Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

Storia 異人列伝の電子書籍

2020-06-24 06:32:26 | 世界史のひとindex

 

 ヴェネツィアの物語などで感心していた塩野七生さんがローマ人の物語に取り組み始めた頃から、このブログ上に読了した書物から知識を得た記事を置いていた。以来500篇ほどの蓄積にはなっているが古希を迎え整理と断捨離を敢行、まずは古代ローマの人物関係数十記事をkindle 版の電子書籍としてまとめアマゾンより出版した。インターネット上に無償公開コンテンツが存在し内容が重複すると若干問題も伴うことから、さしむき電子BOOK化対象予定のコンテンツについては当ブログにては非公開もしくは削除した。検索サイトによっては削除された記事が存在する様に見えたりもすることもある様である。これまで記事引用やリンク・参照されている方にはお詫び申し上げたい。以下にてご覧いただければ幸いである。

著者:佐竹則和   2020.6.15  

       Storia異人列伝(I) 

 

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「フローレンス ナイチンゲール」電子書籍

2020-06-16 07:59:30 | 世界史のひとindex

このGOOブログ上にアップしていた、リットン・ストレイチー著作の日本語訳「フローレンス ナイチンゲール」記事3編については、翻訳も見直しの上で電子書籍としてまとめ、アマゾンからkindle版電子書籍として出版した。インターネット上の無償公開コンテンツとして残し内容が重複すると著作者・翻訳者の特定など書籍出版上の制約も伴うことから、当該コンテンツは当ブログからは削除している。これまで記事引用や参照されている方にはお詫びしたい。以下にてご覧いただければ幸いである。

リットン・ストレイチー著 佐竹則和 日本語翻訳 2020.4.22

フローレンス ナイチンゲール

 

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「ビクトリア女王伝」の電子書籍

2020-06-16 07:57:11 | 世界史のひとindex

このGOOブログにアップしていたリットン・ストレイチー著作の日本語訳「ビクトリア女王」の記事10編については、翻訳内容など見直しの上で下記の表題にて、アマゾンからkindle版電子書籍として出版した。インターネット上の無償公開コンテンツとして残し内容が重複すると、著作者・翻訳者の特定など書籍出版上の制約も伴うことから、当該コンテンツは当ブログからは削除している。これまで記事引用や参照されている方にはお詫びしたい。以下にてご覧いただければ幸いである。

リットン・ストレイチー著  日本語翻訳:佐竹則和 2020.4.13

ビクトリア女王伝: “Queen Victoria”by Lytton Strachey 翻訳版

 

 

 

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図書館の魔女 / 髙田大介

2020-03-17 22:22:59 | 音楽・芸術・文学

    図書館の魔女 (上・下)  /  髙田大介著 講談社

 高田大介さんを知ったのは、元はと言えば将棋の世界からの辿り着きである。ここ数年でネットでの動画配信、テレビ映像も急速に進歩・変貌し、将棋の対局番組でも持ち時間6時間さらには二日がかりのタイトル戦まで実況中継される素晴らしい環境になった。おかげで数十年ぶりで「将棋の世界」に触れ「観る将棋」としてハマって、現役棋士の人となり、声まで、ほとんど頭に入ってしまった。もっとも対局中継でも、1時間以上の長考に沈んで・・・となれば、番組制作側としては困るし僕みたいなミーハーなファンは飽きてしまうので、対局者の昼食、晩飯、おやつの紹介までにも工夫を凝らしているようだ。棋士たちはヒフミン以外は千円札でお釣りがくるような店屋物食べてる、お気の毒にと思っていたら、高田さんのMARGES DE LA LINGUISTIQUE  ⇨ 将棋指しが飯を食うに、遭遇した。

 高田さんのこの研究手控えブログに載っていた戯れ文は無論遊びだが、しかしかなりの将棋愛好家でないと書けないし、何より面白い多才なかたとお見受けした。さて、なにをしてるヒトだろう?言語学者であり小説も書くということでどちらが本業かは図りかねたが、まずは目についた「図書館の魔女」という小説、これが全くもって素晴らしい。続編の「烏の伝言」まで、単行本それぞれ厚さ3センチづつもある長編なのでツンドク状態だったが没入したら一気通貫に楽しませてもらった。学者の論文なら世間一般の目には触れず、その知見に触れることは難しい。最近の小説といえば空想妄想ファンタジーが多くあまり読む気が起きなかった。ところが、高田さんの小説、これは、違った。

 小説の読書感想など興ざめであるから、この小説の中で勉強になった箇所を数カ所引用させていただき、認知症寸前の我が頭脳のサポートにしたいと考えた。それが、以下の数カ所の引用である。
 「図書館」というもの、「書物」というもの、それらがかたち作る世界、「言葉」というもの、さらには「手話」、それらに触れた箇所だ。そして、図書館は人類の知の集積として、無害な読書人のためではなく、現実世界を動かす司令塔にもなりうる、という箇所だ 。

さて、図書館の魔女とはいったい何者なのか????ここからは、小説だから「検索」ではなく、自分で買って読むという知的で地味で、楽しい作業が待っている。こういう本がもっと世の中には知られて売れて、それこそ図書館でも目につくようになって欲しいと、心から思う。

>>>> (以下、「図書館の魔女 (上・下)  /  髙田大介著 講談社 」より引用 。。。。。部は中略)

>>>>。。。。

 キリヒトの方へ向き直ったマツリカは、厳しい視線で彼を射すくめるとますますぞんざいに右手を振るって言葉を継いだ。

ーーそんなわけで私が欲していたのは、ハルカゼに代わってハルカゼ並の仕事のできるものだった。ちょうど心当てに出来る人物が見当たらないので、顔が広いのが取り柄の爺に推挙を依頼したわけ。さて、そこでだがお前に務まるだろうか、キリヒト。

 キリヒトはどう応えていいものか判らなかった。自信がないといえば簡単だったかもしれないが、それでは自分の師匠をはじめ、自分を推挙した人々の期待に背くことになりかねない。返答に窮しているキリヒトに向かってマツリカはなおも言葉を重ねる。
ーー字も読めずに図書館の司書が務まるはずもないのはわかるね?しかし、そもそも字の読める読めないの問題ではない。司書というのが単にあっちの本棚に行き、こっちの本棚に戻りと、本を入れたり出したりするのが仕事だと思ったら大間違いだよ。

 こう言ってマツリカはこれから大事なことを言おうとする者が必ずそうするように息をすっと深くすった。もっとも、ふつうの人がするように、ここで声音を高めたのではない。マツリカはその代わりに、左手をキリヒトの目の前に突き出すと素早い手の動きで語り始めた。

ーー科学者でもいい、博物学の徒でも文献に沈くものでも構わないが、人がこの世界について何か新たに余人の知りえぬことを見いだしたと思ったとき、必ずや人は書物を著す。そのようにこの世界の森羅万象を明らめ、究めようと一冊の書物が生まれ、類書に並んでいく。こうして世界のありとあらゆる事どもを細大漏らさず記すべく数限りない書物が書架に背を並べ、やがては書物の詰まった棚の数々がそれじたい一つの世界をなして、網の目のように絡まりあって世界の全体を搦めとっていこうとする。これが図書館だよ。キリヒト。

 キリヒトには聞きなれぬ難しい言葉が、肘から先を鞭のようにふるうマツリカの手の動きに伴って次々と紡ぎ出されていく。ひらめく指先を目で追っているうちになんだか気が遠くなるようなきもちになってくる。図書館の書架の数々が自分の周りをめぐり出し、マツリカの指揮のままに渦を巻いて自分を翻弄しているかのように感じられてくる。キリヒトの目の前でまさにこの図書館が、そして螺旋をなしてどこまでも続いていく書架の列が、さらには一つひとつの書物が動き出してキリヒトの今まで知っていた世界を覆い尽くそうとしているようだ。なんだか本当に目まいがしてくる。

ーー図書館にある書物は、すべてが互いに関連しあって一つの稠密な世界を形づくっている。一冊いっさつの書物がそれぞれ世界に対する一片の知見を切り取り、それが嵌め絵のように集まって、大きな図を描いている。未だ知り得ぬ世界の全体を何とか窺おうとする者の前には、自分が自ら手にした心覚えと、人から学んだ世界の見かたとがせめぎ合い領分を争ってやまない。そしておのれ自身の認識と余人から預かる知見が、ほかのどこにも増して火花を散らしてせめぎ合うのが、ここ図書館だ。図書館は人の知りうる世界の縮図なんだ。図書館に携わるものの驕りを込めて言わせてもらえば、図書館こそ世界なんだよ。

。。。。。

ーーそれではキリヒト、お前は言葉のもう一つの基本的な性質のことを覚えているかな?

 キリヒトは思わず頷いたが、それは何だったか言ってみろと言われたら困ってしまったところだ。幸いマツリカ自身が答えを先に言ってくれた。
ーー言葉は小から大へ階層構造をもって組み上がっているといくということだ。有限の記号がこうして漸次複雑さの度合いを増して、世界そのものの複雑さに拮抗しようとする。それではキリヒト、書物は何で出来ている?

「・・・言葉で・・・でしょうか」
ーーよかろう。言葉を集めて、一つの書物が織りなされる。この書物が言葉の性質をそっくり受け継ぐだろうことは理解できるね?
「はい」正直に言えば理解してしているかどうかは判らないが、それは質問ではなかった。

ーーだとすると書物もまた時の進行に従い、一方通行の一条の線を成していることは明白だね?
「はい」自信に欠けた返答に、マツリカが助け船をだす。

ーー何も難しい話じゃない。本を逆に読んでいく人はいないでしょう。逆から書いていく人はいないでしょう。そういうことよ。
なるほど、それなら判るとキリヒトの目が明るくなる。

ーーそれではキリヒト、最後の質問、図書館は何で出来ている?
 キリヒトにも今度の質問の意味は明らかだった。削りだした岩盤やら、材木、漆喰、鋳鉄、そういうことを聞いているのではない。図書館を構成するもの、図書館が図書館であるためにそこになければならないもの、それは書物にほかならない。果たしてマツリカはキリヒトの答えを待たず、あとを続けた。

ーーもうすでに判っているだろう。図書館は書物の集積から織りなされた膨大な言葉の殿堂であり、いわば図書館そのものが、一冊の巨大な書物。そして収蔵される一冊いっさつの書物はそれぞれ、この世界をそのまま写しとろうとする巨大な書物の一頁をなしている。ではキリヒト、図書館もまた一冊の書物であるとすれば、その図書館の書物の性質をそっくり受け継ぐだろうことは理解できるね?したがってまた図書館が言葉の性質をそっくり受け継いでいることも理解できよう。言葉が互いに結びつきあい、階層を成して単位を大きくしていく、そのまっすぐ延長線上に図書館があり、世界の全体すらもまた同じ線上にある。無論この巨大な書物はどの頁を最初に取りあげてもよく、どの頁を読まなくて差し支えない。開くべき最初の頁、辿り着くべき最後の頁がどこにあるかも判らない。読み進むべき方向も明らかではない。にもかかわらず任意にいかなる頁を繙いても、そこには一条の不可逆の線が刻まれているだろう。

 縦に続くものもあれば横に続くものもある。左から右に並べられる言葉があり、右から左へくりひろげられる言葉があり、中には一行ごとに進む向きを変え「黎耕」する言葉もある。それなのにありとある言葉がただ一つの規則のみは遵守している。そこには必ず順序を持ち、前後の列を保つ、後戻りすることのない一本の線を成した言葉が刻まれているということ。図書館が一冊の書物である限り、図書館は言葉が享受する様々な力をひとしく持ちあわせるし、言葉が出て縛られるありとある桎梏をひとしく課せられている。なかんずく図書館の中の図書館と世界に謳われ、自らもまたそう嘯くこの「高い塔」が、言葉がそのものから立ちあがり、書物そのものから織りなされてある以上、その基本的な性質を曲げず受け継ぐのは理の当然だろう?
 故に、キリヒト、この図書館がまた一冊の書物である以上、順路は一方向にして不可逆、それに何の不思議があろう?

