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写真付きで家族の出来事・旅行・認知症等

世界遺産 三池炭鉱宮原抗を訪ねて

2017-11-29 11:28:23 | 日記

今回は、シマちゃんと2人で 「読売旅行 おわびツアー玉名温泉「司ロイヤルホテルに泊まる世界遺産宗像大社辺津宮参拝と”海の正倉院”神宝館2日間の旅」に参加しました。その報告を2日間に分けてします。

初日は11月23日(木)世界遺産 三池炭鉱宮原抗を訪ねてがメイン

今回の旅行は「バス旅行」なので、五日市からの乗車が出来その上 集合時間が8時40分だったので大いに助かりました。

とは言っても美鈴からのバスの便は悪く・・・7時22分で出たため早かったので五日市駅北口の「リトルマーメイド」で焼き立てパンを頂き

少し早めに(8時30分頃)旭園バス停に行くと、旅行に出かけるらしき女性が1人居られました。

バスは予定より遅く8時50分頃になりました。宮島口でも参加者を乗せて・・・今回の参加人員は43名(添乗員・ドライバー合わせると45人)

トイレを我慢出来なくなった人が有って(トイレ休憩予定は下松SA)「玖珂PA」に寄ると10人位が用足しに降りて・・・

でも「下松SA」でトイレ休憩はちゃんと取られましたよ。下松SAの「気の彫り物」少し増えてた~ 以前此処には居なかったよ ↓

                                    

「壇ノ浦PA]は工事中でした「トイレ」は右の建物に有りました

 ←旅籠屋も有ったよ  関門橋→  

壇ノ浦PAでお弁当積み込んで(希望者のみだったのですが、私達も申し込んでいたので車中でゆっくり頂きました。1,000円なり)

    お弁当頂きま~す   

 古賀SAでも工事中で仮設トイレは沢山並んでいました。

                  

道の駅「おおむた花ぷらす館」では皆さんお買い物されてましたが・・・私は コーヒー1杯飲んだだけ(自販機の) ↓

                  

世界遺産「三池炭鉱宮原抗」を案内人の解説と共に見学(以下の説明文はホームページから引用・写真は私が写したもの)  

                  

     三池炭鉱宮原坑                                宮原坑跡第二竪坑の排水管

宮原坑は、七浦坑および宮浦坑の採炭が深部に至ったことで、坑内排水の効率が悪化したことから、七浦坑の南870mの採炭区域内に設定した試錘の場所に、新竪坑を開坑したことに始まります。当初は、明治初期から官営三池炭鉱の操業開始以来、旧来の主力坑であった大浦坑、七浦坑、宮浦坑等の命脈を伸ばすべく、排水の用を兼ねる坑口としての役目が開さくの計画でした。操業後は揚炭・入気・排水・人員昇降その他を兼ねる主力坑として年間40~50万トンの出炭を維持しました。

                  

   ↑ この箱で人を乗せて運んでいたそうです                 奥のワイヤーを連動して上下していたそうです ↑

第一竪坑は、明治28(1895)年2月に着工しました。地下水の湧水により困難を極めましたが、明治30(1897)年3月に深度141mで着炭、明治31(1898)年3月21日には、排水・揚炭のための坑外諸施設が完成し、出炭を開始しました。

第二竪坑は、明治32(1899)年6月11日から開さくに着手し、明治33(1900)年10月に着炭(竪坑の深さ160m)、明治34(1901)年11月には設備が完成しました。宮原坑はこの2つの坑口からなります。

  宮原坑跡第二竪坑巻揚機室内部                  

第一竪坑は揚炭、入気、排水が主であり、第二竪坑は人員昇降を主として、排気・排水・揚炭を兼ねる機能分担がされていました。第一・第二竪坑ともに、当時世界最大級の馬力を誇ったイギリス製デビーポンプを2台ずつ備え、当初の計画どおり七浦坑の排水難を解消しました。さらに、その排水能力により、より深い場所での採炭が可能となりました。

この間にも、明治32(1899)年に汽缶(ボイラー)9基を増設、さらに七浦坑から諸設備を本格的に宮原坑に移し整備を増強し、第二竪坑開鑿時の明治34(1901)年には、50馬力蒸気巻揚機を設置し、翌年明治35(1902)年に最初の電動扇風機である、チャンピオン扇風機を据え付けて、排気を行いました。

