夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

呉州赤絵写草花魚文火入 伝奥田頴川作

2022-01-04 00:01:00 | 陶磁器
今回の帰郷は大雪。新幹線で向かった新青森で足止め。即座の判断でタクシーで弘前へ、ただし高速道路は通行止め。雪で渋滞しましたがなんとか弘前から電車へ乗れました。仕事始めの日ですが、年末年始は帰郷しているので軽く書いた投稿、そんな時は「伝」の作品。

呉州赤絵写草花魚文火入 伝奥田頴川作
高台内銘 合古箱
全体サイズ:口径120*高台径*高さ83



頴川の作の特徴は、明の呉州赤絵の写しとは思えないほど萎縮したところが全く無く、むしろ本歌を圧倒する豪快な雰囲気があることであるそうです。



頴川には魚、兎、鳥、変形した龍、鳳凰をスピード溢れるタッチで描く才があります。



作品の底には砂が着いていることが多く、なすりつけられたようなドロドロした釉薬の特徴があり、やや青灰色を帯びた白磁釉はドロリと厚めに掛けられ、たまりが見られ、また一部掛け外しが見られるようです。さらに一部ではカイラギになっていることもあります。



頴川特有の筆の走りはあたかもその人だけのサインのように他人には真似ができない。頴川は作品には殆ど銘を入れず、よほどの力作でないかぎり落款はないとされ、箱書は皆無のようです。



無論、その特徴を掴んだ贋作が存在しており、代表的なのは村田寿九郎や頴川の門人の楽只亭嘉助らとされますが、実にがうまいとされていますが、一方で完全には摸作できていないとされます。



奥田頴川は宝暦3年生まれ~文化8年に没しています(1753年~1811年)。本名を頴川庸徳といい,通称茂右衛門。縁あって質商奥田家を継承。ちなみに頴川は自分の旧姓とされます。祖先は頴川郡(現中華人民共和国河南省)の出身。京都で代々質屋を営んでいたようです。 しかし根っからの道楽もので商売は全て番頭任せ、読書に耽り芸事に精を出す悠々自適の生活を送っていました。



頴川も三十代まで家業を営んでいましが作陶を志し,清水焼の名工海老屋清兵衛に師事し、自らの窯を奥田家と縁が深い建仁寺内に開窯しました。その頃京には日本最初の磁器伊万里焼が大量にもたらされており、これに刺激を受けた頴川は磁器焼成に挑戦すべく一念発起し、折りしも伊万里の技法を取り入れたばかりの瀬戸を訪ね研鑽を積みました。 試行錯誤を重ね、京都近郊の比良山と鹿背山の土を混ぜる製法にたどり着き、青華白磁(天啓染付)呉須赤絵、交趾焼等の焼成に成功し、京都に於いて不可能だった磁器を開発したとされます。



その作行きは中国民窯の自由奔放、豪放磊落さを写しだし完成の域に達しています。中国から原材料を取り寄せたりしており、虫喰いや砂付高台、釉薬の具合まで明末の作品に倣ったとされます。

釉薬の剥がれは本歌(明末呉須赤絵)の作品にはよくあることです。明末に政治的不安定から官窯から民窯の移行し、危険度の高い掘削による良質の陶土を採るより、掘削のたやすい質の悪い陶土を使用したために収縮率が不安定になり釉薬の付きが悪くなったとされます。虫喰いなどもそれが原因とされますが、虫喰いは蝋などの細工で作為的に再現できたりしますが、さすがに色絵部分までは再現できないので、少なくても本作品は明末赤絵の可能性はあるようです。

この釉薬の剥がれなどを当時の日本は味のあるものとして好んだようです。



頴川は苦労して会得した磁器の焼成法を惜しむことなく公にし、後進を指導しており、青木木米や仁阿弥道八など名だたる陶工を育て上げ古清水以来の京焼第二の黄金期を築き上げた。門下や影響を与えた陶工は、さらに周平、欽古堂亀祐、三文字屋嘉介と多岐にわたり、当然、煎茶趣味に合致するところから世間に大いに受け入れられたようです。



磁器の開発にしろ、新規な絵付けにしろ、頴川が職業工人ではなく素人陶芸家であったからこそ当時は可能だったとされ、ゆえに京焼ばかりでなく、日本陶芸史に果たした役割は大きいとされます。

なお彼の死後、作品の大半は菩提寺である建仁寺に奉納されており、市場の出回っている作品は数が少ないとされます。ただし呉須赤絵は頴川が最も得意とし最も多く手掛けた焼物ですが、 これらの多くは売り物としてではなく頴川自ら使い、親しい知人への贈り物として作ったようであり、この贈り物とされた作品が市場に出回っていることはあります。



火入れなどの小作品では、それなりに筋の良さそうな作品が市場にありましたが、今ではまず見かけることはありませんね。



頴川の作品は銘を入れる場合にはその銘は「頴」という字の偏の上側が、“ヒ”ではなくなぜか“止”という形になっているのが必須です。これは頴川の自己主張と思われますが、前述のように概して頴川の作品には落款のないものが多いされます。また箱書のある共箱は皆無であり存在しないようです。



下記の3作品が伝奥田潁川そして本ブログで作品が紹介されています。あくまでも「伝」です。

他の所蔵作品 
呉州赤絵写火入 伝奥田頴川作
合箱
全体サイズ:口径100*高台径65*高さ85



高台内には銘がありますが、ちょっと「止」にはなりきっておらず不安定かな?  

*銘が「潁川」と「ヒ」になっている作品(贋作・模倣作品)が殆どであり、これは「潁川」の「止」となっていることを近代まで模倣者らが知らなったことによるのでしょう。

明末の作品に銘を書き込んだ作品か、前述の門人の作かもしれません。



銘のない作品が下記の2作品です。

呉州赤絵写六角火入 (伝奥田頴川作)
杉箱入 
全体サイズ:口径97*高さ87



銘のない方が真作に近い・・。銘がないゆえに使うほうが実に気が楽とも言えます。下記の作品ような宙を舞うかのような動物?の絵柄は潁川独特のものです、

呉州赤絵写五角鉢 伝奥田頴川作
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入 
全体サイズ:幅155*155*高さ70



外側の麒麟のような図柄は明末呉須赤絵の特徴的な図柄ですね。



奥田潁川、青木木米、仁阿弥道八とする作品や自慢そうに見せてくれる蒐集家は数多くいますが、ほとんど知見の浅い当方ですら真作と思える作品は皆無に近いです。それほど贋作や模倣作品、さらには銘を記した後世のブランド作品が多いということのようです。奥田潁川については明末の呉須赤絵の作品ということで、やたら分厚く作れられた作品もあるようです。



茶碗として使いやすそうですが、おそらく夏用の茶碗。



なんでもかんでも赤絵なら「潁川」という風潮は多くの贋作を生んだようです。多くの蒐集家が潁川の赤絵の作品を持つのは不思議ですね  郷里の蒐集家にも似ても似つかぬ潁川が存在しているようです。


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