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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#81 使徒行伝25章1~12節

2010-01-13 19:59:59 | 聖書
 みことば:「(総督)フェストゥスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロに向かって言った・・・」25章9節前半 岩波訳

 総督ペリクスはユダヤ人の歓心を買おうとパウロを監禁したままにしたと24章27節にありましたが、監禁されてから2年の月日が経過します。先週、私たちはユダヤ州の総督ペリクスの人物像を学びましたが、ペリクスに代わってフェストという人物が2年後に総督となります。彼についての資料はあまり残されていないのですが、総督として4年弱ユダヤ州を治めた後、病いの為に亡くなったということです。

 総督として着任するやいなやフェストは直ちにエルサレムへ向かいます。エルサレムが宗教的にも文化的にもユダヤ州の中心地であったからです。フェストがエルサレムに着くや否やユダヤ社会の重立った人々、つまり祭司長やユダヤ議会の重鎮たちが近寄り、パウロを自分たちの手の及ぶエルサレムまで戻してほしいと願い出ます。パウロがエルサレムへ戻る途中で彼を暗殺しようと彼らは考えていました。パウロがカイザリヤで監禁中も、パウロに対するユダヤ人たちの憎悪の念はずっと続いていました。フェストは2年前に熱心党の40人がパウロ暗殺を企てていたことも、また今回ユダヤ人リーダーたちのパウロ暗殺計画も知りませんでした。残念なことは、2年前は熱心党に協力を仰がれたユダヤの重立った人々が、今度は自らの手でパウロを闇に葬ってしまおうと計画していたことです。しかし、フェストは「パウロを訴えたければカイザリヤで告訴せよ」と彼らの願いを突っ返すのです。神様は、パウロの命を守る者として異邦人であるフェストを用いられます。フェストは、そのように神に用いられているとは知らずにいたでしょう。しかし、主なる神様が彼を用います。同様に、私たちが意識している、意識していないに関らず、神様は私たちをも主の御心のうちに用いられているのです。私たちのような小さな者でも主の目的のために用いられているということに感謝し、また、「主よ、私をあなたの栄光のためにお用いください」と祈り求めてゆきましょう。

 カイザリヤへ下ってきた大勢のユダヤ人たちは、パウロを取り囲み、重い罪状で訴えます。私たちも、身も心も人や悩みや苦しみに囲まれることがしばしばあり、それらに圧倒されそうになることがあります。しかし、私たちは主イエス様の十字架と復活の力によってその囲いから解放され、自由にされた身であることを覚え、感謝しましょう。使徒パウロは主イエス様にあって「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何ら罪を犯していない」と力強く宣言します。主イエス様を見上げ、主イエス様の声と導きに忠実に従い、主にあって自由であったからです。私たちも同じように主イエス様の十字架と復活によって自由人とされているのです。人の目や思いを気にしたり、人の価値観や思いに囲まれて、人の思いに怯える必要はないのです。主の愛と救いに感謝しましょう。

 フェストの裁判は、イエス様を裁いたピラトの裁判に似ています。9節でフェストはユダヤ人たちの歓心を買おうとします。前任者ペリクスもそうでした。ユダヤ人たちに恩を売ろうとするのです。私情が入ってしまうこと、情実にとらわれて不平等が起こります。人を喜ばすことで自分のことを良く思ってもらおうとします。私情が入ると「えこひいき」がどうしても出てきて、正義は曲げられ、人間関係が引き裂かれます。神様は「えこひいき」をなさらないお方です。私たちも私情を入れることを忘れ、神が私たちに求め、神が喜ばれる道を主と共に歩みをしましょう。

 「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」ガラテヤ1章10節
 主の栄光のために、主のからだなる教会を建て上げるために、共に。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