採炭した石炭の運搬についても、坑口から選炭場にかけて、大正13(1924)年にベルトコンベヤー(運炭機)を1台設置、翌年にも増設を行うなど、出炭量増加に対する機械設備の拡充を順次おこなっていきました。


明治31(1898)年の出炭開始からすでに年間27万トンの出炭量を記録し、明治41(1908)年には三池炭鉱(大浦坑、宮浦坑、万田坑、宮原坑)の中で、宮原坑がもっとも出炭量が多く、三池炭鉱全体の28%(431,618トン)であり、次いで万田坑が377,440トンでした。大正期には最大で出炭量51万トンを超えるにまでなり、明治から大正期を通じて平均して年間40万トンの出炭を維持しました。

                  
  ↑ 石炭を運んだトロッコ                             宮原坑跡第二竪坑施設と鉄道敷跡 ↑

しかし、昭和初期の恐慌、不況下において、各炭鉱が坑口と稼行地域の整理統合などの合理化を進めていくことになります。三池炭鉱でも、新たに四山坑、宮浦大斜坑からの採炭に中心が移り、それまでの主力坑であった大浦坑、勝立坑、七浦坑とともに、宮原坑も昭和6(1931)年に閉坑となりました。

                  

↑ 駐車場のトイレ何だかカッコ良いでしょ!     見学終えて一路「玉名温泉」へ     ホテルの部屋から見た「夕焼け」 ↑

今回の旅が「おわびツアー」と有っただけに「ビール・日本酒・焼酎・ジュース・ウーロン茶」飲み放題(90分)カラオケ大会に大抽選会(私もシマちゃんも当たりませんでした)2018年版「読売旅行カレンダ]を頂きました。

                  

                  

 「カマクラ」に入った刺身は可愛いでしょ 栗ご飯迄は頂けなかったな~(お腹一杯で)

なお一人参加が可能(金額が4~5名部屋と同料金)だったので2人共一人参加で申し込んでいましたから(1人参加が6人)もう一人広島市内の方と3人部屋でした。

2人はホテル到着して近くを散策されていて「温泉」入っておられなかったので(私は一人「温泉」に入って居たのですが)入浴券1枚貰った「つかさの湯」に一緒に行きました( ホテル前の通り渡って直ぐ)

温泉かけ流しにこだわった西日本最大級の、男女合わせて約560坪と謳っているだけにゆったりして気持ち良かったです。

                  

明日も晴れると良いね

 

 


三江線の旅 (11月17日~18日)2日目

2017-11-26 08:58:47 | 日記

11月18日(土)

目覚めると外は「雨」え~!これでは散策出来ないや~! 

仕方なくゆっくりと「温泉」につかり出ると、Kさんが「ベットから落ちた!」と・・・

右肩を打たれたようで、でも手がちゃんと上がるし痛みも強くはなさそうだったので、フロントへ行って「湿布」を貰い張ってあげました。

隣のベットに寝ておられたKさんは「地震が有ったでしょ!」と言われ  落っこちられた事ご存じなくて まあ、大事にならなくて良かった。

7時から朝食頂き ゆっくり休んで9時10分頃ホテルの車で「金城バス停」まで送って頂きました。

                                               

  ↑  ホテル玄関前                                     朝食シッカリ頂いて  ↑

帰りは「高速バス」なので、昨日の様に混む事も無く 時間も2時間強で「新幹線口」まで帰ることが出来ました。(金城9:37発・新幹線口11:45着)  

 ← ホテルのバス  金城PA → 

   寒曳PAでのトイレ休憩  

 ↑ 浜田発広島新幹線口行 広電バスにて・・・                   「牛」を乗せたトラックも同じ場所で休憩 ↑

中筋バス停・不動院バス停で下車される人も有ったり・・・ほとんどの方がバスセンターで下車されましたが、私達は8人(中筋・不動院で各1人下車されたので)が新幹線口まで帰って解散  解散後シマちゃんとAさんの3人で食事して別れました。 

 ASSEで昼食まずまずだったよ 

                  

 広島駅北口1階コンコース(広島市南区松原町)で11月14日~20日まで 段ボールで作った実寸大の蒸気機関車「D51」の特別展示が有るので、帰った時見る予定だったのを忘れていたので、シマちゃんと一緒に見に行きました。
段ボールSLの総重量は約1.5トン。古い段ボール4000個を図面に沿ってパーツに切り分け、図面で分からない部分は実寸大にこだわって制作したそうですよ。組み立て作業は13日に広島駅やJR西日本広島支社の職員20人で行い 完成した段ボールSLの大きさは縦約20メートル、幅約3メートル。今回新たに正面に「SLやまぐち号」のヘッドマークとプレート、車両横にも付けたそうです。凄いですよね~! 

