Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

5月7日

2006-05-07 01:28:22 | なんでもあり・ファミリー
福島にいたあの日からちょうど50年たった。

F大付属小入試は父の期待にそえず、住んでいた家近くのS聖母小学校に入った。制服仮縫いの日は祖母と一緒、入学式の写真には父が写っている。母が入院中だったからだ。

朝ごはんのとき電話が鳴り、ばあちゃんが受けた。
「母さん死んだんだよ」というひきつった祖母の声にも、僕は学校に行くと言い張った。日曜ではなかった、あの日は学校だった。
休み時間に校庭側のコンクリートタタミで遊んでいたら、連れ立って歩いてきたマザー二人から声をかけられた。
「お母さま、よくなられました?」僕、だまって首を振る。「おかわりないの?」「退院されたの?」。だまって首を振る。ためらいながら最後に聞いてくれた「亡くなられたの?」に、僕はうなずいた。
マザー達は驚き一人はどこかへ走ってゆき、すぐさま僕を家に帰したようだ、ここから記憶途切れる。

病院での母は眠っていた。
祖母が「パンツは、はかせられなくて上からかけただけ」と誰かに言っている。
母に近づくと、目をあけた、ように見えた。部屋を出ようと離れたとき、また、まぶたが開いてはっきりと僕を見た。死んでなんかいないじゃないか、と思った。

縁側でオマルに真っ赤なおしっこが出て祖母が「あらっ、のり坊大変だ」と慌てた。すぐに近くの国立病院に入院させられた。自家中毒だったという。このとき3才だとすると、昭和28年、仙台でのことだ。
心細くて二階の窓から見ていると、病院の正門から小柄な母が歩いて入ってきた...うわぁ..
一番古そうな記憶だけど、まるで昨日のことのようだ。

母は、おとなしい人だった。縁側の前の畳で裁縫をしている。僕は横で遊んでいる。弟がよちよちやってきてヨイショとすわりタチバサミがボキッと折れた。「困った子ねえ」という言葉は出たが母はまったく怒らなかった。

仙台の仙石線宮城野原駅近くの母の知り合いらしい家で小犬をもらった。買い物篭のなかに小さな茶色い犬が動いていて、線路沿いの帰り道、何度も篭を覗きながら家に帰った。名前はペスになった。耳が垂れた毛が多少長い雑種で色は茶色。父が福島に転勤する昭和29年までテニスコートの向いの祖母の家にいたから、これは4才ぐらいのときだったか。

(1学期はずいぶん休んだ。深緑色の小さな聖書と赤い万年筆、(モルヒネの?)注射器と消毒綿入れ、たからものをビスケットの函につめて、畳の縁をブーブーと走らせていた。何十年もたって古いアルバムを見つけた。母はカトリック系の仙台高等女学校・いまの仙台白百合学園の出なのであった。僕が修道院の小学校に入れられたのは、母の最後の意志だったろう。半世紀たちアラ還の僕は、なるべく白百合のあった花京院交差点を渡る。重そうなかばんを抱えた小柄な女学生の通学路と行き来した空間を横切っているような気がして...2010.5追記)

1956年・昭和31年5月7日午前8時45分...
いったい、僕は誰に向かって何を書いているのだろうか、
インターネットがどこかにつながっているなら...これ読んでね。今、花盛りだよ。

コメント (4)
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