さぬきの歴史

さぬきの歴史やお寺のことなど

藤原宮子

2020-12-16 22:41:39 | 志度寺
志度寺に伝わる「縁起絵」の背景を探っています。

志度寺には縁起文7巻と縁起絵6幅が伝わっています。
そのうち、
「讃州志度道場縁起絵」⑴⑵では、
志度浦に来た藤原不比等と地元の海女が結ばれて、不比等の二男、「房前」が生まれたことになっています。

藤原不比等で調べてみると

  • 父:藤原鎌足(ただし、前述の通り一書に天智天皇の皇子と記される)。
  • 母:車持与志古娘(車持国子の女。ただし、不比等の母は鏡王女とする説が有力)。
  • 妻:蘇我娼子または媼子 - 蘇我連子の女
    • 長男:藤原武智麻呂 (680-737) - 南家祖
    • 次男:藤原房前 (681-737) - 北家祖
    • 三男:藤原宇合 (694-737) - 式家祖
  • 妻:五百重娘 - 不比等の異母妹。もと天武天皇夫人
    • 四男:藤原麻呂 (695-737) - 京家祖
  • 妻:賀茂比売 - 賀茂小黒麻呂の女[11]
    • 長女:藤原宮子 (683?-754) - 文武天皇夫人、聖武天皇母
  • 妻:県犬養三千代(橘三千代) - 県犬養東人の女。もと美努王妻で文武天皇と聖武天皇の乳人
    • 三女:藤原光明子(安宿媛、藤三娘)(701-760) - 聖武天皇皇后(光明皇后)、孝謙(称徳)天皇母
  • 生母不明
    • 二女:藤原長娥子 - 長屋王室
    • 四女:藤原多比能(吉日) - 橘諸兄室
    • 五女?:藤原殿刀自 - 大伴古慈斐室[12]
『麻績氏系譜』では「中臣不比登」は「妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣」とし、それが房前公であったとしている。  (ウィキペディア)


房前は、歴史上では、蘇我娼子の子供となっています。
それが「志度道場縁起」では、志度の海女が生んだ子となっています。
どうして、そんな話ができたのか、もしかして、本当にそんなことがあったのかな、と思わせてくれるのが、古代史の面白いところなのですが、
今日、不比等の長女で、文武天皇夫人、聖武天皇母の藤原宮子に、
「海女だった説」があることを初めて知り、驚愕しました。

紀州の海女説
梅原猛は、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している。
「文武天皇が紀州御坊へ療養の旅をしていたとき、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。
(ウィキペディア)

もうこれ、絶対、不比等と海人族との間に深いつながりがあるとしか思えません。


ここで面白いブログを見つけました。


それから気になるのが
宮子の母とされる賀茂比売 。

志度寺の近くに、房前の母である海女が息絶えた真珠島いうのがあるのですが、その島のある土地は、「鴨庄」「鴨部」という名の地なのです。
この地に昔、加茂族がいたという証ではないのか、と以前からうっすらと思っていました。

房前の母親も加茂族だったのかな~?
縁起絵では「凡直」だったと言われています。
「凡直」も海人だったらしいです。

これも気になりますね。↓

『麻績(おみ)氏系譜』では「中臣不比登」は「妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣」とし、それが房前公であったとしている。  

志度庄

2020-12-14 22:10:05 | 活動報告
志度寺に伝わる「縁起絵」が作られた背景を調べています。

太田昌子編著「志度寺縁起絵」という本の最後の方に
「志度寺の歴史と謎」 菅原昭英 という論文があります。p277~
以下はそこからの抜粋です。



志度寺縁起文は13世紀~14世紀中頃までに成立したとされています。

志度寺縁起によると、志度寺建立は推古天皇33年(625)。
しかし、「志度」という地名が文献で確かめられるのは
九条兼実の日記「玉葉」(1181年)の頃です。

志度寺本尊、十一面観音菩薩像は10世紀後半の造立と想定。

九条兼実は藤原北家の人です。

この人の日記に出てくる「志度庄」は、この時代、
後白河法皇が建春門院平滋子に基づいて建立した最勝光院に寄進され、最勝光院を本所とし、
後の天台座主、慈円(1155~1225)が領家職でした。

慈円は、九条兼実の弟で、親鸞が9歳の時(1181年)慈円の元に入門しています。

12世紀後半、志度庄は、上皇の荘園で、天台座主が領家ということは、志度寺は天台宗と関わりがあったのかもしれません。

そして、志度寺縁起絵の一番最初のお話、「御衣木縁起」は
12世紀中頃に成立したとされる伝菅原道真撰「長谷寺縁起文」を拝借したものらしいです。
 え? この「長谷寺縁起文」、菅原道真が書いたということでしょうか?


  • 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[113](ウィキペディア)

長谷寺縁起に出てくる近江国の地名と大和国長谷寺を結びつける話は、10世紀に成立した「三宝絵詞」などから見え始め、それらを再編成したのが、「長谷寺縁起文」なのだそうです。

菅原道真さん、讃岐の国司だったこともありますねえ。

菅原道真 承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)。  
 仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司) 
寛平2年(890年)任地より帰京 

長谷寺縁起を書いたのは、讃岐から帰ったあとみたいですね。
菅原道真は、讃岐にいたとき、「桃太郎」や「竹取物語」を書いたとも言われているようです。

今日はここまで


三途の川

2020-12-09 23:33:24 | Oさんの宿題
お久しぶりです。
コロナに負けています。香川県はあまり感染者が出ていないので、
何か現実味がないのですが、仕事の方にはかなり影響が出ていまして、
今年はなんとか乗り切れたけど、来年はどうなるのか。
ともかく、歴史のお勉強を再開したいと思います。

おへんろ文化について勉強していますが、歴史好きのお仲間が次々と宿題を
出してくれます。

宿題「三途の川のほとりにいると言われる奪衣婆は三途の川のどっちにいるのか」

え、濡れた衣服を衣領樹という木にかけるのだから、三途の川を渡った向こう側でしょ?

ところが調べてみるといろいろな説があります。

「地獄で最初に会うのが奪衣婆、初七日」と書いているものもあれば、
「初七日で秦広王の裁きを受けて、三途の川を渡り、奪衣婆に衣服をはぎ取られる」と書いてあるものもあります。

三途の川は、無実の人は金銀七宝で飾られた「有橋渡」を渡り、
      罪が軽い人は「山水瀬」と言われる浅瀬を
      罪が重い人は「江深淵」と言われる深い激流を泳いで渡らなければなりません。

それが平安時代後期には、六文銭を渡せば、誰でも船で渡れるようになるのです。
その六文銭を渡すのも奪衣婆だそうですから、その時は、川を渡る前のこちら側にいることになります。

簡単な宿題だと思っていたのに、なんだか面倒です。

インターネットで何度もググっているうちにこの人のサイトにたどり着きました。


たしか「中陰の花」という小説で芥川賞を取ったお坊様です。
その頃、父を亡くしたばかりだったので、とても心に響いた本でした。
今回はこの人の説を答えとしたいと思います。

昨日の続きで、
三途の川を渡って、十王の裁きを受ける様子がわかるサイトを見つけました。

鎌倉の十王像があるお寺、円応寺のサイトです。


それにしても、地獄のお話、設定がめちゃめちゃ凝っていますね。