。。。。。

 しばしば勘違いされていることだが、手話というものは本来「声の代替物」ではない。つまり一般には、ある国語がまずあって、それを声で表すことも、手話で表わすことも出来ると誤解されがちなのであるが、これは手話の本質を突いてはいない。手話はそれ自体で独立した一つの言語なのであり、既存の音声言語に依存する代替的表現手段などではない。キリヒトもかつては、ここを誤解していた。手話は何かの、たとえば声の代理を果たすものだと何となく理解していたのだった。

 当たり前のことだが通常の音声言語は発声を前提とする。だから発声を前提とした構造化があって規則がある。手話という全く前提を異にする表現手段を。いつまでもこの音声言語の鋳型に無理に嵌めこんで、あたら矯めてしまうのは不合理なことで、植木鉢に魚を育てようとするような話である。

 手話は手指の動作ばかりではなく首の振り、眉や頰や口角や顎の様子、表情から視線すらをも動員して、空間的・多面的に展開される、音声言語とはまた別個の言語であって、手話ならではの文法規則や文の構造化要素の多くが、こうした全身的な挙措の総体として織りなされている。

 もともと聴覚や発声に障害を持つ者は家ごとに、それぞれ独自の「家庭内手話」とでもいうべきものをほとんど自発的に発達させるが、これがある程度の規模と歴史をもつ社会集団の中で自然、擦り合わされ、調整され、長い彫琢と練磨を経て、自分たちの要請に特化した一つの言語を結実させてきたのであった。

 イラムやマツリカの手話には、必ずしも音声言語にそのまま対応しない、独自の秩序、独自の構成原理のようなものがあり、それが彼女らの手話の表現力と発話速度を支えている。実際キリヒトは、ただ指を鳴らしただけ、ただ人を指差しただけに見えるしぐさで、マツリカがいかに雄弁に、傲然と命令を下すかを見てきた。

 もっともキリヒトもすぐに気付いたが、ひとくちに手話は別個の言語をなしているといっても、特にマツリカの手話は、いわば幾つものが重ね合わせられており、その内実は単純ではなかった。全てが純粋な手話の論理に従って組み立てられているわけではない。
 まず最初の層としては右に強調してきた純粋手話の層がある。これは音声言語の秩序化としばしば全く別個の構造規則を持つ層である。
 しかし聾者、唖者は数の上でまさる周囲の音声言語の話者と意思疎通することも避けるわけにはいかないから、音声言語を敷き写し出来る表現手段だって、どうしても必要になる。その極端な方法として、音声を全て手指で「書く」という方法、当該の言語の音を字母に「書く」のと同じように、手指の形と動きに変換する手段が考えられる。いわゆる「指文字」である。指文字は原理的には音声言語の全てを敷き写しにすることが出来る。

 だがもちろん指文字はけっして効率的な方法とは言い難い。指文字は発声に比べても手話に比べても、致命的に遅く、著しく誤認が多く、手話本来の表現資産を欠いた極めて不合理にして不便な手段なのである。
 それでも指文字がどうしても必要になる場面はある。例えばマツリカがキリヒトの名前を確かめたときのように人や土地のを発話したい時、あるいはとある「語」そのもの、綴りそのものが話題になっている時には、その「言葉」を書いて見せないわけにはいかなくなる。
 またマツリカがこととする文献学や書誌学、はたまた言語や文字の歴史が話題となるなら、事細かに音や文字を指定して話を進めなければならない。とりわけ写本の比較にことが及べば、誤記や綴りの変異がそのまま枢要な着眼点になるのだからことは一層繊細になる。

。。。。。。

 用兵と戦地の管理といった実学の粋を学んできたキリンには、古代の埒もない戯言が書かれた文献を再構したり、夢物語と区別も付かない偽の歴史書を発掘したりといった図書館の仕事が、虚しい虚学のように思われてならなかった。例えば架空の生き物を列挙した文献を収集、整理することにどんな意味があるというのだろう?

 それなのに高い塔は長らく一ノ谷の軍略の最終拠点と見なされてきているのである。キリンには無駄と思える本を山と集めた図書館が、時に王宮で具体的な戦術の拠りどころとなる理由がさっぱり判らなかった。キリンにとっては、必要な資料はぎりぎりまで絞り込んで、無駄なく漏れなく全ての手筋を眼前に晒したうえで、適切な一手を選ぶというのが最良で効率も良い方法に思われた。図書館はあまりにも不透明で、無秩序で、規模が大きすぎ、限られた時間の中で限られた情報を持って決断しなければならない現実での方針決定に対して有効なものとは思われない。

 ところがそれでありながら、自分のお家芸である読みの深さと、情報を絞り込んだところから下す即断の勝負において、実際にキリンは図書館の後塵を拝していた。つまりキリンは図書館に将棋で連敗を続けていたのであった。

 ことの起こりはこうである。キリンがカリームのもとに身を寄せるようになって、ひとつ思いがけず有り難かったのは、カリームが一ノ谷との連絡に毎日伝令を一組往来させていたことである。キリンにとってこれが特別意味を持ったのは、一ノ谷の古書店組合の重鎮のひとりと通信で対局を進めていたからであった。すでに西方ではキリンは手合わせをする棋士に事欠いていたのである。

 この対局相手の紹介で、キリンは海峡向こうの一ノ谷本土に、未だ顔も見ぬ強敵を何人か知ることになった。カリームは自分の抱えている軍師の一人が、その知略を穏当な形で世間に知らしむるのをむしろ好ましいことだと考え、自ら身元の紹介先を引き受けてキリンの将棋による外交を支援した。実際の用兵と抽象的な知的遊戯ではもちろんことの本質は異なる。それでももっぱら同じ条件で純粋な知力を競うこの遊戯に人がとりわけの関心を持っていたのは、当代でもっとも強い将棋指しと名指しされている一群の一劃に、長らく高い塔の先代タイキが君臨していたという理由があった。それで人は誰も、この策略と知謀をめぐる洗練された遊戯を単なる卓上の手遊び、有閑階級の余技とは考えず、あたかも軍略に長けた者達が脳髄を持って鎬を削る模擬戦のごときものと考えていたのであった。

 。。。。

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初手 将棋の子/大崎善生

2019-03-27 18:49:23 | 音楽・芸術・文学

  

 まだまだ寒いし、生活習慣(病?)がマズイせいで血糖値がオカシイ。などとツマンナイことばかりでコタツに潜り込んで観るはAbemaTV将棋チャンネル。ある日ムスメが現れPC画面をちらり、ボーッとしてんじゃねえよ~という感じで、文庫本をよこした。それが、「将棋の子」。数日して次が飛んできて「しょったんの奇跡」。なぜにムスメが、こんな将棋の世界の本、こういう世界を見ているかはイマイチ判然としないが、まあ、いいのではないかい。どれも読んでいなかったし、どれもすばらしかったからだ。こうなると気になっていた「聖の青春」も一気読み、これは逆にムスメに貸してやった。エネルギーが多少湧いてきたので、初手から三手目まで三作をメモしておくことにした。連日、半ボラお仕事も年度末、総会準備で綱渡りの日々、こんなことやってていいのか、1分将棋みたいな今週であった。。。よんじゅうびょう、ごじゅうびょう、いちっ、にい、さん、しい、、まあ、いそがしいほど、冴えってものは出てくるのだ。。。

 藤井聡太クンが現れ「将棋世界」表紙を飾っているのを見て、何十年ぶりかで毎月買っていた。この新人、むむ、これは、何十年に一人の逸材だ。こちとら今さらリアルにヘボ将棋をやる気も起きないから、もっぱら図上演習というか研究と鑑賞。棋譜をならべても時間ばかりかかって途中図とも合わず、どっか抜けたかな!?で、将棋盤はただのサイドテーブルに。今の時代の環境ならPCのヴァーチャル画面の方が。。。だいたい猫パンチが飛んで来たら盤面はぐちゃぐちゃ、それこそ「矢倉は終わった~」

 将棋の世界というのは、実業ではなく虚業の世界(?)なので、ときに将棋そのものよりその周辺も楽しめるものだ。大好きだった米長さんいなくなって寂しいが(そういえば今の僕の歳で亡くなられたのだ)、最近は若くて元気なのがいっぱい出てきて何より。対局中バナナとフィナンシェのテンコ盛りの永瀬、努力家とか皆がいうが、あれじゃあ血糖値ダイジョーブかね?
 そのむかし子供の頃、雨が降ると菅野さんちの食堂で皆で「待った」ばっかしの将棋あそびしてたっけ。将棋指しになるという一手もあったのかなあ???いやいや、棋士なんか、運も含め本当にほんの一握りの人しか成れないものなんやろ。将棋で感想戦というのがあるが、あれはやだね。人生の感想戦なんかも、みんなやりたいもんかね?!

******************

<<以下  「将棋の子」 大崎善生 講談社文庫  より引用>>

。。。

時計は午前一時を指していた。
成田は明日午前6時には起きてご飯と納豆をかきこみ、叩きとして走り回る一日が待っている。私は東京へ帰らなければならない。
別れる時間が確実に近づいていた。
「将棋界のこと知っているの?」と私は聞いた。
「いや、まったく何も知らない」と成田は答えた。
「いまの名人は?」
「いや、知らない。こっち、雑誌も新聞も見ないから」
「丸山忠久」と私は言った。
「丸山?そんなのいたっけ」
「奨励会、いっしょだったはずだよ」
「ああ、じゃあおとなしい子だったんだ。名前はなんとなく覚えている。そう言われてみれば」
「羽生さんが七冠王になったのは?」
「それは知っている。テレビでもやっていたもん。こっちが栗山に戻ったころかなあ」
「驚いた?」
「そりゃ、驚いたさ。だって、こっち奨励会でやってたころは、羽生君まだ子供だったもん。可愛い子だった。あの子が七冠を全部とるとはすごいよねえ」
「羽生善治はすごい」と私は言った。
「うん。ハブゼンはすごい」と成田は言った。
それはずいぶんと久しぶりに聞く奨励会時代の羽生のニックネームだった。羽生が頂点へぐいぐいと駆け上がっていくにつれてそう呼ぶものはだれもいなくなっていった。しかし、成田の時計はそこで、その時代のまま止まっているのである。
「奨励会時代の対羽生戦は、何勝何敗?」と私は聞いた。
「0勝4敗」と成田は間髪を入れずにそう答えた。
「全然勝てなかったの、子供に」
「ああ、こっち一回も勝てなかった」と言って成田は嬉しそうに笑った。
「羽生善治、好きか?」と私は聞いた。
「好きだよ」と成田は言った。
「一回も勝てなくても」
「ああ、こっちの、なんていうか誇りだ」
「誇り?」
「そう、一回も勝てなくたってハブゼンはこっちの人生の誇りだよ」と成田は顔を輝かせた。
「明日早いんだろ?」と私は言った。
「うん、いつも通りだよ」と成田は答えた。
「じゃあ、そろそろ帰らなきゃな」
「うん」
「悪かったな遅くまで」と私が言うと成田は引き止めるように言った。
「こっち、奨励会時代からずっと持っているものがあるんだ。見る?」
「なんだ?」と私が聞くと成田はニコニコしながら財布を取り出し、その中から一枚のカードのようなものを大切そうに抜き取った。
「なんだと思う?」と成田は言う。
なんだろうなと私は考えた。母の写真はもう一枚も持っていないと言っていた。佐知子との写真だろうか。あるいは、どこかの道場の棋力認定証、または指導棋士の証明証。私はそれをつぎつぎに言ってみたけれど、成田はことごとく首を振った。
「いいでしょう、これ」と言って成田はテーブルの上にそれをもったいつけながら置いた。
森昌子のブロマイドだった。
「はは」それを見て私は思わず吹き出してしまった。決して美人とは言えない森昌子が、パンダのような化粧をして演歌を熱唱している写真だった。彼女の人のよさと心の純粋さと、歌を信じる心の強さのようなものがそこには映しだされていた。
「いいでしょう、森昌子」と成田は言った。
「ああ、いいね。確かにいい写真だ」
「駒とこれ。それだけさ。こっちに残ったものは。この二つだけは肌身離さずもって歩いているんだ、こっち」
その成田の言葉を聞きながら、私は思った。では自分はいったい何を大切にして、なにを肌身離さず持ち歩いているというのだろうか。どんなに苦しいときにも、少しだけでも成田の心を一瞬解放してくれた、一組の駒と一枚の写真。それにまさる宝物を私は何一つ持っていない。 

 棋士になっても不幸になっていく人間を私は千駄ヶ谷にいて何人も見てきた。どんな名声や勝利を勝ち得ても、人を信じることも優しくすることもできない棋士もいた。ただ生活のためにわずか150人の競争にあけくれ、人を追い落とすことだけに長けていく棋士もいた。そういう人間たちを私はすぐそばでそしてこの目ではっきりと見てきた。もちろんそうではない棋士も大勢いる。しかし、確実にそうである棋士がいることもまた事実である。
 将棋に利ばかりを追い求め、自分が将棋に施された優しさに気づこうともしない棋士と比べて、ここにいる成田は何と幸せなのだろうと私は思う。

 奨励会という制度が棋士になり勝つことによって金を得、生活権を得るための、ただそれだけものだとしたら、それだけのための競争だとしたら何というむなしいものだろうか。
将棋は厳しくはない。
本当は優しいものなのである。
もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う。

