goo blog サービス終了のお知らせ 

おせっちゃんの今日2

こちらでお仲間入りいたします。
よろしくお願いいたします

94歳の桜守

2022-04-22 13:41:47 | 新聞記事から

2・3日前の朝日新聞の文化面(かな?)に桜守の佐野藤右衛門さんが「花のさだめ 人のさだめ」と題して書いていらっしゃいました。

長年携わっていらっしゃった、桜への思い、桜に対する人間の傲慢さ、桜をとりまく空間の温暖化、それを起こす人間、などなど、関西弁のやわらかな言葉で書かれた文明時評にもなっていて、感銘を覚えました。
切り抜いてそのままスキャンしてお伝えしたいと思いましたが、無断借用は禁じられていますので誠に失礼ですが、私が概要を書いてお目にかけます。文中鍵カッコの中の文は引用文です。佐野様、お許しくださいませ。

 今年は桜が早咲き・遅咲きが一時に咲き、梅も桜も一緒くたでした。肌で感じていただけの温暖化が、目に見えるようになってきました。怖いことです。「人間は、地球を痛めつける害獣や」。

「桜は咲かなければいけない時に咲くのです。花が咲いて虫が花粉を運び、鳥が実をついばんでフンを落とす。そしてフンの中の種が芽ぶく。吉野の桜はこうして生まれた。多種多様な生き物が共生しているからこそ、世界が回っている。一つ欠けても桜は咲かない。人間も生きられない」。(標準語風にしました)

桜はバラ科で、花弁は通常5枚。兼六園菊桜の花弁は360枚もあるという。わからないことだらけで、だから面白い。

ソメイヨシノは人間が作った品種。幹と思う所は枝に過ぎなく、寿命は短い。整形美人だから、集まって数で勝負する。福島・三春の滝桜、たった一本で多くの人を魅了する。

「今、先代が未生から育てたヤマザクラの変種で、植物学者の牧野富太郎氏に命名してもろた佐野桜を庭で育ててます。いっぱしの花を咲かせるまであと30年。その花の姿を94歳のわしは見ることはない。でも、今咲いている花は先代、先々代が育んできたもの。だからわしも淡々と受け継ぐだけや。時が来れば花は咲き、そして、枯れる。人も同じ。これが花のさだめ、人のさだめというもんやな」

切って捨てることはできないと思われる文でした。ほとんど丸写しになってしまいました。ご容赦くださいませ。


ペットボトルの中のSOS

2022-04-16 13:25:38 | 新聞記事から

暗いニュースの多いこの頃、今日の朝日新聞に明るい話題を見つけました。今週も明るく締められます。

ブラジルのお話。北部の町から500キロ離れた町に向かってその船は出航しました。嵐に出会いました。おまけにキッチンから出火しました。乗組員6名は陸地から20キロ離れた無人島に泳ぎつきました。
近くを通る船はありませんでした。助けを求める手紙を書き、ペットボトルに密閉し、浮き輪に結わいつけて流しました。

その後、他の島の釣り人がペットボトルと浮き輪を見つけ、当局に知らせ、素早い救助になりました。手紙には漂流した島の名前が書いてあったということです。これがすばやい救助につながったようです。6人は17日間を無人島で過ごしました。積んであった食料、雨水などで飢えをしのぎ、脱水症状はあったが命は助かったとのこと。

まるで小説か映画のような運の良さ。よかった!!

