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霊魂と肉体にてひとつの人なるごとく
神と人にてひとつのキリストなり。
(アタナシオ信条 )
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主イエス・キリストがなぜ受肉して人間になったかがお祈りの形で表現されているのが、伝統的なキリスト教の信仰告白である「アタナシオ信条」である。
いったい主イエス・キリストはなぜ受肉なさってわたしたち人間と同じになったのか?
およそ「人間」というものを「救う」となったらこれはごく自然なことであったのだ。主イエス・キリストご自身にとって「受肉して人間のひとりになったこと」はごく「自然」なことだったのである。
人間なら心と魂と体があるのが自然なことである。だからこの人間を救おうとなったら心と魂つまりアタナシオ信条の言葉を借りるなら霊魂だけ救うのでは足りないのである。それこそ「不自然」なことである。だからパウロが言っているように主イエス・キリストの十字架が自分の罪のためであると信じるなら、彼の十字架の様(さま)に等しい者とされ、更に彼の十字架の死よりの復活の様にも等しい者とされるのだ。この罪に汚れたわたしたちの体をも贖われ彼の復活の体と等しい者にしていただけるのである。
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主イエス・キリストがなぜ受肉して人間になったかがお祈りの形で表現されているのが、伝統的なキリスト教の信仰告白である「アタナシオ信条」である。
いったい主イエス・キリストはなぜ受肉なさってわたしたち人間と同じになったのか?
およそ「人間」というものを「救う」となったらこれはごく自然なことであったのだ。主イエス・キリストご自身にとって「受肉して人間のひとりになったこと」はごく「自然」なことだったのである。
人間なら心と魂と体があるのが自然なことである。だからこの人間を救おうとなったら心と魂つまりアタナシオ信条の言葉を借りるなら霊魂だけ救うのでは足りないのである。それこそ「不自然」なことである。だからパウロが言っているように主イエス・キリストの十字架が自分の罪のためであると信じるなら、彼の十字架の様(さま)に等しい者とされ、更に彼の十字架の死よりの復活の様にも等しい者とされるのだ。この罪に汚れたわたしたちの体をも贖われ彼の復活の体と等しい者にしていただけるのである。
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