 店内に「蛍の光」が流れ始めていた。ウエイトレスたちは客がいなくなったテーブルをきれいに拭き清めていた。
「またしばらく会えないな」と私は言った。
「そうかあ」と成田は寂しそうにつぶやき、そして続けた。
「大崎さん、こっち時々大崎さんに電話してもいいかなあ」
「そりゃいいよ」
「でも、こっち長距離電話かけるお金ないんだよね。だから、本当に時々さ」
「コレクトコールにすればいい」
「何それ?」
「まあ、いいから。俺のところに電話をかけたくなったら公衆電話に十円玉入れて、それから106と押す。そうすればお金はかからないから」
「本当?106だね」
「ああ、本当。ちゃんと覚えておけよ」
店内の明かりが急に明るくなった。
「負けるなよ」と私は成田に言った。
「ああ、こっち負けないよ」
「英二。すこしでいいから、目線を上げろよ」
「目線?」
「そう、名人を目指せとは言わないけれど、すこしは上を向かなきゃ。英二だって昔は夢を目指して頑張っていたんだろ。それが君の誇りなんだから。僕なんかが逆立ちしたって立てない場所に立っていたんだから」
「奨励会のこと?」
「ああ、そうだ」
「逆立ちしたって立てない場所?」
「ああ、英二はそこにいた。それは事実なんだから」
「わかった」
「何もしてやれないけど、東京に友達がいる」
「友達?」
「そう。英二がそう言ったじゃないか」
「大崎さんのことかい」
そういう成田の目に涙がにじんでいた。
「だったら、こっち電話かけてもいいでしょ」と手で涙をぬぐいながら成田は言った。
「いいよ」
たとえ夢にいつかたどりつく場所があったとしても、きっとそれはここではないと私は思った。そんなはずはないと。
「寂しくなったら、電話するよ」
「ああ」
「コレクトコールだったね」
「そう、106だ」

ファミリーレストランを出ると、外は季節外れの雪が降っていた。空を見上げると、暗黒の闇の中から魔法のようにふわふわと白い雪が次々と舞い降りてくる。
「まいった、まいった」と成田は言った。
「明日も寒いなあ」と続けた成田の言葉が空気の中で白く煙った。
厳しい寒さの日に、戸を叩き続けると最初は激痛が手のひらから腕の中を走り抜ける。それを繰り返しているうちにやがて自分の手の感覚がなくなり、戸を叩くたびに、もしかしたら氷のように自分の拳は粉々に砕けてしまうのではないかという恐怖に襲われると成田は言っていた。
手袋をとると手が真っ赤に腫れ上がり、フーフーと息を吹きかけて、ひたすら痛みが通り過ぎるのを待つのだと。
「明日も大変だね」と私は言った。
「でも、寒さなんか平気だ」
「そうか」
「ああ、寒さなんか馴れてしまえば平気だよ」
自分に言い聞かせるように成田はそう強がった。
札幌に降る5月の雪のなかで私はタクシーを拾い、乗りこんだ。
「じゃあ、またな」と私は言った。
「うん、大崎さんいろいろとありがとう」と成田は言った。
タクシーが発車し、後ろを振り返るとしんしんと降り続ける雪のなかで成田はいつまでも手を振っている。まるで糸にあやつられた人形のように規則正く手を振り続けている。
 暗闇と白い雪、街灯の光と車のブレーキランプの赤や信号の青、サーチライトのようなさまざまな色に照らされて成田は直立不動で立ちつくしている。
「早く帰れよ」と私は口のなかでつぶやき、そして振り返るのをやめて、おそるおそるタクシーのルームミラーをのぞく。
成田は小さくなって、でも笑いながら手を振っている。
 私はその姿を見ているうちに涙が溢れてどうしようもなくなった。次々と新しい涙が溢れ、そして声を出して泣き出してしまった。
 あそこに、将棋の子が立っている。
 そして懸命に手を振っている。
 ミラーのなかに将棋の子がいる。
 将棋を愛し将棋を信じ、そして今も将棋に何かを与え続けられそのことに感謝している、40歳の元奨励会会員が立っている。
 雪になかにいる成田はニコニコと笑い、暖かいタクシーのなかで私は泣いている。
 まったくどういうことなんだろう。
「早く帰れ」と私はもう一度口のなかでつぶやいた。
「早く帰って布団にくるまって寝ろ」
 涙でゆがんだ景色のなかで、成田はだんだんと豆粒のように小さくなっていく。それでも、機械のように手を振っている。
 その姿は何重もの雪と光の洪水の中にまぎれ、やがてあとかたもなくその深みへと、ネオンの底へと完全に埋没していったのだった。 

 <エピローグ>

北海道からの旅を終え、その半年後の平成13年1月31日に私は日本将棋連盟を退職した。
わずか半年の間にさまざまな出来事が起きた。そのなかのいくつかは、将棋界のバランスがどこかで、しかも確実に崩れていくような出来事だった。
 瀬川晶司という三段で奨励会を退会した青年が、銀河戦という公式棋戦で7連勝という快挙をなしとげた。アマチュアがプロを相手に7人ごぼう抜きしてみせたのだ。。。。

 ******************

 

 うーん、こうなると、次は「しょったん」だね。瀬川さんは昨年の天童の人間将棋の解説で見たよ。現地では「しょったん」がこんど映画になるとの話題が出てたが、こちらは、ほ〜〜お、と思っただけ、ナニも知らなかったのでメンゴ。夢はあきらめずにね、そうすればいいことがあるんだ。藤井クンのあの連勝中に突入した順位戦初戦が、瀬川さんだったもんね〜、いい将棋でしたよ、いい出会いでしたね。瀬川さん、昨期竜王戦では敗者復活で勝ち上がって見事昇級してました、フッカツが得意なんだ、えらいね!!

<<以下 「 泣き虫 しょったんの奇跡」瀬川晶司 講談社文庫 より引用>>

。。。。

 応援の手紙やマスコミの取材は、ますます増える一方だった。将棋の調子も、明らかに落ちていた。奨励会を退会したあと、僕がいちばん大切にしてきた将棋を楽しむ気持ちが消え、年齢制限におびえていたあの頃のような覇気のなさが顔を出しはじめていた。
 これで僕がもし第二局に敗れ、第三局も当然のように一蹴され、立ち直れないまま第四局も負けて一勝もできずに挑戦失敗という結果に終わったら、いったいどうなるだろう。自分の人生がかかっているというプレッシャー以上に、その恐怖が大きかった。しかもいまのままでは、その可能性はかぎりなく高いのだ。
 やっぱり僕には、プロになることなど無理だったのだろうか。 

 試験将棋第一局から一週間ほど経ったある夜。
 会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
 ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感があった。
 誰だろう?
 僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
 あっ。
 その瞬間、僕は声をあげそうになった。
 葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓かれます」
 いままで心の中で押し殺していたものが、堰を切ったようにこみ上げてくるのを感じた。嗚咽でのどが震え、文面が涙で見えなくなる。それを拭っては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
 そうだった、すべては、このひとのおかげだった。
 何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも。ここまでいろいろなことがあったけれどもなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台に立つことができたのも。
 もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
 この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻ろう。僕は、僕でいいのだから。
 心の中にできた固い岩をすべて溶かしきるまで、僕は泣きつづけた。


「では、行ってきます」
 八月十三日。部屋のいちばん目立つところに貼ったドラえもんの葉書にそう挨拶して、僕は試験将棋第二局を戦うために大阪に出発した。
 翌十四日、神吉宏充六段を破って試験将棋初勝利をあげた僕が、その後の記者会見で、万感の思いを込めてこう答えた。
「いままでの人生で、いちばんうれしい勝利です」

。。。。 >>>

 

( 「大崎善生 解説 」より)
 奨励会退会後の奨励会会員たちのその後の人生は、本当にさまざまだ。小学生時代から文字通り将棋に明け暮れ、それだけを人生の目標にしてきた彼らが、ある日突然にその自分という人格を形成していたはずの骨格をはがされ、すべての価値観を測っていたメジャーをはずされてしまう。
 。。。。
 二十歳前後の社会的な経験もほとんどない彼らが、いきなり身ぐるみはがされて真冬の路上に放り投げられ、そして決断を迫られる。自分の今までの人生とはなんだったのか、将棋とはなんだったのか。それに挫折した自分はこれから何を指針にして生きていけばいいのか。第一、どこに行って何をすればいいのか。どこに行けるのか。
 本書を読んでいると私の目からはクールでスマートに見えた瀬川さんも、やはり同じような苦しみの中で、タールの海を泳いでいた時期があったのだといまさらながらに気づかせられる。考えてみれば当たり前のことで、誰もが簡単に自分の存在価値を捨てられないように、奨励会員がクールに将棋と訣別などできるわけがないのである。
 身を切り裂くような思いで将棋に対して線を引いたはずの瀬川さんの人生が、やがて微妙な航跡を辿りはじめる。対プロ7連勝や八段や九段への勝利をはじめとして、常識では考えられないような成績を次々と残していくのだ。
 プロをものともしないアマ。
 目の前で起こる実現不可能だったはずの奇跡。
 それを次々とおこしていく瀬川という青年。
 アマチュアはそんな夢のようなスターの出現に胸を熱くして声援を送り、瀬川さんはそれ以上の活躍で応えてみせた。訣別したはずのプロ将棋、線引きが済んだはずの将棋そのものが、まるで陽炎のようにゆらめきながら再び自分の人生に近づいてくることに、果たして彼は喜びと恐怖のそのどちらを感じていたことだろうか。
 世間は動き始めた。
 瀬川さんの意思とは違うところで。彼をこのまま放置することはプロ棋士の存在理由さえも揺るがしかねない。そんなところまできてしまっていたのである。そしてついに提示される、あまりにも大胆で未曾有の決着の仕方。
 それが棋界史に輝くプロ編入試験だ。
。。。
 瀬川さんの人生のみならず将棋の歴史を大きく変えることになった奨励会退会者による編入試験は、施行方法に賛否両論を抱えながらも、大きな世間の注目を浴びながらスタートした。将棋が社会全体から注目されるという意味で羽生善治七冠誕生以来の大ニュースだった。七冠の完全制覇が奇跡の達成を目の当たりにしたいという意味で注目されたとすれば、瀬川さんの編入試験は一度は挫折を味わった経験のある日本中の多くの人間たちから共感を持って注目されることになった。

夢を追う姿。
決して諦めない姿。
それも一度は挫折した夢に再びかじりつくように追う姿。現実的には見られそうでいて滅多に見ることのできない、そのありのままの姿が公開の場にさらされ、一歩一歩もがきながらも瀬川さんは手足をばたつかせ続けた。
そしてついにくる熱狂の日。
タールの海を渡りきった彼を待ち受けていたのは、二度と戻ることのできなかったはずの夢の場所。
プロの四段だったのだ。

。。。。
平成十七年十一月六日深夜。
わたしの携帯が鳴った。ディスプレイを見ると瀬川晶司とある。
。。。。


 **************************

 「将棋世界」の編集長を十年やった大崎善生のデビュー作「聖の青春」が2016年に映画化され、「村山聖は18年ぶりに戻ってきた」という。映像はともかく、話題になるのはいいことだ。日本将棋連盟HPの最近の将棋コラムに、「将棋界の師弟関係の魅力に迫る」という記事がある。2017年に引退された森信雄七段の最初のお弟子さんが村山聖。いまや森一門は西の大所帯、山崎隆之、糸谷哲郎、増田裕司、安用寺孝功、片上大輔、澤田真吾、大石直嗣、千田翔太、竹内雄悟、室谷由紀、山口絵美菜、石本さくら。

<<以下、青色字「聖の青春 (角川文庫) - 大崎 善生」より引用 >>

 <<プロローグより>>
 。。。
 平成10年8月8日、一人の棋士が死んだ。
 村山聖、29歳。将棋界の最高峰であるA級に在籍したままの死であった。
 村山は幼くしてネフローゼを患いその宿命ともいえる疾患とともに成長し、熾烈で純粋な人生をまっとうした。彼の29年は病気との闘いの29年間でもあった。
 村山は多くの愛に支えられて生きた。
 肉親の愛、友人の愛、そして師匠の愛。

 もうひとつ、村山をささえたものがあったとすればそれは将棋だった。
将棋は病院のベッドで生活する少年にとって、限りなく広がる空であった。
少年は大きな夢を思い描き、青空を自由にそして闊達に飛び回った。それははるかな名人につづいている空だった。その空を飛ぶために、少年はありとあらゆる 努力をし全精力を傾け、類まれな集中力と強い意志ではばたきつづけた。
 夢がかなう、もう一歩のところに村山はいた。果てしない競争と淘汰を勝ち抜き、村山は名人への扉の前に立っていた。
 しかし、どんな障害も乗り越えてきた村山に、さらに大きな試練が待ち受ける。
 進行性膀胱癌。

。。。。。。。 

 平成元年の冬、将棋界を揺るがす大事件が起こった。将棋界の最高棋戦、竜王戦で羽生善治が島朗竜王を下し、わずか19歳で将棋界の頂点に立ったのである。
 東京グランドホテルの対局室、ぐるりと取り囲んだ報道陣が間断なく浴びせるフラッシュの光の中で「地位の重さについていけるかどうか心配です」と羽生はかすれた声を振りしぼるように語った。部屋はニュースター誕生の興奮と4勝3敗1持将棋という白熱の大接戦の余韻がさめやらなかった。
 天才棋士出現の報は将棋界をつき破るように日本中を駆け巡り、羽生善治の名は一夜にして広く世間に轟きわたることとなったのである。

