『父のところには食物の有り余っている雇い人が大勢いるのに
わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ
帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、
罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。
どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。
まだ遠く離れたいたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、
その首を抱いて接吻した。
(ルカによる福音書第15章 17節から20節 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
主イエスのように神を「アバ父よ……」と呼んでお祈りすることは、もしかしたら素直にできない、あるいはとても難しいという方がおられるのではないかとわたしは危惧している。お気づきのように自分の父親が何らかの事情でいないような人である。このような人に主イエスははたしてどのように自分の父つまり天の父なる神を分からせるのだろうか?
この浅学非才の小さなクリスチャンのわたしでさえついつい考えざるを得ないのである。つまり「父親」という概念の無い人が実際にいるのである。それもそんなにめずらしいことではない。事実「父親」という存在を知らずに育った人に「神さまはパパのような御方ですよ」と話して何になるのだろうか?「父親」という存在を知らずに育った人をひどく傷付けるだけである。
ある神学者はルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」(上記引用はその一部)を読み聞かせながら教えるのが良いと言う。
わたしもこのやり方はとても良いと思っている。放蕩息子の帰りを一日千秋の思いで待ち続ける親バカの見本みたいな天の父がわたしにはその天の父の方がむしろおかわいそうに御気の毒にと思えてしまうのである。このたとえ話の父親は息子が我が家に近づいて来るのを「まだ遠く離れていたのに」すぐにそれと認めるのである。それはつまり父親が毎日時々刻々、息子の帰りを待っていたということの証である。それほどに親バカなる父親なのである。
しかし「父親」とはそして全宇宙のすべての生命体の「父親」こそはこのような御方なのである。
この父の親バカさ加減はその御子主イエス・キリストをこの世にお与えになったことによって絶頂に達する。
天の父とはこのような御方である。どこまでもいつまでもとこしえに全宇宙をはるかに超えた親バカなのである。
わたしも父親がいるのかいないのか微妙な状況で生きて来た。だから親バカなる神を知って救われている。
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★