今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、その憐れみは代代に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
(ルカによる福音書第1章46節から50節 )
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主イエス・キリストを胎の中に宿したマリアの賛歌である。
わたしはプロテスタント教会に所属する者なので、カトリックのように殊更にマリアをいわゆる「聖母」扱いはしない。
主イエス・キリストがわれらのひとりとしてお生まれになったからである。だからわれわれフツーのクリスチャンはマリアを「神の母」などという呼称で崇めたり祈りをささげたりは絶対にしない。
このようなことはわれわれフツーのクリスチャンの立場から見れば、むしろ多神教徒のすることである。
あるプロテスタントの神学者が言っている。「マリアはあくまでも信仰深いひとりのフツーの人間にすぎない」。
上記引用でマリア自身が讃美しているこの「マリアの讃歌」は、クリスチャンならばみんなが主の御前で告白できる言葉である。自分が救われた者として、救われた体験を持つものとして、わたしたちは自分を「幸いな者」と言いうるのである。
クリスチャンであるということは、誰にでもこれらのことを告白できる者たちである、と言っていいのである。
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