 そんな同世代棋士の活躍を横目に見ながら、村山の棋士生活は伏在する体調面の問題との戦いであった。健康状態がすぐれないときは黒星がたまっていく。そしてその黒星がまた体に悪影響をあたえるというどうしようもない悪循環の中でのたうちまわるような日々がつづくのだった。
 体調が戻ればみるみるうちに勝ちはじめる。勝てば体も楽になる、10連勝くらいは何度も記録している。しかし、好不調の波が大きく、なかなか1年間安定した状態でいることはむずかしい。したがって順位戦のリーグでは毎年本命といわれながら、C級1組に3年間足止めを食うことになる。
 その間、結局村山は前田アパートと将棋会館と師匠のマンションのトライアングルの中を行き来する生活パターンをひたすら繰りかえした。羽生がどんなに強くても自分にできることはそう多くはないというのもまた厳然とした事実なのであった。
 そう。村山にできること。それはいままでの反復しかない。毎日将棋会館にいき棋譜を徹底的に調べ上げる。そして、奨励会員をつかまえ、10秒将棋の特訓をする。深夜部屋に戻り、詰将棋を朝まで解く。将棋に勝とうが負けようが村山は、がむしゃらに同じ勉強法を繰りかえし、またそれを信じるしかなかったのである。

 このころ、村山は東京の棋士ともつきあいをはじめた。森雞二、野本虎次、滝誠一郎、先崎学ら、みな麻雀のつきあいである。対局で東京に出てくると必ず麻雀に誘われるようになっていた。
 勝つことに無我夢中で、そのことに全身全霊を傾けているような村山と卓を囲むことが、将棋界でもなうての麻雀の強豪たちに新鮮に映ったのである。まるで真剣勝負のように牌を自摸り投げ捨てる。勝ち負けに徹底的にこだわる村山の麻雀はあっと言う間に東京でも評判になった。
 ある日は早朝の病院での注射の予約を無視して、卓を囲みつづけた。その日の終電で帰るつもりが、翌日の終電になってしまうようなことがしょちゅうだった。もちろん、そんなことが体によくないのは百も承知だったが、しかし限界ぎりぎりまで村山は遊んだ。まるで、夏の光がそう長くはつづかないことを知りつくしている北国の動物たちのように。
 C級1組に停滞した3年間、それは村山にとってある意味では幸せな日々だったといえるのかもしれない。

 そんな村山を森は許していた。深酒をしても、麻雀で徹夜をしても森は決して怒らなかった。それによってしか得ることのできないものがあることを森は知っていたし、そしてそれがどんなに無駄に見えたとしても決してそうではないことも知っていた。少年時代から入院と対局を繰りかえしてきた村山が、それ以外の人生の広がりを模索することはむしろ、ごく自然なことのように森には思えていたのである。
 そんな月日を送りながら、村山は22歳の秋を迎えていた。 

 11月2日、大山康晴十五世名人を準決勝で破った村山は天王戦の決勝に進出した。
体調は最悪だった。そんな中で村山は全棋士参加棋戦の決勝戦まで勝ち進んだのである。
決勝の相手は谷川浩司。幼い日から、夢にまで見た相手との檜舞台である。しかし、村山の気持ちは一向に高ぶらない、どうにも体調が悪すぎるのである。
 天王戦の決勝は静岡県の伊豆が対局場である。立会人がつき、ファンを集めての大盤解説会がおこなわれるなど、タイトル戦同様の規模の一大イベントである。
 その決勝の前々日、村山はある決心をした。
 不戦敗である。前田アパートから、階段を下りて外に出るだけで精いっぱいという状態だった。高熱は少しも容赦してくれない。そんな自分が静岡までいって対局ができるわけがない。
そんなことをしたら取りかえしのつかないことになる、という恐怖心が村山をわしづかみにして離さなかった。
 その旨を村山は大阪の手合係に打診した。そして、その話は森へと伝わった。
 森の判断は速かった。即座に前田アパートにいき、村山に告げた。
「もし、指せなかったら、引退するしかない、それでもええんやな」
汗ばんだ額に手を当ててみるとかわいそうなくらいに熱い。しかし、森は心を鬼にして言った。
「何度か不戦敗しているが、今回はちょっと意味が違う。新聞社の人たちが何ヶ月もかけて対局場を設営して、立会人を依頼して、そしてこの決勝戦のために1年間棋士たちの棋譜を新聞に掲載してきたんや。それを、全部むだにしてしまうということなんやぞ」
 村山は何も言わずに悲しそうな目を虚空に投げかけていた。

「ファンやスポンサーのために棋士は全力で将棋を指す、それが宿命であり責任なんや。もし、それが果たせないのなら残念だけど引退するしかない。それで、ええんやな」
村山は、はいともいいえとも言わなかった。その代わりに高熱で苦しいのか、時々うめき声をあげるのである。
大淀ハイツに戻った森の気持ちはすぐれなかった。村山の体が棋士として無理なのかと思うことが一番つらかった。手には汗ばんだ村山の額の温もりが残っている。その温もりは何も語らない村山の悲しみや悔しさを代弁しているように森には思えた。
 明日、将棋連盟に不戦敗と弟子の引退を申し出ようと陰鬱な気持ちで考えていた。

 そのとき、部屋の電話が鳴った。村山からだった。
「僕、引退しなければいけないんですか」
「ああ、冴えんけどしょうがないなあ」
「僕、静岡に行きます」
村山は電話口で声を振りしぼるように言った。声が涙ぐんでいた。
「将棋を指します。だから、僕を引退させないでください」という声が震えていた。
「そうか。じゃあ、明日一緒に静岡にいこう」
「森先生も行ってくれるんですか?」
「一人じゃむりやろう」
「ありがとうございます」という小さな村山の声で電話は切れた。

 森は大急ぎで、明日の稽古の代役を後輩の棋士に頼み込み、急遽静岡行きを決めた。
二人は新幹線で三島まで行き、そこからタクシーで伊豆に向かった。村山はぐったりと座席にもたれたまま、殆んど口も利かなかった。森は煙草を吸いながらタクシーの中からただ深い暗闇を見つめていた。村山の状態を見ていると、とてもじゃないが、あす対局に臨めるようには思えなかった。このまま対局させれば、本当にこの子は死んでしまうかもしれない。不戦敗の判断は側にいて自分がくだすしかないそれがたとえ棋士村山の終わりを意味することになったとしても。

 寄り添うように二人は伊豆のホテルにたどりついた。
森は村山の額に濡れタオルをあて、一晩中それを交換した。40度近い熱に、替えたばかりの濡れタオルがあっという間に湯気を立てはじめる。何度も何度も同じ作業をくりかえしながら、やがて森は諦めの気持ちを抱きはじめていた。東の空がうっすらと白んでいた。森はいつしかうとうとと村山の傍らでまどろんでいた。はっとわれにかえり、額に手を当ててタオルを替え、またうとうとする。 

 そんな二人に奇跡が起こった。
森は何度目かのまどろみからわれにかえった。部屋はもう完全に明るくなっていた。目をやるとうんうんうなりながら寝ていたはずの村山の目がパッチリとひらいているではないか。森は慌てて村山の額に手を当てた。するとどうだろう、村山の熱が嘘のように引いているではないか。
「大丈夫か」と森が聞くと「はい」と村山は力強く答えた。
「よかったなあ。これで、まだ将棋が指せるなあ」
「はい」
そして、村山は対局に臨んだ。将棋は谷川の攻めが冴えわたり村山のボロ負けに終わった。しかし、村山はなんとか棋士の責任を全うすることができた。勝ち負け以上にそのことが森と村山に与えた喜びは計りしれないものがあった。

。。。

************************

(大崎さんに謝辞)

大崎善生さん、いいお仕事をしてくれました。そして彼は、夢だった小説を書く。。。うーん、なかなかいいね、ハルキ・一門かなあ!?。。。。
パイロットフィッシュ
アジアンタムブルー

こちらも、うるうるだなあ。。。

優しい子よ 

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村上春樹の単行本はいいね

2017-07-28 00:43:29 | 音楽・芸術・文学
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
クリエーター情報なし
新潮社

わずか3年前ぐらいなんだなあ、村上春樹さんを読みだしたのは。サリンジャーの「フラニーとズーイ」を読み返していて気づいたんだっけ。そのあとの数か月、単行本コレクションに集中したのだが、オクテにもほどがある、やれやれ。

フラニーとズーイ J.D.サリンジャー/村上春樹訳 -2014.5.5 
ノルウェイの森 ー 村上春樹 ―2014-6-6
「長距離走者の村上春樹」 ―2014-6-30

RE:カンガルー通信―2014-7-22

そして今年だ、「騎士団長殺し」が出た。先を争って買うほどでもなしと思って藤沢周平さんの文庫本に浸っていたが、氣分転換にすこしくコンテンポラリーなのもいいかと手に取れば、そう、とてもよかったぜ。こんどの「僕」は美大は出たけど、ってひとだよ。おいおいムスメよ、これなかなかおもしろいよ。。。ふ~ん、まただれか消えるんでしょ、またパスタ作ってて。出だし、絵の描き方から、なんか、ちょっと違うんだなあ、などと言ってなげだしてる気配。。。

そんなことはともかく、ボクのブログメモにある村上春樹さんの単行本は手元にほとんどそろった。こんなことは多少の意思やらがあって、しかも継続していないと出来にくいのだな。オリジナルの単行本というものは装幀もふくめて楽しめるわけだし、なにより字も大きくてゆったりした感じがいい。最近もこんなのをゲットした。騎士団長は別として、’ THE SCRAP 'が、若々しくてバカバカしくてナマだから、おもろかった。でももう、細かい中身は忘れてしまった。

’ THE SCRAP '  懐かしの一九八〇年代(1987)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく(1996)
バースデイ・ストーリーズ(2002)
はじめての文学 村上春樹(2006)
走ることについて語る時に僕の語ること。(2007)
ラオスにいったい何があるというんですか?(2015)
職業としての小説家(2015)
村上さんのところ(2015)
騎士団長殺し(2017)

「騎士団長」をきっかけに、中長編小説もろもろ読み直していた。どんどん読めるのでつぎからつぎへときりがなくなってくる。小説としての物語の展開やディーテイルは覚えていないから、またまた新鮮であって、おおそうだったとだんだん思い出すが、つつぎを忘れているので何度読んでもドキドキしていいね。もろもろ、どんどん、だんだん、またまた、ドキドキだ、やれやれ。。。

書かれた時期が、さかのぼったり行ったり来たりの作品、手当たり次第の再読順はこうなった。騎士団長殺し ⇒ ダンスダンスダンス ⇒ 羊をめぐる冒険 ⇒ 1973年のピンボール ⇒ 風の歌を聴け ⇒ 国境の南、太陽の西 ⇒ ノルウェイの森 
いわゆる「一人称もの」というのかな。語り手の「僕」は、学生に始まり、翻訳請負、フリーのライター、文筆業とか、広告代理店やバーの経営、そして今度は食べるための肖像画家だったりと。それぞれの「僕」がどこか似ているようでもあり、だけど違うヒトなのではあろうが、それでも皆「女のいすぎる男たち」なんだから、まあいいぜよ。いずれ「僕」も悩み多くてタイヘンだろうけど、若いんだし、いろいろ悩んでいろいろ励んでくれたまえ。

こちとらのボクはハルキくんとほぼ同学年であるからして、このわれらの時代と雰囲気もなんとなく共有できるが、かれもそろそろ古希だぜ、ようやるぜ、こういうのは「同時代小説」というのかな。こちとらのボクはといえば、フルタイムで半ボラお仕事しつつ、セパ交流戦始めこれはと思う選手はテレビでみな見ていたこの7月、楽天アマちゃんのサヨナラやだめ押しやら、だれかから一発が出そうな予感はみなあたるようになってきた。これは想定外だったヤクルト10点差をひっくりかえした翌日(則本10勝もあって、ついニッカンスポーツまで買ってしまった)の今夜も東京音頭だったようだ(あれっ、もうまた日付がかわってしまった)。それゆえハルキくんへのお祝いをかねて、いま何してるとFBからシツコク急かされるそのお答えを一週間もかけてここに記すわけだが、変わった出来事っと言えば、我が庭でアブラセミが5匹も孵ったことぐらい。さても、支離滅裂なわが生存実態とその文体、いまだ、テイをなさず。いっそのこと、もろともどこかへ消えてしまった方がいいのかいな。。。

 むうちゃんは、どう思うの?(そこは蕎麦のコネ鉢で、ネコ鉢じゃないんだけど。。。)

    (おまけ・追記)夏はアナゴの夜釣り、手作りのアナゴ針外しはペンキの成り行きで「ノルウェイの森」ヴァージョンになった。ビール瓶サイズが釣れてもダイジョーブ!?

