お久しぶりです。
お盆の間、夏バテと風邪で臥せっていました。いや、仕事はしていたんですが。
「お遍路つかさの会」に入って、張り切りすぎていました。今、ちょっと、何というか、「三歩進んで二歩下がった」感じです。
仕事も家庭もあります。ゴールのない歴史のお勉強、焦らず、のんびり、コツコツとやることにしました。
で、お勉強再開の第一歩はこちら。
志度寺の山門に向かって、右側にあるお寺、自性院さんのご住職様は、
真言宗善通寺派管長
総本山善通寺法主
樫原禅澄さんです。
そんな偉い人のお話を、日曜日の夜、ふらっと、聞きに行けるなんて、
志度って、すごいですねえ。
御本尊は不動明王だそうですが、
本堂の真ん中に祀ってあるのは、人形(ひとがた)の像だったので、「誰かな?」
と思ったのですが、
弘法大師
だったみたいです。
本堂の場所が、元は志度寺の御影堂(みえどう・弘法大師をまつる)の跡とも伝えられているからだそうです。
境内には、平賀源内のお墓もあります。
さて、お寺でありがたいお話を聞きながら、
改めて、
「仏教って、良く生きるための方便を教えてくれるもの」
という思いを強くしました。
で、この一文を書いてから、「方便」の意味を確認したら、
なんと!
まさに「方便」、仏教用語でありました。
本当に、日本人と仏教って、すごく密接につながっているんですね。
まだ法律が整っていなかった時代、例えば、大化改新の頃、中大兄皇子と鎌足は、政治改革のため(?)政敵を次々と殺し、その後、天皇家にツタのように絡まった藤原家は、権力を握り続けるために陰謀の限りを尽くします。
また、その時代は、父親が同じでも母親が違えば結婚できるという、とても小中学校の教科書には書けないような男女関係がまかり通る時代でもありました。
そんな、今の時代から見れば、倫理も正義も道徳ももうメチャメチャな時代から、日本人は、仏教と共に進化しながら今の倫理観を構築してきたのかな、と思うのです。
だから今、仏教の勉強をするのって、宗教として、と言うより「自分がよりよく生きるため、あるいは楽になるため」に仏教のことを知りたい、という感じでしょうか。
まさに、「悟りを開く」?