見ている内に何だか乗りたくなって・・・でも「山口」へ行くのもと思い「可部線」の新駅「あき亀山駅」まだ行って無いので急遽行く事にして可部線に乗り込みました。何にも無い所と聞いてはいたけど本当に何にも無さそうでした。と言う事で折り返しの列車で帰って横川・西広島と乗り換えて帰宅しました。

今回の旅は、夏から色々考えたでけあって無事に終わった事に感謝でした。参加者の皆さんご苦労様でした。

 ←車中から紅葉を 安芸亀山駅舎→ 

  「あき亀山駅」ホームの様子   

  「カープ電車」に出会ったよ!  

気になって居た「安芸亀山駅」まで JRに乗車できたし 「カープ電車」に出会う事も出来最高な1日になりました。

「カープ祝勝パレード」が11月25日(ど)に有りました。その報告はだいぶ後日になるでしょうが楽しみにして居て下さい。

 

 

 

 

 

 


三江線の旅 (11月17日~18日)1日目

2017-11-22 10:41:37 | 日記

夏の「ビアガーデン」の時に話が出た「三江線に乗ろう!」が実現しました。その報告をします。

11月17日(金)

最初の予定では、広島駅7:53分発 三次駅9:57分着 の芸備線に乗って行くつもりでしたが・・・

三次駅の話で、その便では多分座れないでしょうとの事 急遽一便早い 6:57分発で行く事にしました。

但し江田島から参加される Yさんがどうしても間に合わないので・・・ヤマちゃんにお願いして2人後の便で来てもらう事にしました。

今回も嫁に送ってもらいました。 同じ美鈴にお住いの Hさん(私達の仲間だったのですが亡くなったので・・・)のご主人も一緒に

五日市駅でシマちゃんと合流 一番列車に間に合い広島駅に着くと、向かいのホームに「芸備線 府中行き」が止まって居て・・・何の気なしに早く座って席を確保しようと、乗り込むと動き出したでは有りませんか・・・

エ~!この列車では無かった・・・ビックリ 次の駅(矢賀)で下車向かいに止まって居た列車に飛び乗りました(広島行きで良かった・・・何しろ時刻表を見ると、上り・下りともに 発車時間が 5:47分 だったんですよ。)

広島駅に帰って・・・8人が揃い「旅」の始まり(芸備線は、混むかと思って居たのですが・・・早いのも有ってか、ゆとりでしたよ)

                                  

↑ 三次駅に行くまでに日が昇り朝日を受けて「紅葉」が一段と綺麗に見えます。    寒い朝だったので田んぼには「霜」が・・・↑

三次駅では、ヤッパリ並んでいました。その後「観光バス」(3台)で来た人の中には座れない人達も居られました。

何しろ列車は2両しか無いので・・・モチロン後の列車で来た ヤマちゃん・Yさんもその仲間 座席取っとく訳にもいかなかったので「石見川本」まで立ちっぱなしでした。(男性だから我慢して頂きました)

 ← 三次駅 駐車場の観光バス → 

 ← 改札   石見川本行列車 →  

↓ 「宇都井駅」では、観光客が、下車したり・乗車したりで大混雑(添乗員は、必死の様相でしたよ)5分位は時間を取りました。↓

                    

                            

↑ ホームから下を見て(左の建物が駅舎エレベーター無いので 螺旋階段を登って来ます) 地上20mの駅舎に止まった列車から覗いて ↑

↓  「石見川本駅」までの景色を眺めながら  ↓

                  

                  

石見川本に着いたのも遅くなって・・・予約していた「川本食堂」へ行く途中で Iさん居ない!また、駅まで迎えに行ったりで・・・

   ← 石見川本駅舎 昼食会場 →   

 駅前に有る「おもてなしサロン」  

「江津行き」出発までに1時間以上あるので(12:18着 13:45発)車中でご一緒した「川本の人」に伺った「アポロの本物が展示してあるので是非見に行ってください」と言われていたのですが・・・結局行く時間なくなり残念! 