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劇場、またよし

2017-03-18 23:16:33 | 音楽・芸術・文学
新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社

又吉くん、これまた、いいね! マッタン、しぬなよ〜
ヒョーロンは、やだから、これでやめようか、、、、
でもな、それじゃ、あんまりだなあ、、、、
きみのパフォーマンスは、ぜんぜんみたことない、メンゴ、、、、
でもな、お笑いゲーニンが芥川賞候補というときから、目にはしてたぜよ、

2月終わりごろのNHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を観て、これはこれは、と思った、
それでね、いまごろになって、火花、二百何十万人目かで読んでね、えらい感心したやん、
それからや、東京百景、第2図書係補佐、そして、劇場、、、カキフライやら新・四字熟語はまだ来いへん、、、

吉祥寺、三鷹・下連雀、シモキタ、井の頭線、渋谷、、、
うーん、きみの生まれた頃か、、、、井の頭公園、かき揚げ丼のうまいとこあってさ、
吉祥寺じゃ、仙台味噌や、塩鮭のいいものがあったなあ、、、なんだこれは、僕の青春後期は、、、
でもね、あのあたりのあのころ、、、時間が戻せたらなあ、、、、
マッタンの住んでた三鷹台のアパートは、偶然にも太宰の旧居跡だったというではないか、、、
不思議なことだ、、、 

受賞後二作目となると、たいへんだったね、よかったよ、とってもよかった、
さいごは、なみだがでたよ、こんなことは、めったにないんだ、
火花、二百枚、劇場、三百枚だって、ぼく、千枚読んだぜ、二回づつだから、

そうそう、古井由吉さんの「杳子・妻隠」探してもないんだ、
捨てたんだなあ何百冊のなか、去年か、、、古本頼もうとしたら7千円もするんだ!、アホや、ぼくは、、、、
古井さん、まだ死んでないよ、ね、、、、

 
むうちゃんもブログの写真も、いつのまにか、デカっ!!
 
10日前、ニコタマ、取られちゃったか、、、おわびにチュールチュール、、、こっちは小さくね、、、ごめんね、、
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さよならタスケ、むうチャンおはよう

2016-12-11 12:19:19 | ねこちゃん

むうちゃんおはよう、居たか、こたつのなかだ。7月14日生まれ、もうすぐ5カ月、去年夏急に死んじゃったハクチャンの生まれ変わりかなあ、似てるからかママが衝動買いしたんだな、それが9月15日、ちょうど生後2カ月だったわけだ。猫は6カ月で人間での12歳相当になるらしい、あっという間だ。スコティッシュなんとかだが、猫はやっぱり耳はピンと立ってた方がいい。

タスケはがんばったよ、ぼうこうがん手術の後で5年半も生きたんだから。。。もう、ちょんちょんして起こしてくんないからパパはまた朝寝坊にもどってしまった、もうすぐひと月たつか、むうちゃんもお別れをしたけど、わかんなかっただろ。。。タスケはね、ちゃんとお返事をしてお話ができたよ、利口なねこだった、全然噛まなかったよ、そうだ比べてはいかんな。むうが来た前の日にはタスケはNHKにでたんだ。タスケちゃん、抱っこして一緒にみたよね。「おれねこ」を再放送するってNHKから連絡きたぜ、12月13日は火曜日のNHKーEテレ「0655」、もうどーでもいいけど。

タスケは、おねえちゃんが東京から戻ってくるのを待ってそれから半年も生きてくれた。おしっこ痛かったよなあ、この数年はずっーとママと病院通い、さいごは流動食で持ち直したり、がんばったね。でもな、ひともねこも死すべき存在。。。タスケ、ありがと、むうちゃんと同じ大きさの子猫、拾ってあれから18年経ったんだ。。。可愛がってくれてたおねえちゃんは、今日は臨時の市バスを走らせに(?!)行ったぜ、あいつも、おととい夕方のNHKにでてきた。津波にさらわれて人もいなくなってしまった深沼海水浴場近辺に、いつかバスがやって来るようにと偽バス停をそっと置いたりしてたが、なんと今日だけ本物を走らせてくれるという。偽ー記念乗車券とイベント用のバス停プラカードも作ったりしてたが、どうも満員らしいぜ。また、どっかのテレビでやってくれるだろ、オヤジの出る幕ではないから、こっちはカレイ釣りに行こと思ったけど、寒そうだからやめた、こんじょ無し。それで、むうちゃんと、こたつむり、してるわけだ。(とはいえ、夜の7時のNHKニュースにムスメが現れて、ご両親はあわてて録画した、シャイなのであまり言わない、明日12月19日朝にも「おはよう日本」で7時ごろから流れるみたい、とは言った。2016/12/18追記)

 さっき、パパ居なかっただろ、お散歩わんちゃんをまた一匹撮ってきたんだ、これでも、NHKのタスケやおねえちゃんには及ばぬが自分のとこのコミチャンにはそっと出れるんだ。ハロウィーン番組なんか、こどもたちが60人も来てくれて、おもしろかったよ。今流している学芸会の映像もいいな、猫のメークや衣装、シッポまでたいしたもんだ。こどもたち、みんな一生懸命、真剣、これからも仲良くして素直に伸びてくれよ。。。むうちゃん、も、だよ。。。タスケは、もういないんだ。。。。。どこにいったの?また、うちにおいでよ。。。。。。

 

     

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西郷隆盛 第九巻 / 海音寺潮五郎

2016-07-14 20:45:00 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第九巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝、朝日新聞社刊の第九巻の帯に曰く、<鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は恭順。西郷と勝の会談で江戸城総攻撃は回避されたが‥‥彰義隊戦争とその後始末でついに絶筆。著者の生命を燃焼させた、幕末維新史の決定版>。

 とうとう海音寺さんの命がつき、この史伝の第九巻が氏の絶筆になった。とても残念なことだったが、西郷とともに城山まで付き合わなくてよかったかもしれない。明治維新という時代には、こけつまろびつ這い上ってきたこの男・西郷隆盛無かりせば激動の時代を織り成す太い縦糸も見当たらず、もつれにもつれた糸くずだけが残っただろう。

 ここ数巻の目次のこまかさは史実を丹念に追っている時の手控えのままのような感じがしていたが、絶筆となった第九巻は見出しすらもまだなかったようだ。このあたりのヤマは、すでに書き上げられていた「江戸開城」であろう。あらためて思うに、相方の勝海舟も、なんともしたたかな人物であったようだ。以前感心した勝の懐旧談、「西郷一人を眼においた」。そうだ、これもだ。「アーネスト・サトウと西郷」 でも、ひろい読みとか、卒読とか、こんなふうじゃ海音寺さんに叱られるなあ。。。。。

>>>(以下、「西郷隆盛 第九巻 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 昭和53年9月10日」より引用 。。。部は中略)

<西郷隆盛 第九巻 目次>
三条等五卿の帰京
勝つ自信なき薩長
江戸城内評定・薩摩屋敷焼打ち
西郷、焼打ちの報を受取る
大坂城内の激昂
西郷と大久保の決意
岩倉の方針変る
幕薩の開戦
鳥羽・伏見の戦
朝廷の空気
錦旗出動
二日目の戦
三日目の戦
四日目の戦
大坂開城
西郷、医師ウィリスを招聘す
西郷、島津忠義の海陸軍総督を辞せしむ
神戸事件
堺事件
官軍東征と西郷の心事
大久保の国許家老座への手紙
慶喜の江戸帰着
揺れやまぬ慶喜の心
勝安房起用
フランス人らの建議
幕府の混乱と勝の根本対策
勝一身に全権を負う
官軍、箱根の関所を占領
輪王寺宮と官軍本営
西郷の心境
山岡鉄太郎と西郷
勝の密計
両雄会談
西郷と勝とパークス
朝旨伝達式・西郷とパークス
江戸城受け渡し
幕府陸海軍の脱走
徳川氏処遇問題
勝の策謀
薩摩勢力にたいする官軍部内の不平と嫉妬
彰義隊さわぎ
大村益次郎と西郷
上野戦争

<<(両雄会談)から
。。。。
 西郷は勝にあてて、明日正午高輪の薩摩屋敷で会おうという返事を書き送るとともに、その日新宿の内藤家の屋敷(信州高遠の内藤家の屋敷、今の新宿御苑にあった)に入る予定になっている東山道支隊をひきいる東山道先鋒総督府参謀板垣退助と同内参謀河田佐久馬(景興、鳥取藩人)とに手紙を書き送った。
 いよいよ御壮栄にて御進発のこと恐賀奉ります。
 甲府表ではお手柄でありました(勝沼で近藤勇のひきいる甲陽鎮撫隊を撃破潰散させたこと)由をうけたまわりまして、うれしいことでした。よほど官軍の勇気を増しまして、大慶に存じます。
 さて、大総督から江戸へ打入りの期限を御布令になりまして、定めて御承知になっていることと存じますが、それまでに軽挙のことがあっては、厳に相済まないことです。静寛院宮様のおんことについて、田安家へお申し含めのこともあり、また、勝、大久保等の人々もぜひ道を立てようと、ひたすらに尽力していることも聞いていますから、こんどの御親征が私闘のようになっては相済まず、玉石相混ぜざるおはからいもあるだろうと存じますれば、十五日以前には必ずお動きないよう、合掌して頼みます。しぜん御承知下さるであろうとは信じていますが、遠くかけへだたっていますこと故、事情が通じかねるだろうとも思いますので、余計なことながら、この段御注意をうながしておきます。恐惶謹言。
  三月十二日                西郷吉之助
 乾 退助 様
 川田佐久間様

 板垣はこの戦争中、美濃の大垣で乾姓から先祖の姓板垣に復した。彼は甲州武田二十四将の一人板垣信形の子孫なのである。しかし、西郷はこの時までその改姓を知らなかったのだろう。旧によって乾と書いている。川田も河田佐久馬なのだが、このころの人は通じさえすれば、川でも河でも、二郎でも次郎でも、そう気にしていない。他人が気にしないだけでなく、本人も気にしないのである。
 西郷のこの手紙は、十五日の総攻撃延期のことには触れていない。それが正式に決定されるのは十四日に勝と二番目の会見をした時のことであるからである。しかし、この手紙から脈々として感ぜられるのは、西郷の平和的解決の希望である。この希望が万事打ちこわしになることを案じて、厳に戒めてやっているのである。

 この十二日には、アーネスト・サトウが三日がかりの予定でまた情勢探索のために江戸に出ている。「慶喜に要求される条件は応諾可能のものだという予想のために、市中はずっと平静に帰している」と、サトウは江戸市内を観察している。「ずっと」というのはこの以前九日に探索に出て来た時よりはるかにの意味である。しかし、彼の勝訪問は数日たってからのようである。彼の著書に記述してあることから判断すると、勝が西郷と会談して恭順と降伏の諸条件について話し合った日以後でなければならず、また西郷が駿府の大総督府に行き、さらに京都に上り、三月二十六日には帰って来ることを勝が知っていなければならないから、最も確実には三月二十日以後というところになろう。

 明くれば、十三日正午、勝は高輪の薩摩屋敷に行った。
 西郷と勝とは四年前の元治元年九月十一日に、大坂の勝の旅館で初めて対面したのだが、その時からたがいに満幅の敬意を抱き合っている。西郷に至っては会うはるか以前から勝を思慕している。勝の神戸海軍操練所が、幕命によって閉鎖しなければならず、彼自身も江戸にかえって役儀御免無役の身となって、ほとんど蟄居同様の身の上となったのは、それから二月経たない時であった。その江戸引上げの時、勝が最も愛している弟子坂本龍馬の身柄を依頼したのは薩藩だった。しかし、その後二人は会う機会を持っていないから、その時から今度はじめて会うわけであった。
 再会の二人の間には、四年の歳月が横たわっており、時勢の大変化があり、二人の地位の大転倒があり、勝にとっては最も愛する弟子であり、西郷にとっては最も親愛する友人であった坂本龍馬の功業と非業の死とがある。感慨は一方ならぬものがあったはずであるが、それを伝えるものは何ものこっていない。記録としては勝の日記があり、また後年の談話があるが、いずれも最も簡潔に、最も無味乾燥に西郷に面談して、和宮様のことだけを語ったと語っているだけである。
 つまり、談判めいたことは全然なく、勝がひとり和宮様のことについて語っただけであったのだ。
和宮様のことについては、かねて京都から勝に、お身の上に万一のことのないように取計らうようにと言って来ているので、このことを語って、
「定めて、このことは貴殿の方でも御承知のことでありましょうが、私においてたしかにお引受けしました。女性おひとりを人質に取り申して、かれこれ申すような卑劣な根性はありません。このことについては、拙者がここで確かに保証をいたしておきますから、御安心下さい。その他の談判は、いずれ明日参って申し上げましょう。貴殿方においても、それまでに篤と御勘考しておいて下さい」
といい、明日、芝田町の薩摩屋敷で会うことにして別れた。これが両雄の第一回目の会見で、場所は高輪の薩摩屋敷であった。

