limited express NANKI-1号の独り言

折々の話題や国内外の出来事・自身の過去について、語り綴ります。
たまに、写真も掲載中。本日、天気晴朗ナレドモ波高シ

水戸徳川家

2017年02月24日 14時13分09秒 | 日記

藩祖頼房から始まった水戸家の「特例」
水戸徳川家は、慶長14(1609)年に家康の11男・頼房が水戸25万石を賜ったときから始まる。水戸家は、他の御三家である尾張家、紀州家と比べ、石高が他2家の半分程度と少なく朝廷から賜る官位も「権中納言・中納言」(尾張家・紀州家は、権大納言・大納言)と一段下であったが、尾張家・紀州家は御三家と言えども参勤交代が必要だったの対して、水戸家は藩主が江戸に常駐する「定府」であり、参勤交代の必要が無いなど御三家の中でも「異色の存在」であった。こうした「独自性」は、藩祖頼房のときに決定付けられた。頼房は幼少時代、兄9男義直(尾張藩祖)10男頼宣(紀州藩祖)とともに家康のいた駿府城で育てられていた。家康はあるとき、3人の幼い息子達に望むものを聞くと、1番年下の頼房が「天下」と答えたことから、「謀反の恐れ有り」として頼房には、兄達の半分程度の所領しか与えなかったといわれている。また、頼房は第3代将軍となる家光と年が1つしか違わなかった(1歳年上)ため、その父・秀忠が「学友」として江戸に留め置かれ、長じてからも家光のよき相談相手となったために、水戸家は代々、参勤交代不要の「定府」とされ、水戸家藩主が「副将軍」と称されることとなった。

「圀(くに)」の字
「恐れ多くも先の副将軍」と言えば、誰でも思いつくのは、2代藩主徳川光圀であろう。「水戸黄門」であまりにもメジャーな藩主ではあるが、お忍びでの全国行脚はしてはいない。だが学問には非常に熱心で、儒教を奨励したほか、歴史書「大日本史」の編纂を行い、尊王思想が育つ土壌を作り上げるとともに、水戸家独自に形成された「水戸学」の基礎を作った。この「水戸学」は幕末の尊皇攘夷思想に多大な影響を与えることとなる。寛永13(1636)年に元服し、将軍家光の諱(いみな)を与えられて「光国」と名を改めているが、延宝7(1679)年に「光圀」と改名している。(光圀52歳)しかし、天和3(1683)年との説もある。しかしながら、何故「圀」の字を用いたのかは不明である。この「圀」の字は、中国唐王朝の武則天(則天武后)が命じて作らせた「則天文字」の一字であり、他にほとんど用例が見られない「特殊な例」である。「則天文字」は、約20字がつくられているが、武則天の退位と共に廃されたのだが、「圀」の字だけは何故か生き残り、時を経て光圀公の名前に使われることとなった。(則天文字は17文字が中国で確認されている)

光圀公が初
学者肌で非常に好奇心が強かった「水戸光圀」。様々な逸話も残っている。
・日本の歴史上、初めて光圀が食べたとされるものには「ラーメン」「餃子」「チーズ」「牛
乳酒」「黒豆納豆」がある。
・肉食が忌避されていたこの時代に、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」を無視して「牛肉」
 「豚肉」「羊肉」などを食べていた。
・オランダ製の靴下、いわゆるメリヤス足袋(日本最古)を履いたり、ワインを愛飲して
いた。朝鮮人参やインコを取り寄せて、育てたりもしている。
・鮭も好物で、特にカマとハラスと皮を好んで食べていた。
・中国人が献上した中華麺を元に、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、自身の「特
技」として「うどん」を作っていた。汁のダシは長崎から取り寄せた乾燥豚肉をつかい
薬味としてニラ・ラッキョウ・ネギ・ニンニク・ハジカミの五辛を使い、現在でいう「ラ
ーメン」であった。

黄門様は7人いた?!
「水戸黄門」とは、水戸藩主で権中納言・中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)である。一般的には「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で権中納言・中納言に任命されたのは藩祖頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、「水戸黄門は7人いた」ということになる。

水戸徳川家の藩主の帰国は、申し出によるものであった。慢性的な藩財政の悪化もあり、江戸中・後期の藩主はほとんど帰国しなかった。光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最多である。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸へ出るまでの5年間と、隠居してから没するまでの10年間を水戸藩領内で過ごしている。そのため光圀縁の史跡は後の藩主に比べると格段に多いことも特徴である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