私もこの出来事の、ミニミニミニの経験があります。今住んでいる家の建築中、同じ世田谷区の喜多見という所に家を借り、半年近く暮らしました。小田急線成城学園前からかなり歩く田んぼの中の家でした。私もまだ若かった。買い物も成城まで歩きました。

ある日、田んぼの中の道を歩いていて、何気なく道端の草に目をやると、なにか手紙が着いたようなゴミが落ちているのです。おや、落とし物かな?立ち止まって拾い上げました。確かに手紙が着いておりました、もう壊れてしまった、風船が付いておりました。隣の学区の小学校が、なにかの記念に、手紙をつけた風船をとばしたようです。風に運ばれて落下したのですね。

男の子の名前と住所が書かれた手紙でした。返事を書きました。拾った経緯と、なにかのご縁ね、と。電話番号もいれて、郵便で。ちゃんとお礼の電話がかかってきました。何か心に残った出来事でした。

 


理不尽校則をやめる

2022-03-23 13:42:29 | 新聞記事から

15日の朝日新聞夕刊、第1面に理不尽校則廃止に関する記事が大きく取り上げられていました。
83歳の私が高校生ですから、70年も前にもあった理不尽校則です。と言っても時の流れがあります。着るものとて、今の時代の様に豊富にオシャレを楽しむ時代の豊かさはありませんでした。制服(セーラー服でした)一枚あれば、友人と競争することもなく、貧しい我が家では夜のうちに洗って、朝はまたそれを着ていくという「きたきりすずめ」もなりたっていたわけです。便利と言えば便利でした。私はそういうわけで、ほとんど生徒手帳に記された校則に反抗的な態度は思いもよりませんでした。

大学を卒業して同じ市の私立の女子高等学校に3年勤めました。地方では県立高校が第一志望校で、私立は滑り止めと位置付けられていました。言いにくいことですが生徒の質も劣り、中には不良じみた生徒もいたのです。学校側は、事件を起こさず、道を踏み外さず、まともに卒業させることが第一目標で、スカート・上着の丈、髪の毛のパーマ・色、靴くつ下に至るまでの締め付けでした。週1の朝礼では、服装点検があり、担任教師はいちいちチェックするのが役目でした。ここ迄やかましく言わなくてもとむらむら反感が募ったこともありました。

それから70年以上、それぞれの学校で校則の見直しが続いたのですね。

この校則に関する記事にシンクロさせるためだかどうだか知りませんが、篠田桃紅さんのこんな言葉が、(確かほんの広告だったと思いますが)載っていました。

遠足などで、ぞろぞろぞろぞろ。みんなと同じ方角へ歩くのはとてもいやでした。
列を作って、兵隊さんのように。
合唱。みんなに合わせること。性にあわない。
制服。・・・スカートのひだ迄決められる。
規律を強要されるのも迎合するのも付和雷同も大嫌い。
何をするのも自分には考えがあった。

確かに、自分で考えて、自分がこれで良しとして生徒は生徒らしく身なりも行動も決めればいいはずですよね。衣服の寸法から、髪の毛の長さ色まで、甚だしいのは下着の色まで決められるのだとは。

ちょうど娘Maが来ていた時でした。夕ご飯を作りながら話は弾みました。
確かにそう、高校生と言えば今度からは選挙権もある大人だよ。何も下着の色までだよ。でもここでみんなの歩調が合わないことが出てきます。いわゆる常識外の自由を言い立てる人が出てくるのです。例えば白い下着の下に、挑発するような色を重ねてスケスケで来るとか。パンティが見えるほど短いスカートとか、

要は、一人一人が高校生としての常識、良識をわきまえることの上で、自由があるってこと!!


監督のいないチーム

2022-02-18 13:49:28 | 新聞記事から

北京オリンピックも終わりに近づきました。いろいろ問題はあるにしても、選手の皆さんの努力精進に胸が熱くなる思いが沸き上がってきます。ベテランと若い力と競い合いに惹きつけられます。

オリンピックの陰になっていますが、プロ野球も各地でキャンプが張られています。 そこで話題を引っさらっているのが、日本ハムの監督(ではないビッグボス)が独特な個性で話題をさらっています。
私は野球に詳しいわけでもなく、解説も感想も申し述べる力を持ちませんが、先日日本経済新聞の文化時評に載った「ビッグボスが舞う日」は興味深く読みました。中で昨年甲子園に出場した青森・弘前学院聖愛高の紹介に惹かれました。