 翌十四日、勝は大久保一翁をはじめ諸有司相談の上で、山岡の持ちかえった恭順降伏条件の条々について、詮議をこらしてまとめ上げた嘆願書をたずさえて、芝田町の薩摩屋敷へ向った。
 勝が後年『氷川清話』で語っているところでは、羽織袴の軽装で、馬上、ただ一人の馬丁を従えていたというのだが、両人の談判を隣室から見ていた一人である渡辺清左衛門の追憶談では継上下姿であったという。どちらが正しいか、今となってはわからないが、徳川家を代表しての使者である。継上下であったろう。その時、勝のたずさえた嘆願書の内容はこうだ。
 一、慶喜は隠居の上、水戸表へ慎みまかりあるようにしていただきとうございます。
 二、城の明け渡しのことについては、手続きがすんだら、即日田安家へおあずけ下さいますようにしていただきとうございます。
 三、四、 軍艦・軍器のことについては、のこらず取納めておきまして、追って寛典の御処置を仰せつけられます前に、相当の員数をのこして、その余をお引き渡しいたすようにしていただきとうございます。
 五、 場内に住居している家臣共は城外に引きうつり、慎みまかりあるようにいたしとうございます。
 六、 洛外において慶喜の妄挙を助けました者共のことにつきましては、格別の御憐憫をもって御寛典になし下され、一命にかかわることのないようにしていただきとうございます。
 但し万石以上の者(つまり譜代大名である)も、格別の御寛典を本則として、朝裁をもって仰せつけられるようにしていただきとうございます。
 七、 士民を鎮定することは精々行きとどくようにいたします。万一暴挙いたす者があって、手にあまります時には、その節改めてお願い申しますれば、官軍を以て御鎮圧くださるようにしていただきとうございます。
 右の通りきびしく取計いをいたすでございましょう。もっとも、寛典の御処置の次第を前もってお伺いしていますれば、士民鎮圧の便宜にもなりますから、その辺を御亮察下さいまして、御寛典の御処置の趣きを心得のために伺いおきたくございます。

 かなり虫のよい内容である。三、四がとくにそうだ。しかし、徳川家が大名として存立を許される以上、その身代にふさわしい軍備があるのは当然だと思うし、渡してしまえば優秀なものは返されないおそれがあるというので、このような嘆願になったのであろう。

 勝が田町屋敷についた時、西郷はまだ来ていなかったので、勝は西郷にあてて、すでに到着したという手紙を書いた。
西郷はそれに返事を書いて、先ず届けさせた。

 尊翰拝誦仕り候。陳れば唯今田町まで御来駕なし下され候段、お知らせ下され、早速罷り出で仕り候様に仕るべく候間、何とぞお待ち合せ下されたく、この旨お受けまで、かくの如くにござ候。
頓首。
   三月十四日               西郷吉之助
 安房守様
      拝復
 この手紙を勝が受け取ってしばらくして、西郷が庭の方から来た。「古洋服に、薩摩風の引切り下駄をはいて、例の熊吉という忠僕ひとりを伴い、いかにも平気な顔色で出て来た」と、勝は追憶談している。
「これは遅刻しもして、失礼いたしもした」
と、西郷は鄭重にあいさつして座敷に通った。「おれが殊に感心したのは、西郷がおれにたいして、少しも戦勝者の威光で敗軍の将を軽蔑する風の見えなかったことだ」と、勝は後に嘆称している。西郷は威張ったり、人を軽蔑したりしたことはかつてなかった人だ。彼は相手が弱者や敗者であれば、かえって礼を重んじ、鄭重に接することを心がけとした人である。これはぼくの管見にすぎないが、彼は自分の容貌、体格があまりにも雄偉で相貌が立派であるために、人に威圧感をあたえることを用心していたのではないかと思うのである。弱者や敗者にたいしてとくに鄭重に接したというのも、平生道を歩くにも決して頭を上げ胸を張って堂々とした姿では歩かず、うつ向き勝ちに何か思うところありげな姿で歩いたというのも、こう考えると辻褄が合うと思うのである。

 この時から十年後、西郷が城山で死んだ時、勝は亡友帖の中に、この時西郷のくれた返書を貼って、次の一文を書きそえた。

 戊辰三月、官軍の先鋒品川に至り、十五日を期して侵撃の令ありと。同十四日、書を先鋒参謀に送り、一見を希ふ。余高輪の藩邸に至る。時に君一僕を従へ、悠然として到る。初め余を見て曰く、時事此に至る矣、君果して窘蹙するや否やと。余答へて曰く、今試みに君と他を易へむ、然らざれば君詳悉する能はざるなりと。君、唖然として絶倒す。

 唖然は、ここではアクゼンとよむのであろう。唖字はア・アクの二音がある。アゼンとよめば驚きあきれてあいた口がふさがらぬ様のことであり、アクゼンとよめば唖々と同義で、カラカラと笑う声を言うのである。絶倒はころがって笑うことを言う。大笑いをするのである。
 つまり、西郷はやって来て、勝を見て、
「えらいことになりましたが、先生ほどの人でも少しはおこまりでしょうな」
とからかったところ、勝は、
「貴殿と拙者と立場をかえて見ましょう。そしたらよくわかりましょう」
と答えた。
 西郷はからからと大笑いしたというのである。大事、談笑の間に成るという次第である。
 これが十四日の会見の時であるとすれば、邸の所在が、すでに田町を高輪に誤っているが、その他も、勝の記憶は、十三日の会見の時と十四日の会見の時とが、こんがらかっているようである。勝のこの文章に記されたことも、十三日の会見の時のことか、十四日の会見の時のことか、正確にはわからないのである。
 十四日の会見の時のことは、有名な話だけに、後年勝はよく人にたずねられて、いろいろな機会に話している。ある時はこう語っている。
「談判はただ一言で決した。おれの言うところを一々信用してくれて、その間一点の疑念も挟まなかった。『色々むずかしい議論もありますが、私が一身にかけて、お引受けします』と、この一言で、江戸百万の生霊もその生命財産を保全し、徳川氏も滅亡を免れた。もしこれが他人であったならば、やれ、貴様の言うことは自家撞着だの、言行不一致だの、あの沢山の兇徒が所々に屯集している様子を見ろ、恭順の実がどこにある、なんのかんのと言って責めるに違いない。そうなると、直ちに談判破裂だ。西郷はそんな野暮は言わない。その大局をとらえて、決断の確かなことには、感心してしまったよ、云々」

 しかし、『海舟日記』のこの年の三月十三日の項を見ると、気分としてはそのように簡単でも、段取りは大分入りくんでいる。
 西郷と会って、先ずたずさえて来た嘆願書を渡した。当然、一条目ごとに説明があったはずである。これは相当時間を食ったはずである。
 そのあと、勝はかねて官軍参謀に差し出していた書面(多分、海江田武次にでも差出したものであろう)の写しをふところにしていたので、それを出して西郷に見せた。それはこういうのだ。

 昨年以来、「上下公平一致」ということが言いはやされていますが、現実にはその中に公平とはいい難い小私があって、終に今日の変に及んでしまったのは、皇国に人物が乏しいからであります。なかんずく、伏見の一件は、旧幕方が一、二の藩士(西郷、大久保のことである)を目して、誤った考え方をしてしまったによって起ったのです。わが徳川家の最も恥ずる所であります。そのあげく、堂々たる天下が、ついに同胞相食むことになろうとは、何という見苦しいことでありましょう。私共としましては、朝廷に忠諌を奉り、死をもって報い申すべきでありますが、すでに前に失敗しています身としましては、何の面目あって、諌言申すことが出来ましょう。
 しかるに、不日のうちに戦争がはじまり、数万の生霊が損ぜられんとしています。この戦いは、その名節、その条理、決して正しいものではなく、各々私憤を包蔵しているものです。堂々たる男子の為すべきことではありません。私共はよくこのことを存じているのですが、官軍が猛勢にして、白刃飛弾をもってみだりにかよわい士民をおびやかしているのに、こちらが全然それに応戦しないでは、無辜の死者を益々多くし、生民の塗炭の苦しみは益々長引くだろうと思うのです。
 官軍、もし実に皇国に忠なるの志がおわすのなら、よろしくその条理と事情を明らかにして、しかる後に、一戦を試み給うべきであります。私共もまた自らの正・不正を顧みて、敢えて妄りに軽挙はしますまい。
 ああ、わが主家の滅亡にあたって、名節、大条理を守って、従容として死につく者の一人もいないのは、千載の遺憾です。海外諸国の笑うところとなるのみでありましょう。私共はこのことによく気づいているのですが、どうすることも出来ず、共に殺されてしまうとは、肝に銘ずべき怨みです。日夜焦思して、ほとんど憤死する思いです。あわれ、この心中を御詳察下さるなら、召されよ。軍門に詣って、一言所存を申し上げましょう。幸いにして御熟思し給うならば、大にしては日本のため、小にしては徳川家のために大幸で、死するもなお生けるがごとくうれしいことであります。                     謹言
 辰三月
                        勝 安房
 参謀軍門

 この時期に、勝の官軍方面へ出した文章は皆そうだが、この文章にも、降伏者の勝利者にたいする哀願の調子は全然ない。むしろ抗議であり、教諭であり、日本の幸福のために、対策をよく我と商議せよと要求する、堂々たる調子のものである。これを読んで、西郷がどんな反応を示したかは、勝の日記にはしるされていない。
「いかにも」
というようなことを言って、微笑をふくんで、勝の顔を見つめて、説明を待ったと思われる。そう解釈すれば、日記にしるしてある次のことばが、その説明と受け取れないことはない。

「わが徳川氏が大政を朝廷に返上したしました上は、この江戸は皇国の首府であります。また徳川氏が数百万石の封地を持っていましたのは、これまで大政をおあずかりしていました幕府の入費にあてるためでありました。この二つは、大政の返上とともに、当然その処置を朝廷にお伺いすべきものでありましょう。鎖国の時代は別としまして、開国して外国との交際がはじまりましてからは、幕府において談ずる政治は、決して徳川氏のためばかりのものではなく、皇国一般のためのものでありました。日本が日本のことだけでなく、世界の中の日本であることが切実になった今日では、内乱のために国を滅ぼした印度、内乱のために外国に地を削られた支那のことを、よくよく考えないわけにまいりません。今日、皇国の首府たる江戸にいながら、わが家の興廃を憂えるだけで戦争などして、わが国民を殺すようなことを、わが主人がどうしていたしましょう。主人のひたすら願っているのは、朝廷の御処置の至高至当なるを仰ぐことを得ますなら、それ以上は天意に応ずることでありますから、これより朝威は興起し給うであろうし、民またこのように皇化の正しきを排するなら、全国響きのものに応ずるように忽ちの間に靡くでありましょうし、列国はこれを聞いて、わが国にたいする信用を一時に改め、益々和信の心を強固にするでありましょう。主人慶喜はこのことのみを考え、わたくし共臣下もまたおこたらず思いつづけているのであります」
と、勝は言った。これは慶喜の目下の心境の説明であり、嘆願書の各条々の説明についてのいわばしめくくり的総論であるといってよかろう。
 これにたいして、西郷は
「私ひとりでは、今日これらを決することは出来ませんから、明日出立して、総督府に言上して御指揮を仰いでまいりましょう。明日は進撃の予定になっていますから、とりあえず、中止させます」
といって、左右の隊長らに命令を下して、従容として別れ去った、と勝は日記に書き、その次にこう賛語している。
 
 これを以ても、西郷の傑出果決を見ることが出来る。ああ、伏見の一挙は、我過激にして早まって事をおこし、天下の人心の向背を察せずして、一敗地にまみれ、天下洶々として定まらぬこととなった。薩藩の一、二の小臣(西郷、大久保)は、上は天子を擁し、列藩に令し、師を出すこと迅速、猛虎の群羊を駆るようである。何たる智謀たくましき姦雄のふるまいぞ。

