第1回]平成24<2012>年12月6日(木)13:30~15:20
<参>20名
[開講式]沼隈内海商工会 会長 三谷省吾 あいさつ(13:35~)
[アイスブレイク]自己紹介(~13:45)
[座学]<於>沼隈内海商工会2階会議室
講師:福山市文化財保護指導員 上田靖士(13:50~)
[資料A]歴史上(史実)
[資料B]伝説・伝承
[資料C]平家物語
を元に座学形式で基本的な概略を学びました。
平安時代 1159(平治元年) 平治の乱
1160(永暦) 源頼朝 伊豆へ流罪となる
1167 (仁安2年)平清盛 太政大臣
1168(仁安3年)厳島神社社殿改修
1180・4(治承4年)以仁王・平家追討の院宣
1180・5(治承4年)高倉上皇厳島参詣
1180・8(治承4年) 源頼朝 挙兵する。
1180・9(治承4年) 富士川の合戦
1181・閏2(養和元年)平清盛の死
1185・3(文治元年)壇ノ浦の合戦
この様な時代背景を基本に据えて、以下の様なことを学んで行きました。
[資料C]『平家物語』
C-4:千年藤
『平家物語』(巻の四)「還御」
「何故、敷名の泊に立ち寄ったか?」
?海から見て、敷名の山が丸く見え気に掛かった。
?「院の御所」(父親である後白河法皇)があった。
?当時の船の航法が「地乗り航法」で、「潮待ち」をしたと考えられる。
「千とせへん、君がよはいに藤なみの、松のえだにも、かかりぬるかな」と
大納言隆季(たかすえ)が詠んだ歌
「此所は去る応保のころほい、一院行幸の時、国司藤原の為成がつくッたる御所のあるけるを、
入道相国御まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせ給はず。」
明治22年、能登原村・草深村・常石村、三村が合併する時に、「千年村」となる。
[資料B]
[伝能登原源平合戦]
1185・2「屋島の合戦」
1185・5「壇ノ浦の合戦」
この間の出来事と考えられる。
『西備名嘔』文化元年(1804年)[B-1][B-3]
『備陽六郡志』元文末年(1740年頃)
『沼隈郡誌』大正12年(1923年)[B-7]
などの郷土志に載っている。
これらの話の元となっているのは、伝承として斐忠次郎が平家の武者に操船技術を伝授した
と伝えられ、「磯間の三将」重盛、教経、知盛を指す。
「壇ノ浦の合戦」まで、戦ったのは、知盛・教経が従っている。
『西備名嘔』文化元年(1804年)
[B-1]「平家の宮」
[B-2]「鐙が峠」「八日谷」「矢の島」
[B-4]『備陽六郡志』元文末年(1740年頃)
[B-5]「横倉の看板」福泉坊 天正10年(1583年)三月一寺を建立
[B-6]地元に残る地名:弓場(ゆば)射場(いば)
[資料C]
[C-2]『平家物語 巻9』「落足の事」(通盛の最期)
「小宰相の局」とのラブロマンス
「通盛の恋歌」
「我が恋は、細谷川の丸木橋、ふみかへされて、濡るる袖かな」
「小宰相の局」の返歌
「ただための、細谷川の丸木橋、ふみかえしなば、落ちざらめやは」
[C-3]小宰相の局の最期
(注)カッコ内の番号は、資料のページ数です。
[第2回]平成24<2012>年12月13日(木)13:30~16:20
[現地研修]<参>19名
現地に赴き、現地で研修を行いました。
[平家谷(沼隈町横倉地区)]
(刀岩)(赤幡神社)(乗越)(貴船神社)
(福泉坊)(小宰相庵)(通盛神社)
(平家の井戸)(古宮)(一本松)
(喜勢)
(湯船神社)
[第3回]平成24<2012>年12月20日(木)13:30~16:10
[現地研修]<参>14名
今回は「平家伝説」と関係のある沼隈町の観光スポットを
巡り、現地での研修を行いました。
[千年(ちとせ)藤碑]
(菅茶山漢詩碑)(敷名番所跡)(現千年藤)(敷名厳島神社)
[阿伏兎観音参道沿い碑]
(宮城道雄碑)(十辺舎一九碑)(山本瀧之助頌徳碑)
(桑田抱臍狂歌碑)(内海亀祐歌碑)
[磐台寺]
(客殿)(観音堂)(足摺山)
[弓掛けの松(能登原八幡宮鳥居)]
[伝源平能登原古戦場(展望の丘)]
以上のようなコースを廻り、「おもてなし養成講座」の研修を
終え、次回はこれらを元に一箇所を解説し「修了書」の授与の
運びとなります。
次回は、平成25<2013>年1月9日(水)となります。
参加者のみなさんがどの場所を解説されるかが大変楽しみです。
[第2回の解説風景]
(刀岩の案内板)
(八日谷ダム堰堤下に刀岩が埋まっている。)
(貴船神社)
[第3回の解説風景]
(管茶山漢詩碑での解説)
(山本瀧之助頌徳碑での解説)
(かつての弓掛けの松)
(伝源平能登原古戦場の見える丘からの解説)
(沼隈半島の先端に位置する磐台寺観音堂)
(文責 福之山鳳来)