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写真付きで家族の出来事・旅行・認知症等

青春18切符の旅 夏バージョン NO1 「長崎・熊本編」 2日目(市内観光)

2016-08-14 09:54:45 | 日記

 ホテルで一休みし、午後4時頃から再び出かけました。

折角購入した「電車一日乗車券」使用しなければと・・・ホテル出て「正覚寺下」行で「出島」で下車

今まで長崎に来ても「出島資料館」に入って居なかったので、一人「出島スタンプラリー」をしたりしながら見て回りました。

国指定史跡(出島和蘭商館跡)。鎖国時代の約200年間、日本で唯一西洋に開かれていた貿易の窓口でした。19世紀、島内には住居や料理部屋、蔵、番所など49棟もの建物があり、現在そのうちの25棟を復元させるための事業が進んでいます。明治期にその役割を終え、陸地の中に埋もれ、人々の記憶からも消えかけていましたが、今から約60年前に長崎市が出島の復元に着手しました。(パンフレットより) 

     資料館西側メインゲート                         道を挟んで両側に当時の建物が復元してあります

 「ミニ出島」 15分の1の模型

次は 築町で「石橋行き」に乗り換え「大浦天主堂」へ・・・ここは依然入った事もあるし、時間的な事もあって中には入りませんでした。写真だけ撮って・・・

大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、1865 年(元治2年)に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物。正式名は日本二十 六聖殉教者堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂(ホームページより)

 

       大浦天主堂                                  天主堂下に有った「カステラ神社」

「グラバー邸」は、大浦天主堂下を右に上がると「階段」と横には「エスカレーター」上がった所の「第1ゲート(入場券発売所)」を入ると「動く歩道」が有り、2カ所目の「動く歩道」を上がると「展望広場」に着きます。そこに建てられている「旧三菱第2ドックハウス」のベランダからは長崎の素晴らしい景色を見る事が出来ました。

 

       動く歩道                               ベランダから、池の「鯉」に餌をやる親子を発見

    旧グラバー邸(世界遺産)                            石畳みで見つけた「ハート」

 グラバー邸の説明

1859年(安政6年)、長い鎖国が終わりを告げ長崎・横浜・箱館(函館)の3港は世界に門を開きました。同時に諸外国の商人たちは大浦居留地の周辺に住居を構え貿易を営み始めます。これら貿易商人の一人、英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー(T.B. Glover 1838~1911)の住居は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ、現存する日本最古の木造洋風建築です。

安政の開国直後の1859年、グラバーは弱冠21歳で上海を経由して来日、ベテランの外国人商人たちの中にあって茶やその他の産物、武器船舶などを取り扱う商人として仲間入りをしました。やがて彼は、日本の再建に外国人商人としての立場を超越した活躍を見せ始めました。
それには日本の若い志士たちに国際的な目を開かせることが先決だとして伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋しています。こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは彼の努力に負う所が少なくありません。
 次にグラバーは、産業立国の大方針を以て当局に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓しました。1865年(元治2年)わが国の鉄道開通の7年も前に大浦海岸に蒸気機関車を試走させ、1868年(明治元年)高島炭鉱を開発、また同年には小菅に近代式修船場を設けたりと日本の新世紀にエネルギー溢れる協力をしました。
 その後、トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカは、1939年(昭和14年)に三菱重工業株式会社長崎造船所(当時)に売却するまでこの家を自宅として利用していました。1957年(昭和32年)、三菱造船株式会社(三菱重工業株式会社から改称)長崎造船所開設100周年記念として長崎市に寄贈され、翌年から一般公開されました。(ホームページより)

 展望台から夕陽を眺めて・・・次はどこ行こう

眼鏡橋へ・・・「橋の長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。」 川の両岸に灯りが点り「眼鏡」がクッキリと映し出されました(上手に撮れた?)

1634年(寛永11年)興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう)が架けた[2]1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復している[2][3]。その他は高欄が破損して修復したと見られる形跡があるものの、流失することなく度重なる水害に耐えてきた[2][4]1982年(昭和57年)の長崎大水害では中島川の橋が流失したが、眼鏡橋は半分程度損壊するという深刻な被害を受けたものの流失は免れた[5]

修復のための部分解体調査で江戸期のものとみられる階段跡が左岸橋端から見つかったため、従来はスロープとなっていた橋端は階段へと変更された[6]。橋端は1873年(明治6年)頃、人力車通行のために階段をなくしたものと見られる。ただし眼鏡橋は1948年(昭和28年)以後、車両の通行が禁止されている[7]

流出後、下流で見つかった石材については、復元時に再利用された[8]。眼鏡橋の辺りは増水時の氾濫対策として川幅を広げる必要があったが、橋などの姿をなるべく残すよう、川幅や橋はそのままにして、両岸の地下に暗渠式のバイパス水路を設けることで解決した[9]。この際、左岸側バイパス建設地の上から川の上にまで張り出した家屋や商店など46戸は約20年の交渉を経て全戸が移転し、跡地には歩道と街路樹が整備された。(ホームページより)

次に私の好きな「長崎ブルース」にうたわれている「思案橋」ってどんな橋か気になって・・・


 

橋・川とも見つかりませんでした。有ったのは欄干の一部のみ

名前はシッカリ残っていました「思案橋横丁」として・・・細い路地には飲食街が続いていました。

思案橋の説明(ホームページより)

日本が鎖国となり、長崎は唐蘭易で賑わいましたが、この橋も丸山をひかえ地元はもちろん諸国往来の人達で利用おびただしく、土橋から木の橋へ、木の橋から屋根のついた木廊橋へ変わり、また、もとの木橋になったりと変転を重ねました。

思案橋という名はいつからついたのかわかりませんが、丸山の繁盛と深い関係があることはまちがいないといわれます。

木橋は火事で明治8年(1875)に石橋になり、大正3年(1914)にセメント・コンクリート被装の鉄橋に改まりました。

もちろんこの時は思案橋も既に約320有余年の歴史をもつ名橋として天下に知られてはいましたが、それでも今日ほどではありませんでした。

現在は、欄干の跡を残すのみとなっています。

中華街で夕食をと思って居たのですが・・・歩き疲れて美味しそうな「肉まん」売ってるお店が有ったので、肉まん買って、セブンイレブンで明日の朝食食材等を買い込みホテルに帰って、ゆっくり「お風呂」に入って今日の疲れを取って、肉まん等を食べて早めに床に入りました。

明日はどうしようかな?ゆっくり起きて広島へ帰ろうかな?それとも早起きして何処かへ廻って帰ろうかな?