 姦雄とは、時代に応じて出た英雄というほどの意味だろう。通義通りの姦雄と解釈しては違うようである。

 この会見には、渡辺清左衛門が隣室で、村田新八、中村半次郎等と傍聴していて、それを後年「史談会」で語っているが、それは勝の追憶談とも、日記の記述とも、かなりに違っている。勝のその日の服装が羽織袴ではなく、継上下であったというのが、すでに違っていることはもう書いた。継上下は肩衣と袴とが違った生地や染色でこしらえてあるもので、上下ともに同じ織のものが正式で、これは略式のものである。
 さて、勝は言った。
「徳川慶喜の恭順ということは、すでに御承知になっていなければならぬと思います。十分なる余力がありましたのに、大坂城を引き払って江戸に帰ったというのが、すでに事実上恭順の大意を達するつもりの精神であります。我々もまたそのような考えで、慶喜の命により、どこまでも恭順ということでやっているのです。つきましては、願わくは箱根以西に兵を留めていたたきませんと、この江戸の多数の旗本や、譜代の藩々の状況から言いましても、どのように沸き立つかも知れないと考えまして、私共はお願いを申し上げました。しかし、唯今では箱根をこえてこちらに繰り込んでまいられました。私共は鎮撫のために一命をなげうってつとめているのです。何としてでも、恭順の意をつらぬこうと思いつめています。しかるに、ひそかに聞きますれば、官軍には明日江戸城を総攻撃なさる御予定とのこと。それはどうしてもお見合わせ願わなければなりません。拙者は、嘆願とともにそのお願いのために参ったのです」
 西郷が言う。
「恭順とあるなら、恭順の実をあげてもらいたいのです」
「大総督の御命令に従って、引きこもって謹慎すれば良いと仰っしゃるのでありますか」
「そうです」
「そういたします。上野大慈院にずっと蟄居謹慎しているのです。それでよろしいか」
「上野でも、その他でも、ふさわしいところなら、御勝手でごわす」
これで慶喜の恭順のことはすんで、城受け取りの話になって、西郷は言う。
「江戸城の受け取りでごわすが、すぐにお渡し願えますかな」
「すぐお渡ししましょう」
「兵器弾薬などは」
「これもお渡し申しましょう」
「軍艦は?」
「これはちょっと面倒です。陸兵のことなら、それは拙者の管轄ですから、いかようにもして、なるべく穏当にお渡ししようと思いますが、軍艦はどうも思うにまかせません。というのは、実際において、軍艦のことを取り扱っているのは榎本和泉(武揚)です。この榎本釜次郎という男は、我々と一々同意であるとは申し上げかねるからです。しかし、今ここで官軍にたいして粗暴なふるまいをするというようなところは見えません。本人にもその意思はないと信じます。しかし、軍艦の受け渡しのことは、ここで私はお請け合いすることは出来ません」
 勝のことばはまことに正直であった。相手が西郷だから、かれこれつくろう必要はないと思ったのであろう。西郷もまたそれに立腹するようなわからずやではない。黙ってうなずいて聞いている。
 勝は続けた。
「もちろん、江戸城もお引き渡しせねばならず、弾薬も差し出さなければなりませんが、よくよく私共の心底をお察し下さい。一口に旗本八万騎と申しますが、このほかに伝習隊その他の近年とり立ての兵も莫大な数があります。またこれに準ずる各藩の兵もそれぞれあります。今日江戸の混雑というものは、実に容易ならぬもので、拙者も殺されようとしたことが、すでに数度あります。朝廷のおんために尽くすのですから、身命は少しも惜しむところではありませんが、今死にますと、徳川家はどうなるであろうと、不安にたえないのです。大久保一翁はじめ皆私と同様の考えであります。こう申し上げますと、拙者はあるいは諸君からお疑いを受けるかもしれませんが、その疑いはすでに拙者はわが幕府の重役その他からも受けているのです。両者の疑いの間にはさまっている拙者であり、またその間に挟まって誠意を尽くそうとしている慶喜なのであります。今日では、慶喜といえども、命令を出しましても、その通りに従わせることは出来ない形勢なのです。だのに、官軍では明日兵を動かして江戸城を総攻撃しようとなさる。必ず何らかの変動がおこり、慶喜の精神が水泡に帰するばかりでなく、江戸はいうまでもなく、天下の大動乱となることは明らかであります」

 勝のことばの最後のくだりは、実におそろしい威迫に満ちたことばであった。そうなった場合には、勝の命令一過、江戸中のナラズモノらがそれぞれに放火して、官軍を江戸の町とともに灰燼にしてしまうということを言っているのである。はたして西郷にそれがよみとれたろうか。西郷は依然にこにこして聞いているだけである。
 勝は自分の広長舌に結びをつける。
「西郷殿にはかねてまた申し上げたことがありますから、大抵御諒察のことと思います。ともかくも、明日の戦争はやめていただかなければなりません」
 勝がここにいう「かねて申し上げたこと」というのは何であろうか。山岡が駿府に持参した手紙の文面のことであろうか。興津宿で西郷が各隊長らに怒りの色とともに示したというあの書面の文面のことであろうか。多分これであろう。
 とすれば、榎本釜次郎が掌握している十二隻の軍艦は、勝の自由にもならず、慶喜の統制も及ばぬというのであるから、官軍としてはゆゆしい脅威になるはずである。一言も軍艦などのことは言わずに、西郷をおどかしている勝もうまいものだが、春風に吹かれているような顔で、とぼけて次のように言う西郷も、なかなかの役者ぶりといえよう。
「官軍の先鋒隊は拙者の指揮下にありますから、攻撃中止にすることは出来ます。新宿からする東山道軍支隊も、板橋からする東山道軍本隊も、連絡すればとめることが出来ます。しかし、先生は拙者がこれだけのことをした場合、何をして下さいますかな」
「そうしていただけばまことに大慶です。拙者は直ちに慶喜のところへ帰り、その号令をもって早々鎮撫して、必ず官軍に向って粗暴なふるまいをしてはならぬということを、厳重に達するつもりでいます」
「それはもちろんそうしてもらわなければなりませんが、先ず第一に城、兵隊、兵器を渡してもらわねばなりません。それをぜひ急にしてもらわねばなりません」
「それは暫く待っていただきとうござる。そのことはまことに困難なのです。内情をよく考えていただきたい。今日もし卒然としてその令を出しましたなら、慶喜がになるかも知れません。我々も真先にいのちを取られるでありましょう。いのちは敢て惜しむところではござらんが、そうなれば徳川家三百年の功績も消えて、天地に対して申し訳なく、また朝廷にたいして大罪を蒙ることになりますから、唯今のところはただ鎮撫するというだけにとどめておいて下さい。あとはまたあとでいかようにもいたしましょうから」
「そういう御都合なら、それでよろしい。その積りをもって、慶喜殿も降伏なさるように。どこまでもその方針をもって御鎮定なさるがよろしい。こちらは恭順がどれくらい出来なさるか、見ましょう。それでは、明日の攻撃はやめましょう」
 この渡辺の言うところと、勝の十四日の日記に記するところとを見くらべてみると、繁簡のちがいはあるが、同一根であることがたどれる。勝の日記は自分の心覚えのためのものであるから、うんと整理して極度に省略した要領を記するにとどめたものであろう。
 こうして談判がすんで、西郷は隣室の村田新八、中村半次郎の二人を呼んで、進撃中止の命令を出すように命じ、あとは昔話などしていたという。「従容として大事の前に横たわるを知らない有様は、おれもほとほと感心した」と、勝は後日談している。

 この攻撃中止の命令は、この時点では、明日に予定されていた総攻撃を一時とりあえず延期するという建前で出されたのだが、ついに永久のものとなり、江戸は焼土となることをまぬがれ、百万の住民は安全であることが出来たのであった。
 この談判を、勝は後年、これは相手が西郷だから出来た、他の人ならこちらの言葉の些少の矛盾や小事に拘泥して、こうは行かなかったろうと言っている。だから、ここで、勝の当時の人物評を紹介する必要があろう。彼は『氷川清話』で、大久保利通のことを、
「大久保は西郷の実に漠然たるに反して、実に截然としていたよ。江戸開城の時、西郷は『そうかよろしく頼み申します。後の処置は勝さんが何とかなさるだろう』といって江戸を去ってしまったが、大久保なら、これはかく、あれはかくと、それぞれ談判しておくだろうさ。しかし、考えてみると、西郷と大久保の優劣はここにあるのだよ。西郷の天分がきわめて高い理由はここにあるのだよ」
といっており、木戸孝允のことを、
「木戸松菊は、西郷などにくらべると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがのう」
といっている。この人物評によると、同じく維新の三傑といわれていても、この二人はこの際の談判相手としては皆落第ということになろう。たとえ彼らがパークスが官軍の慶喜征伐や江戸進撃にたいして異議を持っているという情報を知っていてもだ。もちろん、中止命令は出されただろう。出さざるを得ない場になっているのだから。しかし、当時の人にも、後世の人にも、仰いで嘆称せざるを得ないような、こんな見事さには行かなかったろう。西郷という千両役者、勝という千両役者によって、はじめて演ぜられた、最も見事な歴史場面だったといってよいであろう。
。。。。。。。。。。

 勝が英国公使パークスと連絡を取ったり、パークスの意向が西郷を動かしたりしたため、江戸の無血開城はおこなわれたので、西郷と勝との英雄的談合などは単に表面だけを見たウソの美談にすぎないという説をなす人は近頃多いが、ぼくの記述をずっと丹念に読んで来た人には、そういう結論を下すわけには行かないことがわかるはずである。
 西郷は京都出発の時から、最終の段階では慶喜を助命し、徳川家の家名も存し、領地もある程度はあたえるつもりであった。それは大久保と談合し、岩倉の諒解も得てあったのだ。
 念のために、勝、西郷、パークス、サトウ、山岡等の人々のこの時点における関係の日表をつくってかかげる。

 慶応三年
 十一月二十九日
    パークス横浜から海路大坂に到着。パークスは十二月七日(太陽歴1868年1月1日)に大坂と兵庫とが貿易港として開港されるので、その祝賀のために来たのであるが、政治情勢の激変、伏見・鳥羽戦争の勃発、それにつづく神戸事件、堺事件、また外国公使の参内拝謁などのために、長い上方滞在をつづけることになった。
 慶応四年(明治元年)
 三月七日
    輪王寺宮、供奉僧覚王院義観等、駿府で大総督府参謀林玖十郎に会って、慶喜の恭順降伏の条件を示さる(単騎官軍の軍門に拝伏)。
   八日
    パークス、サトウをともなって三ヶ月ぶりに上方から海路横浜に帰着 
    山岡鉄太郎、駿府で西郷に会って、慶喜の謝罪謹慎の実効条件を示さる(諸書には九日のこととしている。単騎官軍軍門拝伏のことなし。備前藩預けをやめると口頭で約束す)。
   九日
    サトウ、事情視察のために江戸に出る。勝を訪問した形跡はない。
  十二日
    木梨精一郎、渡辺清左衛門、横浜にパークスを訪ね、病院設置のことで依頼し、拒絶さる。これを渡辺はこの日西郷に報告した。
  十三日
    西郷と勝との第一回会談(高輪の薩摩屋敷)。
  十四日
    西郷と勝との第二回会談(芝田町の薩摩屋敷)。
  十六日
    西郷、駿府につき総督府で協議を遂げ、さらに京都に向う。
  十九日
    西郷、京都到着。
  二十日
    太政官代、夜半に西郷の意見をいれて宸裁案が決定した。
  二十一日
    大坂へ行幸のため出輦。西郷見送る。
    サトウ、勝を訪問して、西郷との応接内容、今後の見通し、勝の見込みなどを聞く。この日以後、勝はサトウにパークスのミカド政府に持つ勢力を用いて助力してくれるよう頼んだようである。
  二十二日
    西郷、宸裁案を携え、京都を発して東に向う。
  二十五日 西郷、駿府着、宸裁案を修正して即日また東に向う。この日、パークスの手紙が総督府気付でとどく。西郷はこれを読んでから出発した。
   二十七日
    勝、パークスを訪問。はじめ拒絶され、終日ねばってついに会う。やがてパークスの心を引きつけることに成功し、最悪の場合には英国の軍艦で慶喜を国外に脱出させることを頼みパークスも艦長も許諾した。
   二十八日
    西郷、池上本門寺本営に入る。この日、江戸に入るにあたり、西郷は横浜にパークスを訪ね、朝廷の徳川氏及び慶喜の処分方針について語った。
 四月四日
    勅使橋本実梁、副使柳原前光、参謀西郷、海江田、木梨ら入城して、慶喜の死一等を減ずる等の五ヶ条を田安慶頼に申し渡す。
   六日
    西郷は横浜にパークスを訪門して、パークスの問いに応じて、朝廷は慶喜の一命を求めるようなことはあるまじ。慶喜の京都進撃を助けた連中にも寛大な処置があると信ずるという。
   十一日
    慶喜、江戸を出て水戸に退く。
    江戸城を明け渡し、兵器を引き渡す。

 西郷と勝との会談があまりに劇的であり、英雄的空気に満ちているので、偶像破壊的な情熱に駆られて、否定したがる人々が、たまたま渡辺清左衛門の追憶談を読んだり、アーネスト・サトウの著書をひろい読みしたり、勝の『解難録』を卒読したりして、性急に結論を下すのである。史書はどんな良質なものでも、一種類や二種類を読んだくらいでは断定は出来ない。広く、しかも熟読して、定説と違う結論が出たら、せめて日表でも作って、たしかめるべきであろう。
 勝が、西郷との談判だけでは安心出来ず、アーネスト・サトウやパークスにすがっていろいろ尽力したのは、勝の立場としては当然のことである。しかし、結果的に言えば、その必要はなかったのである。両雄の会談だけで十分だったのである。歴史を読むものは、そこを酌み分けるべきである。

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西郷隆盛 第八巻 / 海音寺潮五郎

2016-06-30 09:50:31 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第八巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 

