌年、同じく大津に移ってきた娘さとを、大家の罹災が原因と推察されますが、亡くしてしまいます。楳亭作品は寛政年間前期以前の現存作品が少ないですが、大火以前に手掛けた作品の焼失と、移住後まもなくの身内の不幸が原因だと考えらています。
大きな「楳亭図書之印」の主文朱長方印はこれも類例を探しても、資料には下記の2作品しかありませんでした。印が全体に太いのが気になりますが・・。
移住は、楳亭の画人としてのあり方に少なからず影響を与えたようで、例えば、それまで画号を中国風の「巖郁(がんいく)」としていましたが、移住後は姓を「紀」とし、名に「楳亭」、「槑美(ばいび)」を用いるようになります。これは当時の京を席巻していた漢学や中国文化から少し距離を置いて、移住地・大津に溶け込んでいったためと考えられています。
「楳亭図書之印」の主文朱長方印が押印された参考作品、この作品を知っている方は多いと思います。
さらに還暦後の作品には、俗名の立花屋九兵衛によってか、「九老」と署名するようになります。
その後、大津の人々との交流を通じて立ち直り、多くの作品を残しています。大津移住後の作品を概観すると、福禄寿や恵比須などといった神仙(仙人)を描いた、いわゆる縁起物の作品が多いことに気づかされます。これは大津町人から長寿や商売繁盛を願った作品の注文を受けていたためと思われます。
また楳亭が思う存分才能を発揮できたのもこの大津町人の経済的基盤があったためともいえます。
享年77歳。墓は小関町の共同墓地。大津鍵屋町の借家跡には、「紀楳亭居住之地」の標石が建っている。
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当然保存箱もなく、シミもあり、痛んだ本作品・・、黴臭くて嫌だという御仁もおられるでしょうが、打ち捨てることには逡巡する私のような物好きもこの世にはいるのです。
さて、残ったお菓子でお茶でも飲もうかな?