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「お国のため」に始めた戦争の最後の作戦が「在留邦人をまもるため」・・・4万人の邦人を救った根本博中将

2023年08月20日 06時24分29秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
ソ連軍から4万人の居留民をすくった根本博中将をいまいちど紹介したい。
昭和史の本は子供のころから読みつづけていたのに、古本屋でこの本を見つけるまで根本中将のことは知らなかったのデス。
 
おそらく日本軍はじまって以来の出来事がおこった。
 
将兵は「お国のため」ではなく「同朋を守るため」に戦ったのである。
 
むろん特攻隊員のように個人的には「家族や故郷を守るため」と心の支えにした将兵もいたのだが、全軍が「無辜の同朋を守るため」と一致団結した作戦は空前絶後ではないか?
 
ひとえに根本が「ソ連軍から居留民を逃がすため」と作戦目的を明確・簡潔にしたことが、この奇跡の起爆剤となったのだと思う。目的も終りもみえない戦いでは士気は揚がらない。
 
根本が身命をかえりみず武装放棄を拒否した話しは、瞬く間に全将兵に伝わり士気はおおいにあがった。死地にある時、リーダーの覚悟や人となりは重要で、まさに「勇将の下に弱卒なし」の見本といえる。
 
張家口の市街地の外に構築した通称「日の丸陣地」を守備する召集兵が、「家族を逃がすために」と奮戦したと以前に書いたが、今回は最前線でソ連軍機甲師団を迎撃し、殿軍となって居留民に見落としがないかの確認までした戦車中隊を紹介したい。
日本軍の「九七式中戦車チハ」では装甲が薄く大砲は小口径だから、まともな戦車戦ではソ連軍に対抗できない。しかも日本軍25両ほどの戦車に対して、ソ連軍戦車は湧いて出てくるように陸続と集結してくる。
 
起山戦車隊長はどう戦ったのか?狭隘な山間地で待ち伏せして、至近距離から攻撃したのだ。
 
ソ連軍の足止めに成功した戦車隊は、居留民が避難した後の張家口の市街地を「日本人は残ってないか!」と叫びながら走り回ったそうだが、この部分を読むたびに涙があふれてくる。
 
沖縄戦でガマ(鍾乳洞)に避難していた民間人を追い出したり、自決を強要した部隊もあったなか、根本指揮下の職業軍人たちは民間人を守ることに徹していた。
 
この違いは作戦立案者の見識の違いだと思う。沖縄戦では「国体護持」、つまりは天皇制維持のために米軍に痛撃を与えて、和平交渉を有利にする狙いがあり、作戦立案者は戦地の実情を知らず、机上で作戦を練っていた大本営参謀本部。
 
対して根本中将はソ連軍の矢面にたつ前線の司令官だし、「軍人たるものは陛下の臣民を守るのが忠義」という考えであったのだろう。
根本在任中の司令官公邸は誰にでも門戸を開いていたから、現地人も遊びに来て酒を酌み交わした。占領下の中国人だからと見下す人物ではなく、公平で人間愛に溢れるスケールのおおきい人物であった。
 
だからこそかっての敵軍であっても、蔣介石は根本の要求を受け入れて在留邦人の帰国を助けもしたし、中華人民共和国との戦いで根本を参謀として招聘した。
蔣介石は独裁者と批判もあるが、日中戦争時の蔣介石は武力に勝る日本軍を広大な中国奥地に引き込み伸びた補給線を攻撃する戦法に出て、持久戦に持ち込んだ。日本軍を疲弊させると同時に、モンロー主義をとり第二次世界大戦参戦を渋るアメリカからの支援と参戦を促す目的もあり、世界に向けたプロパガンダも巧かった。
 
 
「お国のため」にはじめた15年戦争(満州事変から太平洋戦争まで)の最後の作戦が、軍功とは無縁な「同朋を守るため」であったこと、敵将から助けられたこと、これは救いではないだろうか。
 
 
 

 



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