先週末には暖かくなったので家族4人で犬の体洗い。息子もお手伝い、愛犬は「4人がかりかよ、勘弁してくれよ。」と言っているようでした。急激な天候の変化か、幼稚園通園のせいか息子は鼻水に、夜は咳をする症状がありました。
予想したように一昨夜は息子が幼稚園から帰ってきてすぐに熱を出して病院へいったらしい。小生が帰宅すると安心したのかダウン・・。付き添うと寝ましたが、高熱と吐いて薬をもどしていまうということに・・。なんとかその後ぐっすり寝ました。生まれてから3度目の熱ですが、少ないほうと思っていましたが、幼稚園に通うようになるとこういうことが多くなるのでしょう。朝にはまだ熱が少しありますが、本人はいたって元気になりました。
さて前回、島岡達三の大皿の作品紹介にて取り上げましたが、平成天皇が退位を表明された会見に際して後ろに飾られていた作品は「島岡達三の象嵌の大皿」のようです。
その背景には下記のようなことがあると推察されている記事がありました。
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島岡達三の師である濱田庄司の元を天皇陛下が訪問されていたことがあります。詳しくはわかりませんが、そうしたご縁から島岡達三とも交流があったかもしれません。
最終的には島岡達三氏と現在の天皇陛下に直接の交流があったかどうかはわかりませんでしたが、栃木県益子町には、陛下ゆかりの場所「平成館」があります。元々は日光市に建っていた「南間(なんま)ホテル」を移築したもので、太平洋戦争終結を伝える昭和天皇の「玉音放送」を、皇太子だった陛下が聞いた部屋だそうです。朝日新聞によると、「しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた」と、学習院軍事教官として立ち会った高杉善治さんが著書に残しているそうです。
1996年に天皇・皇后両陛下は益子焼などの地方産業視察のために益子町を訪れ、この部屋で昼食をとった際に、天皇陛下は疎開当時を非常に懐かしがったという記録が残っています。
宮内庁総務課によると、退位に触れたビデオメッセージを収録したのは御所の応接室だそうです。大皿などは普段からこの部屋に置かれているものだそうですが、詳細な品名や作者などは「分からない」との回答でした。しかし、読み上げられた「お気持ち」の冒頭は「戦後70年」で始まっています。益子焼は陛下にとって戦争終結と関わりのある思い出の品なのかもしれません。
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骨董と時代・・、いろんなことがあるものです。詳しくは島岡達三の大皿を紹介している本ブログの記事を参考にして下さい。
本日は島岡達三の茶碗二作品の紹介です。
塩釉象嵌縄文碗 島岡達三作
共箱
口径142*高さ75*高台径60
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島岡 達三(しまおか たつぞう):1919年(大正8年)10月27日 - 2007年(平成19年)12月11日)は陶芸家。東京出身。父は、組紐師島岡米吉。師は、浜田庄司。島岡達三は重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」の保持者に認定されており、益子の土と釉薬を用いて、組紐を転がした器面の押し跡に化粧土を埋める縄文象嵌の技法を確立した陶芸家として活躍を見せました。
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栞から昭和40年頃の作品かと思われます。
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1938年(昭和13年) 府立高等学校在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめる。
1941年(昭和16年) 東京工業大学窯業学科卒業。
1954年(昭和29年) 益子に築窯。
1964年(昭和39年) 日本民芸館賞受賞。
1980年(昭和55年) 栃木県文化功労章受章。
1994年(平成6年) 日本陶磁協会賞金賞受賞。
1996年(平成8年)5月10日 民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1999年(平成11年) 勲四等旭日小綬章受章。
2007年(平成19年) 12月11日没・享年88
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浜田庄司が再興した塩釉の作品ですが、浜田庄司や島岡達三の作品には、高台の畳付の貝殻の跡があるのが特徴です。
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縄文象嵌(じょうもんぞうがん):作品に縄目を施して色の違う土をはめ込む(象嵌する)技法です。その概要は成形した作品が半乾きの状態で縄を転がして模様をつけます。次に縄模様の凹んだ部分を含め、全体に化粧土を塗ります。そして乾燥したら表面を薄く削り取るという工程です。すると縄で凹んだ部分には化粧土が残り、もともと平らな部分は化粧土がはがれて下地があらわれます。本焼きはこれに透明釉をかけて焼成します。