「悠邑ふるさと会館ロータリーで、「スカイラブ3号」を展示しており、ロビーではパネル展も行っています。みなさんぜひご覧ください。」(ホームページに書いてありました。2015年からだそうですよ)

駅前に有る「川本 おもてなしサロン」でお茶頂いてチョット一休みしただけ・・・

石見川本駅は予定通り出発できました。ツアー客が少なくなったので座る事も出来一安心  

                  

      ↑ 町長さん自らのお見送り                         ホームでは可愛いお姉さんも ↑

                  

 ↑  入って来たのは「三次行き」列車                     私達は「江津行き」列車のドアが開くのを待って ↑

   ← 江津駅までの風景 →   

江津駅にも予定通り14時54分頃には着きましたので、駅前の「パレットごうつ」でトイレ休憩しながらホテルの迎えを待ちました。(15時30分に来て頂くようにしていたので)

    ← 江津駅舎  →     

 ←「パレットごうつ」の建物 →  

時間通りにホテルの迎えが来てくださいました。山越え3回位だったかな?随分と山奥に感じましたが、30分位で着きました。(16:00)

  ホテルへの途中車窓からの景色  

夕食を18時からとお願いしたので充分時間も有り、シマちゃんと「温泉街」を散歩しました。(カメラ持って行くのを忘れたので写真が有りませんが小さい旅館が何軒かある程度で・・・ただ「足湯」は立派なのが出来ていました。)

帰って一人ゆっくり「温泉」に入ってから夕食 広い部屋に我々10人だけで・・・チョット落ち着かなかったけど、でも良く喋ってましたよ。   

    部屋から見た庭の様子    

                    

今夜の食事 まだ ご飯にお吸い物(松茸入ってました)デザートは「ナシ」でした  

食事が終わって何時もの楽しみ「2次会」は男性の部屋で・・・持ってきた「お酒・つまみ」等で大いに盛り上がりました。

でも、朝が早かったので21時頃にはお開き 温泉入って床に就くと直ぐ寝てました。

 

 


残念だった「友が島の旅」

2017-11-14 10:51:50 | 日記

11月11日(土)

阪急交通社の 静かに佇む神秘の無人島「友が島」上陸 日帰りの旅 シマちゃんと一緒に参加しました。

何と朝が早くて「6時20分集合」美鈴を1番のバスで出ても間に合わないので「タクシー」予約しようと電話して居ると嫁が「送りますよ!」と言ってくれたので・・・五日市駅まで送ってもらい 駅に着いたのが早かったので 5時24分発の1番列車に間に合いました。(5時50分に乗る予定でした)

広島駅6時38分発「のぞみ112号」で新大阪まで新幹線 そこからは「バス」で一路「加太港」へ・・・その途中 添乗員から「波が高いので友が島上陸は、無理なようです」との話が・・・

   新大阪から岸和田SA間の景色    

岸和田SAで20分のトイレ休憩

                  

      ↑ 岸和田SA                             トイレに描かれた「だんじり祭り」の様子 ↑

                  

和歌山の街・紀ノ川を車窓から眺めながら・・・(この辺お天気良いのにな~!)

添乗員が何度も船会社に聞いておられましたが、結局「友が島」への船は欠航との事で・・・ 

代替え観光に「淡島神社・深い山第1砲台跡」を巡る事になりました。モチロン乗船料(1,800円)は返金してもらいました。

 

淡島神社 (ホームページから引用)

由緒[編集]

淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるが、当神社はその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る。

神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)の祠が加太の沖合いの友ヶ島のうちの神島(淡島)に祀られたことが始まりとされる。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納した。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされる。

淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となった(ただし、加太淡嶋神社では少彦名命が医薬の神であるからと説明している)。

江戸時代には、淡島願人と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。

現在の社殿は豊臣秀吉紀州征伐で焼失したが、その後浅野幸長が再建、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復を加え、さらに江戸時代末期に第10代・徳川治宝が造営、1979年(昭和54年)に現在の新社殿となった。

     神社鳥居と本殿      

 神社に通じる道にお土産屋が・・・ 

 人形神社だけ有って雛人形や置物まで

←紀伊国屋文左衛門関係だったかな?                   