このチームには監督はいない。選手が自分で考えてノーサインで試合を進める。何故ノーサインか。原田和則監督(普通の意味での監督ではない)は、指導者修業で参加したセミナーでの一言にショックを受けた。「これから野球型人間はいりません。求められるのはサッカー型、ラグビー型の人材です」。いちいち監督の指示で動く人材ではなく自分で状況を判断して問題を解決できる人材でなくっては、という意味合いだった。

「サインで縛る」というやり方が問題。指示待ち人間を育てるだけだったのではないか。そういう思いでノーサインに踏み切った。主将で4番打者が送りバントもする。作戦の全責任を負うことで、そのためにはどんな準備がいるか練習から深く考えるようになる。

原田監督はノーサイン野球がどう勝敗を左右しているか分からないと言います。わからなくてもいいと考えています。成果は高校の3年間ではなく、社会に出てからはっきりすること、と考えているのだそうです。

古い人間が、今の時代にケチをつけたくはないけれど、世の中いろいろどうも自分でしっかり考えるということが足りなくなっているような気がしています。自分の脳味噌で考えてやってみる、これ大事ですよね。

今上の文を書きながら、以前、道徳の教科書に採られた野球に関する課題があったことを思い出しました。
監督は「ここはバントだ」とそのサインを出す。バッターの子はどうしても今自分は打てそうな気がしている。打てば大量得点だ。サインを無視してバットを振る。打球は飛んだ。勝った。でも、監督にひどく叱られた。規律を乱すものだ、これではチーム一丸ができないと。

どうでしょうね、話し合ってみましょうという課題だったと思います。今日の話と重ね合わせて考えてみるとどうでしょうか。


他人の目

2022-01-21 13:58:37 | 新聞記事から

1月19日の日経新聞 あすへの話題 にこんなことが書かれていました。文化人類学者 上田紀行氏のお考えです。内容をおせっちゃんが勝手にまとめました。

<私は「他人の目なんか気にせず、やりたいことをのびのびとやろう!」と講演会などで呼びかける。講演後若者が一人近づいてきた。「他人の目を気にするな」なんて初めて聞きました。ぼくたちは、他人から離れることはできないのです。このスマホの所為です。学校から帰宅しても、友達がうわさ話をしているのです。それを聴いたら、自分のことも言われているんだろうと怖くなりました。ぼくたちはずっと空気を読んでいなければならないのです。

今の若者は、一人になれない。24時間友だちとつながっていなければならない。繋がりを切ること、即ち仲間外れだ。切ることはできない。いつも他人の目が気になる。
これはきついよ>。

一人の時間。寂しいかもしれないけれど、大事な時間ではないか。人目を気にしないでおられる時間、これは考える時間であり、くつろぐ時間でもある。
わが家は間取りが玄関と中庭を挟んで南北二つに分かれたようになっています。夫が定年を迎えて、家にいるようになった時も、夫は1階2階の南側、私は北側の部屋を使うように特に話し合ったわけではないけれど、言わず語らずのうちに決まりました。特に仲が悪いわけではありませんが、この軽い別居がまことに居心地が良かったのです。「4・6時中べったりは疲れるよね」と言い合いました。

娘Maの子供たちが小学生の頃です。全国的に通学途中の子供が狙われて事故に会うことがありました。学校では、当分親の送り迎えをお願いしようか、集団登下校にしようかと話し合いがもたれたのだそうです。
Maが言います。私は反対なの。事故は困るけれど、登下校の時間は、子どもたちには、親や先生の目から離れて、子どもだけの世界を持つ時間であり、自分一人で考える時間なのよ。子どもの発達には大事な時間だと思う。だからことさら親の送り迎えなどと言わず、地域の大人の協力を得て、例えば、帰途に合わせて、家の前の掃除や花の水やりをしてもらうとか、ごくさりげない見守りをすることが子どもの幸せではないかなあ、と。

我が娘、良いこと言うじゃあないの、そうだよね、と賛成したのでした。