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「塩釉」については本ブログを読まれている方はご存知かと思います。浜田庄司についての説明時に説明していますので、ここでは省略させていただきます。
見込みの釉薬の味わいが茶碗としての趣を深くしています。
もうひとつの共箱がない作品。インターネットで購入した作品で1万5千円程度で落札。手元に真作があると真贋の判断は容易です。島岡達三の茶碗ですと、値段の相場は共箱があっても5万前後、浜田庄司はその2倍から4倍程度です。むろん出来や釉薬、絵付のよって大きく違います。
地釉縄文象嵌筒盌 島岡達三作
合箱
口径120*高さ44*高台径60
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補足説明
島岡達三(しまおか たつぞう1919年~2007年):組紐師である島岡米吉の長男として東京に生まれます。組紐(くみひも)とは複数の紐をより合わせて織った紐のことです。のちの縄模様につながる重要な生い立ちといえます。
東京工業大学に入学した年の19歳のころ島岡氏は目黒区駒場にある「日本民藝館」でみた民芸作品に感銘を受けました。民芸運動の実践者である「濱田庄司」氏らの作品を見て心から感動し、民芸陶器を志そうと決心しました。そして民芸運動の中核メンバーである栃木県益子の濱田庄司を訪ねます。そして大学卒業後の入門を許されます。
戦時を経て復員後の昭和21年(1946年)、両親を伴い益子町に移り住み本格的に陶芸の道を歩み始め、濱田氏の門弟として陶技を磨きます。その後は栃木県窯業指導所に勤務します。そこで古代土器の標本を作るなど縄文土器の知識を深めます。
益子に移住してから7年、1953年に独立して自分の窯を持ちます。34歳のころでした。この時期には縄文象嵌の基本形は出来ていたといわれます。濱田とそっくりな物ばかり作っていたので、濱田氏から自分の個性を発揮した焼物を想像せよと言われた島岡氏。古代土器複製の仕事を手伝った経験や、組み紐師だった父の多種多様な文様、朝鮮李朝陶器の象嵌技術に大きな影響を受け、「縄文象嵌」という、独自の技法を生み出しました。すなわち縄文と象嵌の組合せです。
縄の文様は生家での実体験と、後年の縄文土器の復元で基本は身に付けています。さらに象嵌の技術は民芸に感動したという過去から、李朝の三島手などからヒントを得たものでしょう。こうした縄文象嵌に加えて、白い窓絵を設けて中に赤絵で描画したり、象嵌に青・黒色の土を用いるなど別の技法との組合せを試みています。
釉薬は透明釉である並白(なみじろ)釉が一般的に使われました。灰釉の一種で益子では馴染みの釉薬です。こうした独自の技法のほか、やはり濱田庄司の影響も当然受けていると思います。たとえばロウソクで白抜きした窓絵、釉の流しかけ、柿釉をはじめとする鉄釉・塩釉、赤絵の筆致など濱田氏の作風を範としながらも、島岡氏の作品には独特の世界を持っています。常に登り窯で焼く自身の原点を忘れることなく、その作品はゆったりとしたぬくもりのある温和な雰囲気の世界を表現しています。
師に続いて平成8年(1996年)に重要無形文化財保持者「人間国宝(民芸陶器・縄文象嵌)」に、2002年には、「栃木県名誉県民・第一号」に認定されました。2007年12月に没するまで、旺盛な芸術文化活動に奔走し「益子焼」の名を世界的に広めました。
生家での組紐から体得した技を縄目文様であらわし、象嵌と組み合わせる事で独自の境地を見出し、用の美という命題にしたがって益子における一つの作風を確立した陶芸家といえます。
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こちらの作品は最初の作品に比べると筒茶碗としても高さがあり、見込みが深いので茶碗としては使いづらい部類となります。正式な席での茶碗としては風格に欠けるきらいもあります。
民藝の作品に分類される茶碗はえてして風格という茶碗の持つべき最大の要所を持たないところがあります。このあたりを踏まえて民藝の茶碗は選定しないと、あとあと目が利いてくると飽きがくることになりかねません。
さて浜田庄司の贋作は多々ありますが、島岡達三の作品の贋作は小生はまだ見たことがありません。作品数が多く、また縄文象嵌の贋作が作りにくかったこともあるかもしれませんね。共箱が失われた作品とはいえ、小生にとっては共箱の有無は評価に関係ありません。
筒茶碗の浜田庄司と島岡達三の作品を並べてみたものです。やはり浜田庄司の茶碗には風格があります。
さて浜田庄司の作品と称するものには非常に贋作が多いようです。また窯作品、工房作品の作品も個人作として売られていますので要注意です。
何度も記述していますが、共箱の印に使われる朱肉は特殊なもので、この色がどす黒い朱であることがひとつの判断基準になります。ただこのことは大概の愛好家は知っているので、朱肉の色を変えたり、箱は本物、中身は偽物というややこしい作品が出回ることになります。
またこの印以外の印は工房作品か贋作です。ただ初期の作品はこの印でないこともあるかもしれません。花押のみというのは見たことがなく、本来は花押と印章はセットです。印章のかわりの花押だけの作品も疑ってかかる必要があります。
