大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年5月12日
今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙1章24節~29節を学びます。この箇所にはたくさん学ぶべきことが記されています
が、24節の「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」という言葉に今回は集中したいと思います。もう一度この24節をお読み下さい。ここに注目すべき2つのポイントがあります。1)パウロの苦難と2)「キリストの苦しみのなお足りな
いところを」というポイントです。
使徒パウロの苦難ということですが、このコロサイ教会へ手紙を記している最中も、パウロはローマで囚われの身、軟禁状態でしたし、使徒として主と教会に仕えている間に数々の苦難を経験してきました。使徒としての苦労の多さ、投獄とむち打ちと死に直面した回数が2コリント11:23–27に記されています。一つひとつは大きな苦しみであったでしょう。
しかし、パウロはそれらの苦難を「喜んで受けている」と言います。
それは、「コロサイ教会のため、キリストのからだなる教会のために」と言っています。
私たちも日々の生活で、また教会生活をしてゆく上で苦労や困難があります。現在の大久保教会では、限られた教会員と執事たちが複数の奉仕をそれぞれ担ってくれています。これはとてもしんどいこと、大変なことです。時には「もう投げ出してしまいたい」と思う事もあるでしょう。「私の苦労は何のために?」ということが分からないとくじけるだけで、喜びなどわ
き上がってきません。しかし、パウロは苦難を喜ぶと言います。彼自身は自分の苦難の意味、目的をはっきり理解していました。それはコロサイ教会をはじめ異邦人教会と異邦人の兄弟姉妹のため、またキリストのからだなる教会のために働いていると自分の使命を理解して、神様からの「召し」を喜び、たとえ苦労と困難が多くとも、この働きを心から喜んだのです。
先に申しました様に、現在の大久保教会では限られた兄弟姉妹が複数の奉仕を担っています。本当にアップアップの状態であります。大久保教会のすべての人が喜びに満たされ、共に礼拝をささげ、共に伝道をし、共にキリストのからだなる教会を建て上げてゆくためにご協力をお願いできないでしょうか。あなたの賜物をささげていただけないでしょうか。この事に関してお祈り下さい。
さて、「キリストの苦しみのなお足りないところを」とはどういう意味でしょうか。私たちの罪を贖うためには「主イエス様の十字架の苦しみが足りなかった」ということでしょうか?
そうではありません。主の十字架の贖いは充分すぎる救いの業です。ここでパウロが伝えたかったことは、主の十字架の苦しみ、贖罪の意味をユダヤ人も異邦人も分かっていない、理解が「足りない」という意味だと思います。
パウロが何故これほどまでに苦難に遭わなければならなかったのか。それはパウロがイエスこそ神の子、キリスト・メシアだと宣べ伝え、ユダヤ人が受けるべき神の救い、恵みを異邦人にまで分け与えようとしたからであり、異邦人たちも福音に対して心を開く人が少なかったからです。しかし、パウロはくじける事なく、諦める事なく、神の言葉であるキリストの福音を
伝え通したのです。イエス様は、私たちの救い主であり、私たちの栄光の希望です。28節で使徒パウロは自分の使命をこのように言い表しています。「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。」また「わたしはこのために、わた
しのうちに力強く働いておられる方(キリスト)の力により、苦闘しながら努力しているのである」と29節で言っています。クリスチャンとして主と隣人と教会に仕える時、苦難が伴いま
す。しかし、その顧みは大きく、栄光に富んだものなのです。
共に祈りつつ、キリストのからだなる教会の形成のために仕えましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