さぬきの歴史

さぬきの歴史やお寺のことなど

2019/11/25

2019-11-25 23:47:00 | 日本史



昨日、図書館で借りてきました。

昨年、「おへんろつかさ養成講座」を
受講してから、急に目覚めて歴史の勉強を
始めましたが、何しろ大学を卒業してから
早、@@年❗️
  習ったことを忘れているのはもちろん、
@@年も経つと、新しい発見があって、
教科書の内容が変わっている!
  そこが歴史の勉強のすごいとこですよね。
  数学や国語や英語はそう変わらないですよね。
   家から徒歩3分くらいの所に図書館が
あるので、気になるものを借りてきました。
   なかなか面白そうです。
2週間で読むのは無理だと思うけど。



春秋戦国時代

2019-11-23 21:34:27 | 中国の歴史
社会科の教員免許を持っている私ですが、
高校では日本史を選択したので、世界史は無知です。
なので、
「春秋戦国時代」のすごさに驚いて、この2日間は
下の動画とサイトでお勉強しました。






いやあ、インターネットって、本当に便利ですね。
本を買ったり、図書館に借りに行ったりしなくても、
情報がたくさんあります。

それにしても、中国って、紀元前の時代にもう
こんなに戦いに明け暮れていたんですね。

縄文時代の日本人は、江南から人が流れてきた時、
何も太刀打ちできなかったでしょうね。

今読んでいる「水軍国家ヤマトの誕生」の筆者武光誠さんは
江南の呉越の人が天皇家の先祖ではないか、としています。



水軍国家ヤマトの誕生2

2019-11-21 22:43:37 | 東讃の歴史
昨日の続きです。

中国の歴史書「魏略」には
倭人は自ら春秋時代に活躍した呉を興した太伯の子孫と名乗っている
と記している。

春秋戦国時代とは?
春秋戦国時代には、中国人はまだ黄河流域を中心に分布しており、
江南には原アジア人とよばれる中国人と異なる民族がいた。
呉とは春秋時代に江南にいた原アジア人がつくった国である。

呉は江南の航海民を組織することにより、優秀な水軍をつくりあげ
一時は中国全土の支配をもくろんだが、敗退した。
呉に代わって巨大になった越の覇権も続かなかった。
やがて、中国人の南下が始まり、江南の原アジア人は、
その地を追われ、
雲南や東南アジア、日本の北九州にたどりついた。



江南の航海民の来航をきっかけに、日本列島の統一が始まる。
B.C1C末 弥生時代中期 最初の江南の水軍が北九州に定住。
2C末 弥生時代後期中葉 日本列島各地で統一戦争。
3C末 弥生時代後期末  彼らのなかの有力な集団が大和朝廷をたてる。

B.C1C末 福岡市吉武高木遺跡(最初につくった小国家・早良国)
1C            玄界灘沿岸に江南系の末盧国、伊都国、奴国などの小国家が次々
     にできた。

奴国のなかの志賀島という良港とその東方にある宗像に、とくに有力な
航海民の集団が定着した。


今日は春秋戦国時代のことを知るのに手間取りました。😫 


水軍国家ヤマトの誕生

2019-11-20 23:05:45 | 東讃の歴史
ようやくガイドも終わったので、自分の興味がある範囲の
お勉強ができるようになりました。


この本、図書館で借りて、2週間では読めない(理解できない)と
判断して、Amazonで探したら、


本体¥92
送料¥257
なので、買ってしまいました。😆 

古本ですが、ほとんど新品のようにきれいでしたよ。
で、買ったのが、今年の7月16日😅 

ざーっとは読んだけど、理解したとは言いがたい。
なので、今日から少しずつお勉強。



日本人の原型は弥生人
 弥生時代にアジアの各地から多くの人が日本に来て、
縄文時代の日本列島に住んでいた人々と混血して、
今の日本人の原型となった。
 そのとき、各地の文化が持ち込まれて旧来の
文化と融合して日本文化の基層がつくられた。

弥生文化は南方的
 日本で既に滅んでしまった慣習に似たものが
  雲南、タイ、ビルマの奥地に住む少数民族やインドネシア奥地
 の人々の間に広くみられる。
      (持衰・神話・鳥居など)

弥生時代と同時期、
江南(中国の揚子江下流域)は南方系文化が集まる土地だった。
そこの航海民がインドネシア、マレー半島、沖縄、九州など
各地に進出して積極的に交易を行っていた。

弥生時代にかなりの数の人間が江南から北九州に移住したと
考えられる。(南方系文化の持ち込み)

今日はここまで。先は長い。😵 


ルンルン地蔵寺3

2019-11-19 22:28:53 | 地蔵寺
さあ、ようやく地蔵寺です。
もうちょっと記憶は薄れてきていますが、
実は先週の土曜日も地蔵寺のお勉強会に参加したので
自分的にはたいへん詳しくなっています。



地蔵寺のご本尊は「御衣木縁起絵」に登場した文殊菩薩です。


これは地蔵寺のパンフレットに掲載されている写真です。

棚の上に小さな仏像がたくさん並んでいるのがわかると思います。

廻国六十六仏像群 と言われるもので、
地蔵寺中興の祖、と言われる蜜英さんが、当時の日本六十六カ国を巡り
(1705~1708)
その後、この仏像群が出来ました(1725)。

廻国して訪れたお寺のご本尊を模したと思われますが、
中には、天神様や聖徳太子など珍しいものもあります。

日本廻国六十六部は、13世紀前半から史料に登場しますが、
地蔵寺にあるような仏像群は、日本に二例しかない貴重なもののようです。

ところで、当日に用意したお菓子、
地元の風月堂さんのその名も「淡海(あわみ)}

志度寺に伝わる「海女の珠取り伝説」で
海女と結ばれた藤原不比等は「淡海公」と呼ばれています。

「淡海」って、琵琶湖や近江の国のことを言うみたいです。

最中って、久しぶりに食べたのですが、とってもおいしかったですよ。