どのような本やインターネット記事にも真贋の見分け方など決め手になるよう記事は見当たりません。このブログがなんらかの参考になればと思いますが、インターネットオークションが広まる今こそ、真贋の区分をきちんとすべきでしょうね。
予想したように一昨夜は息子が幼稚園から帰ってきてすぐに熱を出して病院へいったらしい。小生が帰宅すると安心したのかダウン・・。付き添うと寝ましたが、高熱と吐いて薬をもどしていまうということに・・。なんとかその後ぐっすり寝ました。生まれてから3度目の熱ですが、少ないほうと思っていましたが、幼稚園に通うようになるとこういうことが多くなるのでしょう。朝にはまだ熱が少しありますが、本人はいたって元気になりました。
さて前回、島岡達三の大皿の作品紹介にて取り上げましたが、平成天皇が退位を表明された会見に際して後ろに飾られていた作品は「島岡達三の象嵌の大皿」のようです。
その背景には下記のようなことがあると推察されている記事がありました。
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島岡達三の師である濱田庄司の元を天皇陛下が訪問されていたことがあります。詳しくはわかりませんが、そうしたご縁から島岡達三とも交流があったかもしれません。
最終的には島岡達三氏と現在の天皇陛下に直接の交流があったかどうかはわかりませんでしたが、栃木県益子町には、陛下ゆかりの場所「平成館」があります。元々は日光市に建っていた「南間(なんま)ホテル」を移築したもので、太平洋戦争終結を伝える昭和天皇の「玉音放送」を、皇太子だった陛下が聞いた部屋だそうです。朝日新聞によると、「しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた」と、学習院軍事教官として立ち会った高杉善治さんが著書に残しているそうです。
1996年に天皇・皇后両陛下は益子焼などの地方産業視察のために益子町を訪れ、この部屋で昼食をとった際に、天皇陛下は疎開当時を非常に懐かしがったという記録が残っています。
宮内庁総務課によると、退位に触れたビデオメッセージを収録したのは御所の応接室だそうです。大皿などは普段からこの部屋に置かれているものだそうですが、詳細な品名や作者などは「分からない」との回答でした。しかし、読み上げられた「お気持ち」の冒頭は「戦後70年」で始まっています。益子焼は陛下にとって戦争終結と関わりのある思い出の品なのかもしれません。
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骨董と時代・・、いろんなことがあるものです。詳しくは島岡達三の大皿を紹介している本ブログの記事を参考にして下さい。
本日は島岡達三の茶碗二作品の紹介です。
塩釉象嵌縄文碗 島岡達三作
共箱
口径142*高さ75*高台径60
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島岡 達三(しまおか たつぞう):1919年(大正8年)10月27日 - 2007年(平成19年)12月11日)は陶芸家。東京出身。父は、組紐師島岡米吉。師は、浜田庄司。島岡達三は重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」の保持者に認定されており、益子の土と釉薬を用いて、組紐を転がした器面の押し跡に化粧土を埋める縄文象嵌の技法を確立した陶芸家として活躍を見せました。
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栞から昭和40年頃の作品かと思われます。
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1938年(昭和13年) 府立高等学校在学中に日本民藝館を訪れ、民芸の美に目ざめる。
1941年(昭和16年) 東京工業大学窯業学科卒業。
1954年(昭和29年) 益子に築窯。
1964年(昭和39年) 日本民芸館賞受賞。
1980年(昭和55年) 栃木県文化功労章受章。
1994年(平成6年) 日本陶磁協会賞金賞受賞。
1996年(平成8年)5月10日 民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1999年(平成11年) 勲四等旭日小綬章受章。
2007年(平成19年) 12月11日没・享年88
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浜田庄司が再興した塩釉の作品ですが、浜田庄司や島岡達三の作品には、高台の畳付の貝殻の跡があるのが特徴です。
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縄文象嵌(じょうもんぞうがん):作品に縄目を施して色の違う土をはめ込む(象嵌する)技法です。その概要は成形した作品が半乾きの状態で縄を転がして模様をつけます。次に縄模様の凹んだ部分を含め、全体に化粧土を塗ります。そして乾燥したら表面を薄く削り取るという工程です。すると縄で凹んだ部分には化粧土が残り、もともと平らな部分は化粧土がはがれて下地があらわれます。本焼きはこれに透明釉をかけて焼成します。
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「塩釉」については本ブログを読まれている方はご存知かと思います。浜田庄司についての説明時に説明していますので、ここでは省略させていただきます。
