大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年5月19日
今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙2章1節~5節を学
びます。使徒パウロは、1節で、まだ直接に会った事のないコロサイ教会とその姉妹教会のラオデキア教会のために、「どんなに苦闘しているか、分かってもらいたい」と訴えます。1:29にも「苦闘」という言葉が記されていましたが、この「苦闘」という言葉から、パウロがいかにコロサイとラオデキア教会の兄弟姉妹を大切に思い、彼らのために日夜祈り続けていたか分かります。また、パウロがいかにコロサイとラオデキアの主にある兄弟姉妹たちにイエス・キリストという「神の奥義」、真理を伝えたかったのかという情熱が伝わってきます。たとえ遠く離れていても、彼らのために祈り、励まし、心から仕えたいというパウロの真剣な思いが伝わってきます。もしコロサイとラオデキア教会のことをパウロがそこまで愛していなかったら、どうでも良かったら、彼は苦闘することはなかったでしょう。パウロは、まだ会った事もない兄弟姉妹たちのことを大切に思い、彼らのために祈り、手紙によってイエス・キリストという真理を伝えようとしたのです。今回は、「苦闘」ということから大久保教会の皆さんと二つのことを実践したいです。
まず、共に大久保教会のために「苦闘」しましょう。大久保教会の兄弟姉妹、子どもたち、求道者の方々、地域の人々のことを大切に思い、その人々のために日夜祈り続け、イエス・キリストという神の愛=「神の奥義」、福音を伝えてゆきましょう。これは強制ではなく、神様から委ねられている私たちの使命であり、主からの恵みです。たとえ教会に戻って来る事が様々な事情でままならなかったり、週に一度であったり、仕事があって祈祷会に出席できなくても、諦めずにまずそれぞれの場で祈りましょう。心を合わせましょう。それぞれの場にあって最大限の努力をしてみましょう。それが「苦闘」ではないでしょうか。また、「命」、「健康」、「時間」、「才能」、「富」など、神様から頂いている賜物は様々ありますが、それらを主のために聖別し、信仰をもって主にささげてゆきましょう。それは大変苦しいことかもしれません。しかし、それが「信仰の苦闘」ではないでしょうか。
もう一つの「苦闘」、それは神学校と世界宣教を覚えて祈り、信仰をもってささげてゆくということです。私たちは、東京バプテスト神学校より教会実習生としてI兄を9月までお迎えしています。しかし、西南学院大学神学部や東京バプテスト神学校で学ばれている他の神学生たちとの面識はありません。また、世界祈祷週間の時に海外の宣教の働きのために祈り、献金をささげますが、インド・プリ子どもの家の子どもたちやスタッフ、タイやインドネシア、ルワンダの兄弟姉妹に会ったこともありません。しかし、その人々を大切に思い、覚えて祈り、イエス・キリストの福音を伝える働きのために信仰をもってささげてゆくこと、それが「信仰の苦闘」ではないでしょうか。
大久保教会のことがどうでも良ければ、苦闘する必要はありません。
アジアやアフリカの人々のことがどうでも良ければ苦闘する必要もありません。
しかし、私たちの救い主、イエス・キリストの苦闘、十字架の贖罪の死と復活を信じ、感謝し、喜ぶ者は、神様の愛しておられる人々、主の教会の兄弟姉妹のために苦闘するようにと招かれています。主がその命をささげて下さったように、私たちが自分をささげてゆくようにと招かれています。その始めの一歩が「祈る」ということです。
パウロは自分自身の「苦闘」は、コロサイ教会の兄弟姉妹をはじめ、全世界の人々がイエス・キリストの福音とその力によって「心が励まされ、神の愛によって結び合わされ、豊かな理解力がじゅうぶんに与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るため」(2節)であると言っています。主の栄光のために、隣人のために私たち一人ひとりにできる「苦闘」とは何でしょうか。祈り求めましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