新年 明けましておめでとうございます。新しい年も、それぞれの歩みの上に主の恵みと平安とが豊かにあるようにお祈りします。
新年礼拝において、私たちはローマ書12章9節~18節から「喜びも悲しみも共に負う一年」を送りなさいと示されました。コミュニケーションという言葉は、ラテン語のコムニカチオに由来し、「コム:共に」と「ウニオ:一致」、そして「ミュニテア:舗装、通行可能にする」という言葉から構成され、「共に分かち合う」を意味します。喜びも悲しみも、主にあって共に分かち合い、共感し、共に負いたいと願っております。その時にはじめて、「喜びも悲しみも主の恵み」と感謝をもって証しと讃美ができると信じています。主のお導きと祝福を共にお祈り下さい。
みことば:「ですから、私自身も、神に対し、また人間に対し、やましくない良心を常に持つように努力しているのです。」24章16節 岩波訳
今週の祈祷会は、使徒行伝24章を学びます。
最初の部分(1~9節)はエルサレムから来たユダヤ人祭司たち側の弁護士のパウロ告訴の言葉が記され、10節から21節には使徒パウロの弁明と証しが記されています。この2つの部分を読んでゆきますと、共通する言葉があることに気付かされます。それは、総督ペリクスに対する「お調べになれば(ことごとく)お判りになることです」という言葉です。真実は一つです。聖書の解釈、事実関係への理解が異なったり、視点が違っているために真実を誤って見てしまい、論点を間違えてしまうこともよく起こりますが、正確に調べれば判ることです。しかし、その調べることを人任せにしたり、先延ばしにしたり、怠る中で摩擦が心に生じ、人間関係の中にも飛び火してしまいます。ですから、日々忙しいとは思いますが、それでも各自が日々聖書を読む時間を確保し、自分で神様の愛、宝物を丁寧に探すように求めようではありませんか。聖書には神様の愛が散りばめられています。キリスト・イエスという真理の道を共に歩みましょう。
パウロは弁明の中で、「自分はどんなことがあってもイエス・キリストという真理に立つ」と証しします。私たちも各自この真理の上に立ちなさいと導かれています。誰かの信仰に便乗はできないのです。パウロは「神に対し、また人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」とも言っています。私たちもパウロのような者でありたいと願います。そのためには「祈り」と「謙遜を身に帯び」、御言葉によって私たちの心を新しく造り変えていただき、朝ごとに新しい力を注いでくださる「主の言葉に聴き従う」必要があります。私たちを生かし、愛してくださる神様の愛と憐れみにこの一年も
生かされてまいりましょう。
さて、最後に総督ペリクスとパウロのやり取りが展開されますが、この総督について少し記したいと思います。22~23節によれば、ペリクスは優柔不断な人であったことが記されています。また26節ではパウロから金をもらいたいという下心があったとあり、27節ではユダヤ人の歓心を買おうと思ってパウロを監禁したままにしたとあります。彼は平気で二股をかける利己主義の人でした。私たちは、この新しい一年も富や名声や人の関心に心を寄せるのではなく、救い主イエス・キリストという真理に立ち、神様の御旨を求め、真理の道を共に歩んでゆこうではありませんか。神様はイエス様の御言葉に聴き従い、主と
教会と隣人に仕える者を豊かに祝福なさいます。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
新年礼拝において、私たちはローマ書12章9節~18節から「喜びも悲しみも共に負う一年」を送りなさいと示されました。コミュニケーションという言葉は、ラテン語のコムニカチオに由来し、「コム:共に」と「ウニオ:一致」、そして「ミュニテア:舗装、通行可能にする」という言葉から構成され、「共に分かち合う」を意味します。喜びも悲しみも、主にあって共に分かち合い、共感し、共に負いたいと願っております。その時にはじめて、「喜びも悲しみも主の恵み」と感謝をもって証しと讃美ができると信じています。主のお導きと祝福を共にお祈り下さい。
みことば:「ですから、私自身も、神に対し、また人間に対し、やましくない良心を常に持つように努力しているのです。」24章16節 岩波訳
今週の祈祷会は、使徒行伝24章を学びます。
最初の部分(1~9節)はエルサレムから来たユダヤ人祭司たち側の弁護士のパウロ告訴の言葉が記され、10節から21節には使徒パウロの弁明と証しが記されています。この2つの部分を読んでゆきますと、共通する言葉があることに気付かされます。それは、総督ペリクスに対する「お調べになれば(ことごとく)お判りになることです」という言葉です。真実は一つです。聖書の解釈、事実関係への理解が異なったり、視点が違っているために真実を誤って見てしまい、論点を間違えてしまうこともよく起こりますが、正確に調べれば判ることです。しかし、その調べることを人任せにしたり、先延ばしにしたり、怠る中で摩擦が心に生じ、人間関係の中にも飛び火してしまいます。ですから、日々忙しいとは思いますが、それでも各自が日々聖書を読む時間を確保し、自分で神様の愛、宝物を丁寧に探すように求めようではありませんか。聖書には神様の愛が散りばめられています。キリスト・イエスという真理の道を共に歩みましょう。
パウロは弁明の中で、「自分はどんなことがあってもイエス・キリストという真理に立つ」と証しします。私たちも各自この真理の上に立ちなさいと導かれています。誰かの信仰に便乗はできないのです。パウロは「神に対し、また人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」とも言っています。私たちもパウロのような者でありたいと願います。そのためには「祈り」と「謙遜を身に帯び」、御言葉によって私たちの心を新しく造り変えていただき、朝ごとに新しい力を注いでくださる「主の言葉に聴き従う」必要があります。私たちを生かし、愛してくださる神様の愛と憐れみにこの一年も
生かされてまいりましょう。
さて、最後に総督ペリクスとパウロのやり取りが展開されますが、この総督について少し記したいと思います。22~23節によれば、ペリクスは優柔不断な人であったことが記されています。また26節ではパウロから金をもらいたいという下心があったとあり、27節ではユダヤ人の歓心を買おうと思ってパウロを監禁したままにしたとあります。彼は平気で二股をかける利己主義の人でした。私たちは、この新しい一年も富や名声や人の関心に心を寄せるのではなく、救い主イエス・キリストという真理に立ち、神様の御旨を求め、真理の道を共に歩んでゆこうではありませんか。神様はイエス様の御言葉に聴き従い、主と
教会と隣人に仕える者を豊かに祝福なさいます。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