見込みの釉薬の味わいが茶碗としての趣を深くしています。
もうひとつの共箱がない作品。インターネットで購入した作品で1万5千円程度で落札。手元に真作があると真贋の判断は容易です。島岡達三の茶碗ですと、値段の相場は共箱があっても5万前後、浜田庄司はその2倍から4倍程度です。むろん出来や釉薬、絵付のよって大きく違います。
地釉縄文象嵌筒盌 島岡達三作
合箱
口径120*高さ44*高台径60
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補足説明
島岡達三(しまおか たつぞう1919年~2007年):組紐師である島岡米吉の長男として東京に生まれます。組紐(くみひも)とは複数の紐をより合わせて織った紐のことです。のちの縄模様につながる重要な生い立ちといえます。
東京工業大学に入学した年の19歳のころ島岡氏は目黒区駒場にある「日本民藝館」でみた民芸作品に感銘を受けました。民芸運動の実践者である「濱田庄司」氏らの作品を見て心から感動し、民芸陶器を志そうと決心しました。そして民芸運動の中核メンバーである栃木県益子の濱田庄司を訪ねます。そして大学卒業後の入門を許されます。
戦時を経て復員後の昭和21年(1946年)、両親を伴い益子町に移り住み本格的に陶芸の道を歩み始め、濱田氏の門弟として陶技を磨きます。その後は栃木県窯業指導所に勤務します。そこで古代土器の標本を作るなど縄文土器の知識を深めます。
益子に移住してから7年、1953年に独立して自分の窯を持ちます。34歳のころでした。この時期には縄文象嵌の基本形は出来ていたといわれます。濱田とそっくりな物ばかり作っていたので、濱田氏から自分の個性を発揮した焼物を想像せよと言われた島岡氏。古代土器複製の仕事を手伝った経験や、組み紐師だった父の多種多様な文様、朝鮮李朝陶器の象嵌技術に大きな影響を受け、「縄文象嵌」という、独自の技法を生み出しました。すなわち縄文と象嵌の組合せです。
縄の文様は生家での実体験と、後年の縄文土器の復元で基本は身に付けています。さらに象嵌の技術は民芸に感動したという過去から、李朝の三島手などからヒントを得たものでしょう。こうした縄文象嵌に加えて、白い窓絵を設けて中に赤絵で描画したり、象嵌に青・黒色の土を用いるなど別の技法との組合せを試みています。
釉薬は透明釉である並白(なみじろ)釉が一般的に使われました。灰釉の一種で益子では馴染みの釉薬です。こうした独自の技法のほか、やはり濱田庄司の影響も当然受けていると思います。たとえばロウソクで白抜きした窓絵、釉の流しかけ、柿釉をはじめとする鉄釉・塩釉、赤絵の筆致など濱田氏の作風を範としながらも、島岡氏の作品には独特の世界を持っています。常に登り窯で焼く自身の原点を忘れることなく、その作品はゆったりとしたぬくもりのある温和な雰囲気の世界を表現しています。
師に続いて平成8年(1996年)に重要無形文化財保持者「人間国宝(民芸陶器・縄文象嵌)」に、2002年には、「栃木県名誉県民・第一号」に認定されました。2007年12月に没するまで、旺盛な芸術文化活動に奔走し「益子焼」の名を世界的に広めました。
生家での組紐から体得した技を縄目文様であらわし、象嵌と組み合わせる事で独自の境地を見出し、用の美という命題にしたがって益子における一つの作風を確立した陶芸家といえます。
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こちらの作品は最初の作品に比べると筒茶碗としても高さがあり、見込みが深いので茶碗としては使いづらい部類となります。正式な席での茶碗としては風格に欠けるきらいもあります。
民藝の作品に分類される茶碗はえてして風格という茶碗の持つべき最大の要所を持たないところがあります。このあたりを踏まえて民藝の茶碗は選定しないと、あとあと目が利いてくると飽きがくることになりかねません。
さて浜田庄司の贋作は多々ありますが、島岡達三の作品の贋作は小生はまだ見たことがありません。作品数が多く、また縄文象嵌の贋作が作りにくかったこともあるかもしれませんね。共箱が失われた作品とはいえ、小生にとっては共箱の有無は評価に関係ありません。
筒茶碗の浜田庄司と島岡達三の作品を並べてみたものです。やはり浜田庄司の茶碗には風格があります。
さて浜田庄司の作品と称するものには非常に贋作が多いようです。また窯作品、工房作品の作品も個人作として売られていますので要注意です。
何度も記述していますが、共箱の印に使われる朱肉は特殊なもので、この色がどす黒い朱であることがひとつの判断基準になります。ただこのことは大概の愛好家は知っているので、朱肉の色を変えたり、箱は本物、中身は偽物というややこしい作品が出回ることになります。
またこの印以外の印は工房作品か贋作です。ただ初期の作品はこの印でないこともあるかもしれません。花押のみというのは見たことがなく、本来は花押と印章はセットです。印章のかわりの花押だけの作品も疑ってかかる必要があります。
どのような本やインターネット記事にも真贋の見分け方など決め手になるよう記事は見当たりません。このブログがなんらかの参考になればと思いますが、インターネットオークションが広まる今こそ、真贋の区分をきちんとすべきでしょうね。