  「お弁当」何処で食べる予定だったのかな?結局「休暇村 紀州加太」駐車場の「バス」の中で食べる事になりました。                  

  食後休暇村の庭をチョット散策  

 ← 友が島 大きな「ナメクジ」→ 

 深山第1砲台跡

紀伊半島の加太町(現和歌山市加太)を中心に北部の深山第一、第二砲台、男良谷(深山第三)砲台、城ヶ崎探照灯台、大川山堡塁、高森山保塁、南部の鉢巻山に配置された加太砲台、田倉崎砲台、東部の佐瀬川保塁、西ノ庄保塁からなる。
由良地区を運用する由良要塞重砲兵連隊とは別に、深山村(現和歌山市深山)に第4師団隷下の深山重砲兵連隊(後、重砲兵第5連隊(2代目)に改称、重砲兵第5連隊(初代)は野戦重砲兵第5連隊に改称)が置かれ、和歌山側の各砲台を運用。
同連隊は第4師団が出征後は中央直轄とされ、終戦時には大本営中部軍管区(中部軍管区司令部は第15方面軍司令部と兼務)直轄部隊であった。
この地区の保塁は沿岸砲台群を内陸側からの陸上攻撃から防護する目的で設置された。
また、直接の要塞設備ではないが、この地区への補給は加太軽便鉄道(現南海加太線)が担っていた。(ホームページより引用)

                  

                  

                  

第1砲台跡を上ると「展望台」の様になって居て3つの瀬戸に囲まれた「友が島」が目の前に・・・はるか向こうには「淡路島」

                  

↑沖ノ島・神島・虎島・地の島 の4島をまとめて「友が島」と言うそうです。友が島を囲む3つの瀬戸(由良瀬戸・中ノ瀬戸・加太ノ瀬戸)↑

                  

休暇村を下った「駐車場」でも一休みして「黒潮市場」へと出発~!

                  

   ↑ 「紀三井寺」への案内看板                        左奥に小さく見えるのが「三井寺」車窓より ↑

黒潮市場

生マグロの解体ショーで解体されたさばきたてのマグロを始めとして、日本各地から届く鮮魚・活魚や、干物に珍味など、厳選された海の幸を豊富に取り揃えております。市場ならではの旬の魚介をご家庭でごゆっくりお楽しみください。と パンフレットに書いてありました。

                  

地中海の港街をイメージしたテーマパークの「ポルトヨーロッパ」 ↓ 

                  

    ウオーターシュート     

 橋を渡った向こうにはジェットコースター等も見えますが・・・時間無ったので渡りませんでした。

今回お世話になった「トーホー観光」→ 

 ←岸和田SA     通天閣 → 

新大阪駅 18時25分発「のぞみ117号」 広島 19時55分着 JR山陽本線岩国行「20時14分発」 己斐「20時31分発」の広電「山田団地行」で帰宅しました。

どんな島か行って見たかったな~!無人島と言っても「民宿」が有るようで・・・人は住んでるとの事 なんで「無人島」?住民登録した人が居ないからだそうです。


工大祭に行ったよ!

2017-11-13 09:54:10 | 日記

11月11日~12日で行われた「工大祭」(カメ君が通学している)

11日は「友が島」へ行ったので(後日報告します)12日に行って見ました。駐車場が利用できるとの事なので、嫁とカエル君の3人で出かけました。 

← 会場への入り口 三宅の森 →  

12:00開場 先ずカメ君の居る「基礎理論工学研究会」に覗いて見ました。が私には良く解りません 

次に覗いた「人力飛行機同好会」では、写真を見るだけで感動でした。

  鳥人間コンテスト使用時の物 → 

学科展クイズ・冬の芸術展クイズとクイズに正解してスタンプをゲットしようと言うページが有ったので冊子片手に・・・

「三宅の森」の建物内を巡りました。(1・4・6・7・8・9・10階)クイズに正解してお菓子頂いたり・・・

(途中でお腹空いたので、第3グラウンドで出されていた「模擬店」で焼き鳥・うどんを食べたりしました。) 

                  

 ↑ 「うどん」以外に「焼き鳥」も食べました。                スタンプラリー 全問正解で頂いたお菓子です。 ↑

帰りは、五日市駅までのシャトルバスが有ったのでそれで五日市駅まで行き、広電で「商工センター入口」アルパークの「フィットネス」(プール)へ行って帰りました。

「人力飛行機同好会」では、琵琶湖で行われた「鳥人間コンテスト」の話をしたり・「鉄道研究会」では、18切符で旅する学生と話が弾んだりと楽しい一時を過ごしました。孫のカメ君・カエル君をはじめ若い人達のこれからが楽しみです。