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志度庄

2020-12-14 22:10:05 | 活動報告
志度寺に伝わる「縁起絵」が作られた背景を調べています。

太田昌子編著「志度寺縁起絵」という本の最後の方に
「志度寺の歴史と謎」 菅原昭英 という論文があります。p277~
以下はそこからの抜粋です。



志度寺縁起文は13世紀~14世紀中頃までに成立したとされています。

志度寺縁起によると、志度寺建立は推古天皇33年(625)。
しかし、「志度」という地名が文献で確かめられるのは
九条兼実の日記「玉葉」(1181年)の頃です。

志度寺本尊、十一面観音菩薩像は10世紀後半の造立と想定。

九条兼実は藤原北家の人です。

この人の日記に出てくる「志度庄」は、この時代、
後白河法皇が建春門院平滋子に基づいて建立した最勝光院に寄進され、最勝光院を本所とし、
後の天台座主、慈円(1155~1225)が領家職でした。

慈円は、九条兼実の弟で、親鸞が9歳の時(1181年)慈円の元に入門しています。

12世紀後半、志度庄は、上皇の荘園で、天台座主が領家ということは、志度寺は天台宗と関わりがあったのかもしれません。

そして、志度寺縁起絵の一番最初のお話、「御衣木縁起」は
12世紀中頃に成立したとされる伝菅原道真撰「長谷寺縁起文」を拝借したものらしいです。
 え? この「長谷寺縁起文」、菅原道真が書いたということでしょうか?


  • 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[113](ウィキペディア)

長谷寺縁起に出てくる近江国の地名と大和国長谷寺を結びつける話は、10世紀に成立した「三宝絵詞」などから見え始め、それらを再編成したのが、「長谷寺縁起文」なのだそうです。

菅原道真さん、讃岐の国司だったこともありますねえ。

菅原道真 承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)。  
 仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司) 
寛平2年(890年)任地より帰京 

長谷寺縁起を書いたのは、讃岐から帰ったあとみたいですね。
菅原道真は、讃岐にいたとき、「桃太郎」や「竹取物語」を書いたとも言われているようです。

今日はここまで


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