志度寺縁起絵で、霊木を拾って、志度寺の御本尊を彫らせた人の名を「凡薗子尼(おおしそのこあま)と言います。
凡というのは、讃岐の国造の一族です。
弥生時代に農耕経済が発展し、有力者が村落や国の長となり、土地人民を私有し、治めていましたが、
天皇により大和朝廷がこれらを統一すると、その首長を国造や県主・稲置に任じて、旧領地の国や県を治めさせ、子孫がそれを世襲しました。
国造や県主には
臣・連・君(公)・直(あたい)などの姓が与えられました。
景行天皇(12代・71-130)皇子 神櫛王 讃岐国造の始祖
応仁天皇(15代・270-310)の頃、神櫛王の三世孫・須売保礼命(すめほれのみこと)が初代国造となる。
寒川郡の凡直の祖先である星直が、敏達天皇(30代・572-585)の時代、国造の業を継ぎ、紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)姓を賜る。
庚午年籍(670)凡直となり、星直の子孫は、讃岐直または凡直となった。
791年 凡直千継ら21戸が讃岐公となる。
凡直氏を名乗る豪族は讃岐だけでなく、瀬戸内沿岸の諸国に見られ、凡が「押統ぶる」と解釈できることから、従来の国造よりも広い地域を治める国造だったのではないかと考えられている。
讃岐では、佐伯直氏が西讃地域を中心に国造に就いたのち、東讃地域を根拠地とする星直氏が国造となり、より広い範囲を治めたと考えられるが、讃岐全体を治めたかどうかはわからない。
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