SNSをのぞいてみて感じたことのひとつ。
なんと、心を病んでる人の多いことか・・・
ブログは気持ちの捌け口には、とても良い場だと思う。
その証拠に毎日増え続けている。
そして、gooホームも月日が経つに従って人が増えてきた。
去年後半あたりから、心の病のうちの一つ、「うつ」だという
ことを隠さずにプロフィールを紹介している人が目立ってきた。
しかし、それは正しい判断だと思う。
接する人は、それなりの対応に気をつけてあげられるから。。。
反面、まだ、そこまで勇気のない人がいるのも事実。
つまり、ブログに「うつ」ということが分からない人も・・・
これって、凄く危険なことではないか?
事実、コメントで傷ついて心を閉ざした人もあるという。
私はあまり、実際に「うつ」の人と係り合ったことがない。
話にはよく聞くが、言ってはいけない言葉などがあるという。
接する人は知らずに、言ってはいけない言葉をかけてしまう
と、相手を死〈自殺〉に至らしめることもあるらしい。そのこと
を考えれば、最近簡単に、言葉をかけれなくなってしまった。
なので、昨日のニュースが気になった。
ニュースの場合、移動・整理などで違うURLになることがあるので、
後日必要とすることもあるかと記録を残したく、引用させて頂きます。
(以下、引用・部分引用有)
【第15回】 2009年05月13日 泉谷閑示(精神科医)
「うつ」にまつわる誤解 その (15)
http://news.goo.ne.jp/article/diamond/life/2009051302-diamond.html
「励ます」ということは、「頭」の《意志》による自己コントロールを再び強化せよと言っているわけですから、ストライキに対して軍隊を向けるようなもので、事態が泥沼化するのは明らかです。しかも患者さんの「頭」は、「自己コントロールが十分に効いて有意義な活動ができるような自分でなければ、自分には価値はない」という考えを持っていることが多いため、励まされても思うように動かない自分自身を情けなく思い、いっそう自己嫌悪に陥ります。これが場合によっては、自殺願望を強めてしまう恐れもあるわけで、だからこそ「励ますこと」が危険なのです。
小手先の気遣いは「うつ」には通用しない
しかし周囲の人は、表向きは「励まし」たりしなくとも、一日でも早く「有意義な活動」ができるようになってほしい、と期待して待っていることが多いものです。もちろん、患者さんの一日も早い社会復帰を願うことは、現代社会に生きる周囲の方々にとっては、ごく当たり前な気持ちでしょう。
「よくなった」と周囲が喜ぶことにも落とし穴が!
「うつ」の経過において、療養によりエネルギーが回復してきて、見た目には調子の悪さが消えてくる時期があります。周囲の方たちも、明らかに「よくなった」と見えるので、やっと一段落といった気持ちになります。
しかし、この時期にこそ最も自殺の危険性が高まることが、従来からよく知られています(第11回参照)。それは、いったいなぜなのでしょうか。
「うつ」の状態が非常に強いときには、すべての意欲が減退しているために行動が全般的に困難なので、危険な行動化も生じにくいのですが、エネルギーが回復してきたときに、意欲が潜んでいた自殺願望と結びついてしまうと、とても危険なのです。
http://diamond.jp/series/izumiya/10011/
【第11回】 2009年03月12日 泉谷閑示(精神科医)
死を望む人の心境とは?
多くの場合、「死にたい」と訴えるクライアント(患者さん)は、積極的に「死」を望んでいるというよりは、むしろ、終りなく続くように見える苦しみからとにかく解放されたいという気持ちを強く抱いて、「死にたい」という言葉を口にされるものです。
「死にたいなんて、とんでもないことを考えてはいけない」
「死んだら周りの人がどんなに悲しむか、考えてごらんなさい」
「死ぬのは罪であって、人は生きなければならないものだ」
「生きるのはとても素晴らしいことなのだから、死んではいけません」
「死にたい」と告げられた周囲の人は、このような言い方で反応することがとても多いようです。どれも「どうにか生きてほしい」という強い願いから発せられたはずの言葉なのですが、しかし、これらの表現では意図に反して相手に「理解してもらえなかった」という落胆をひき起し、さらにその人の自責の気持ちを強める結果を招いてしまうことになってしまうのです。
さて、それはなぜなのでしょうか?
「死にたい」という言葉の裏にある気持ち
「死にたい」という気持ちを口にする人は、たとえわずかでも「ひょっとしてこれを話すことによって何らかの救いが得られるかもしれない」という期待を持っています。だからこそ、言いにくい気持を思い切って打ち明けているのだ、ということを聴く側は見落としてはなりません。
打ち明けている本人は、「死にたい」と思っていることについて、決して罪悪感を持っていないわけではありません。むしろ、そんなことを考えてしまう自分を、執拗に責め続けてさえいるのです。
そんなところに、先ほどのような「道徳的な説教」をされてしまいますと、「道徳的に自分を律することもできないダメな自分」という形で、さらに自己否定を強化する方向に追いつめてしまうことになるわけです。
このような場合にまず必要なのは、本人の感じている辛さへの「共感」の作業です。「死にたい」という言葉が発せられている時点では、まだ「死ぬ」こととイコールなのではありません。むしろ、「死にたいくらい辛い」というSOSのメッセージなのです。
ですから、何ら有効な助言などできなくともかまいません。中途半端に口を差し挟まずに、ただひたすらに「聴いてくれる」人間がいるだけでも、「死にたい」ほどの辛さは少しでも軽くなる部分があるのです。