昨日、コロナ禍の中、年中行事を存続させる方法を工夫した宮司さんお話を書きました。
私はこういう伝統の行事を大事にすることは大切なことと思う人間です。これは延々と続いてきた日本人の芯になるものの一つと思うのです。
私が経験した節分などを書いておこうと思います。
実家の父も、嫁いだ先の舅もそれこそ「男子厨房に入らず」の典型的な明治男でした。それが節分の夕方は変わりました。豆まきを自分の仕事として張り切るのでした。
そこは明治男です。升に煎り豆を揃えるところは母(姑)にやらせますが、それを神棚に備え、大声で「鬼は外、福は内」を叫びながら盛大に撒くのが父(舅)の役目でした。
幼かったころ、日頃威厳を示すのか、子どもたちに親しくは接しなかった父が構ってくれるのが嬉しかったものです。庭に向かって「鬼は外〰」と撒き、家の中に「福は~内」と撒く父を追って、らい太と煎り豆を拾っては口に持って行ったものでした。菓子などなかった時代です。煎り豆も嬉しいものでした。何よりも、父の上機嫌が家じゅうを明るくしていました。
夕食になります。私の記憶ではクジラの肉入りの炊き込みご飯だったように覚えています。母の毎年同じ説明が付きます。「おせっちゃん、らい太、たくさん食べて重た~くなっちょかんと、鬼に連れていかれるからね。沢山お食べよ。重~い大きなクジラの肉が入れてあるからね」。鬼に連れていかれるという言葉が、なんとも怖く思われてのでした。
子育ての頃、我が家では夫が豆撒きをしました。美味しいものに恵まれている飽食の子供たち、私やらい太ほどのはしゃぎようではありませんでしたが、やはり拾っては食べたものでした。
主婦の私が毎年いうこと。「盛大に福を呼び、鬼を追っ払うのはいいけれど、家の中には少しね。撒かないで固めて置いて。掃除が大変なのよ」
心無い、主婦手間抜きの言葉だったと今反省するのです。
確か子どもたちが聞いてきたのだったと思いますが、「鬼は~外」は三回唱えて鬼を追い出し、そのあと「福は~内」と福を呼び入れ、雨戸を素早く締めるのだと聞いて、我が家にもその掛け声が定着しました。部屋の中には少しだけは定着しませんでした。
今年、ずいぶん弱った年寄夫婦の節分です。夫がすっかり弱りました。豆を用意はしておりましたが、「撒く元気があるかな」と思っていました。夕方になったところでむくりと起き上がり撒くと言います。豆拾いの子供の声はなく、じいさんの精一杯の掛け声で、鬼は退散したのやら。爺さんは律義に弱った歯を気にしながら豆を数えて口にしていましたが・・・果たして88食べたのでしょうか。