 この西郷隆盛史伝、朝日新聞社刊の第八巻の帯は、<王政復古!維新の夜明けーー第二次長州征伐は幕府側の惨敗。そして将軍家茂の死と孝明天皇の死。政局は大きく転換、王政復古の大号令は渙発された。幕末の人物群像を公明鮮明に描いた史伝文学の傑作>。
 さて、ネワザが得意そうな岩倉公が、いよいよ政治の表に出てきた。これまでのお公家さんにない権謀術数、これまた自分らの意志貫徹を目指す薩摩の画策とがマッチして、とうとう徳川家の追い落とし策を通した「小御所会議」のことは覚えておこう。この前後も無論、かなりの紆余曲折があってのことだが、このときも綱渡りで、歴史上に残る一コマは結果こうなった。他の「読み」と判断、指し手も無限にあろうが、いったい人間のやることに、最善手というものはあるのだろうか?あの場に居合わせた人たちは、結果的には賢明な選択をしたのだと僕は思うのだが、人工知能ロボットならどういう指し手を選んだだろうか?
 このときもそれ以後も、道筋の根幹を抑え周到な根回しを経て大久保らとのコンビで仕切っている西郷の、この日の一言がいいなあ。「事ここにいたっては、一匕首(あいくち)あるのみ」(「維新・最後の武士」)だ。以下に引用した海音寺さんの「現代語訳」での言葉の模様ではチト違うのだが、いずれ「薪割り流」だ。


>>>(以下、「西郷隆盛 第八巻 / 海音寺潮五郎著  朝日新聞社 昭和53年6月25日」より引用 )


<西郷隆盛 第八巻 目次>
親切な西郷
太宰府事件
小笠原壱岐守いきり立って長州使節を捕縛す
薩藩の出兵拒否と大久保の健闘
パークスの薩摩訪問
幕長戦争開始
高杉、幕府海軍を撃破す
四境戦争
芸州口合戦
石州白合戦
小倉口合戦
幕府側
家茂の死、その後
慶喜の長州討入り計画
朝議の不詮索
一橋また揺れる
慶喜が勝を起用する心理
勝麟太郎の和平談判
岩倉の策謀
慶喜襲職
岩倉具視という男
孝明天皇の死
西郷の雄藩公議計画
雄藩四侯それぞれ
慶喜ねばって条約勅許をもらう
薩藩文句をつける
薩摩琉球国
薩土同盟
武力倒幕策の決定
長州藩との談合
土佐藩の大政奉還説と薩土同盟
西郷、機略をもって英仏を裂く
長崎の英人殺しの嫌疑土佐人にかかる
西郷、武力倒幕のことを長州人に語る
原市之進暗殺さる
大久保、長州に下って打合せる
薩軍の国許繰り出しについて
大政奉還建白
武力倒幕運動と大政奉還運動並行して進む
大政奉還決定
討幕の密勅降下
慶喜、大政を奉還す
薩軍鹿児島出発・岩倉京都居住を許さる
坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺さる・薩軍の入京
長州勢先鋒摂津に到着
復古大号令渙発の相談と決定
王政復古大号令渙発
小御所会議
長州入京
二条城内のさわぎと慶喜の下坂
慶喜の外国使臣への演説
朝廷、幕府に領地返上を強要す
慶喜の挙正退奸の上表書
江戸の憤激・薩摩屋敷の浪人集団

<<<(小御所会議)から
 小御所会議は九日(慶応三年十二月九日)の暁方からはじまった。主上御出御あっての御前会議である。列席者は、今日任命された三職の面々である。宮と公卿等は左方に列席し、諸侯は右に列席し、諸藩臣は次の間の敷居際まで詰めていた。
 中山忠能は天皇の外祖父なので、議長格で、勅旨を宣べた。
「徳川内府が政権を奉還して将軍職を辞退したいというので、その請いをお許しになった。そこで王政の基礎を設け、万世不抜の国是を建て給うことになったのであるから、各々皆聖旨を体して公儀を尽くすように」
そのことばがおわると同時に、山内容堂が発言した。
「先ず急ぎ徳川内府をお召しになって朝議に参与せしめらるべきでありましょう」
声が大きい。酒気を帯びているようである。
大原重徳が異議をとなえた。
「内府は政権を奉還はしたが、果して忠誠の念からであるかどうかわからぬところがある。それがはっきりするまで、朝議に参与させぬ方がよいと存ずる」
 容堂は一層大きな声になった。
「この度の変革の一挙はすこぶる陰険の感がござる。諸藩人が武装して兵器をたずさえて、禁闕を守衛している。王政復古のはじめにあたって、まことに不祥至極でござる。堂々たる王政復古のめでたき首途ならば、廟堂におかせられてはよろしく公平無私の心を以て百事を措置さるべきでござる。しからずんば、天下の衆心を帰服せしめることは出来ないでござろう。元和偃武以来、ほとんど三百年、海内をして太平を謳歌せしめたのは徳川氏の力でござる。一朝にして故なくその大功ある徳川氏を疎斥するとは、何たる恩情の薄さでござろう。今内府が祖先より継承し来たった覇業をなげうって政権を奉還しましたのは、政令を一筋に朝廷より出でしめて、金甌無欠の国体を永久に維持せんことを謀るもので、その忠誠はまことに感称すべきでござる。且つ内府の英明の名はすでに天下に聞こえています。よろしく速かにこれを朝議に参与せしめ、意見を開陳せしむべきであります。しかるに二、三の公卿はいかなる意見があればとて、この陰険に類することをするのでござろうか。まことにわからにことでござる。恐らくは幼冲の天子を擁して権柄をせっ取せんとする意があるのではないか。まことに天下の乱階を作すものでござるぞ」
 漢文調子のことばづかいは容堂のくせである。今日は朝から飲んでいる。満々たる怒気がある。強いことばで、強い表情で、言いたいままに言い放った。言うところもまた正論である。満座言いまくられた感じになった。しかし、ことばづかいに不謹慎な点があったので、岩倉はすかさず、そこをつかまえた。
「土佐殿は唯今心得んことを仰せられた。ここは御前会議の席でごわすぞ。幼冲の天子を擁して権柄をせっ取せんとするの意があるとは何でごわす。聖上不世出の英資を以て大政維新の鴻業を建て給うのでごす。今日のことはすべて宸断によってはじまったのでごわす。おつつみなされい!」
と、叱咤するように言った。
 論旨には関係ないことばではあるが、容堂は恐縮して、失言をわびないわけには行かない。勢いが相当殺がれたことは言うまでもない。

 松平春嶽が言う。
「王政をおはじめになるというめでたい時にあたって、刑罰を取って道徳をお棄てになるというのは、合点のまいらぬことであります。王政は仁愛を根本となさるべきものと拙者共は考えていますから。徳川氏は二百余年の太平を開いたのであります。その功は今日の罪を償うに足ると思います。容堂殿の御意見をお容れになってしかるべしと存じます」
 これは至っておだやかな調子で、じゅんじゅんとした説きぶりである。王政は仁愛が基本であるというのは、儒学がインテリの常識であった当時としては最も説得力のあるものだった。
 
 岩倉としては全力をつくして、これを粉砕しなければならない。おもむろに口をひらいた。
「徳川家康公が天下の覇者として世に太平を致し、万民を救ったその功はもとより小さくはごわへん。しかし、子孫はその遺烈によりかかって、権勢をたのみ、上は皇室をしのぎみなし、下は公卿諸侯を脅しおさえつけたのでごす。君臣の義にそむき、上下の分を乱すこと久しいものでごわす。且つ嘉永六年の黒船渡来以来、勅命を蔑如し、綱紀を敗壊し、外は専断を以て欧米諸国と通信貿易の約を取結び、内は暴威をふるって、憂国の親王、公卿、諸侯を隠居蟄居にし、勤王の志士を殺戮しました。つぎに無名の師をおこして長州を再征して、怨みを民に結び、禍を朝廷に及ぼしました。その罪もまた大きゅうごす。内府が果して反省自責の心を抱くならば、まさに官位を辞退し、土地人民を還納し、それによって大政維新の鴻図を翼賛すべきでごす。今政権の空名だけを奉還して、実際の土地人民は保有しているとあっては、その心術の邪正は白日下に掌裡の紋を指すように明白であります。こんな人物を、どうしてにわかに召して朝議にあずからしめることが出来ましょう。朝廷としては、まさに先ず内府に諭して、官位を辞退することと、土地人民を還納することを以てし、その反省自責の実績を徴すべきことです。召して朝議に参与させるのは、この実績を立てるかどうかによってはじめて決定さるべきことでごわす」
 岩倉のことばがおわると、大久保一蔵が藩士席から敷居際にいざり出て発言した。
「土佐老公と越前老公のお説に従いましては、徳川内府の御心術の邪正を見ることが出来ません。御両公の仰せられるところは、はばかりなく申せば理屈にすぎません。理屈は現実に及びません。ここは岩倉様の御説のごとく、官位御辞退と土地人民の還納との二つをおさとしになり、内府はこれを奉承し給うという御実行によって、御心術の正しいことを立証されることが必要と存じます。これを立証されるなら、内府の御心情はたしかに御忠誠なのでありますから、お召しあって朝議に参与せしめらるべきであり、奉承なされぬときはその心術邪曲であることが明らかなのでありますから、罪をならして速かに討伐なさるべきであると存じます」
 これで、岩倉と大久保の本当の心は討幕にあることをぶちまけたことになった。すなわち、片や公武合体派ー平和派の山内容堂、松平春嶽、片や復古派ー討幕派たる岩倉具視、大久保一蔵の格闘的論戦となったわけである。

 藩士席から後藤象二郎が席を進めて、主人容堂と春嶽の説を支持して大いに論じ立てた。
 議長格の中山忠能は尾張老公に、
「あんたの意見はどうでごす」
とたずねた。尾張慶勝は、
「拙者は春嶽や容堂と同じ意見です」
と答えた。忠能は島津忠義に、
「あんたはどうです」
ときいた。
「拙者は岩倉殿の説のごとくにせねば、王政の基礎を固めることは出来ぬと存ずる」
と、島津忠義は答えた。
 大名等の意見は真二つに分かれたといってよい。
 中山は席を離れて、正親町三条実愛と万里小路博房、長谷信篤のところへゆき、何やらささやきかけた。岩倉はそれを見て、びしっと言った。
「聖上が御臨遊ばされて、皆の意見を聴き給うのであります。諸臣はよろしく肺肝を吐露して当否を論弁すべきでごす。みだりに席を離れて私語するのはつつしんでいただきます」
 福岡藤次(孝悌)が後年言っている。「昨日まで古びた被布を着て火桶を抱いていた岩倉公と、この日はまるでちがって、威風あたりをはらって見えた」と。長い間の蟄居をゆるされて、足かけ六年ぶりに朝廷に立ち、おのれの経綸を行うことになったのだから、凛々たる気魄に満ちていたはずである。

 休憩が宣せられた。その休憩の間に、岩下佐次右衛門は非蔵人口に来て、西郷を呼んだ。その日西郷は小御所内のことは大久保等にまかせて、禁裡守衛軍の指揮と諸藩の動静とに気をくばっていたが、岩下から呼ばれてやって来た。岩下は容堂の意見が強硬で、岩倉も大いに手こずっていることを語り、意見をもとめた。すると、西郷は微笑して、
「岩倉さんに言うて下され。オマンサアの短刀はよう研いでごわすかと」
とだけ言って、行ってしまった。


 岩倉は休憩室に一人いて酒をのんでいた。岩倉はよほど酒が好きであったらしく、万事尽きて困時果てたときにはほどほどに酒をのんで眠ることにしていたようである。そうして落ち着きを回復し、道を発見したようである。岩倉の伝記を調べていると、そういう場面によく出会うのである。このときは眠るに至らず、まだ飲んでいるときであった。岩下が入って来て、西郷のことばを伝えた。岩倉はうなずいて、非蔵人を呼んで、浅野長勲を呼んで来させ、長勲に杯をさして、
「あんたも御承知の通り、まろはこんどのことには随分強い決心をしています。こうぐたぐたと決まらんではどうにもなりませんよって、こんどは霹靂手段で行きます」
と言って、ふところにおさめた短刀の上をおさえて見せた。
 長勲はおどろいて、
「拙者はあなたの議論をもっともであると思っています。これから辻(将曹)に命じて後藤に説かせて、あなたの議論に従わせましょう。もし後藤が聞き入れませなんだら、、拙者から直接容堂殿に申しましょう」
と言って立去り辻将曹に意をふくめた。
 辻が承知して藩臣等の休憩室に入って行くと、あたかも後藤が大久保にせっせと容堂説を説いているところであった。討幕論は岩倉より大久保の方が本家である。聞くはずがない。容赦なく叩きかえしていた。辻は後藤を連れ出して、
「すっかり、非常準備が出来上がっていますぞ。もう口舌では追いつきはしません」
と言った。
後藤は即座に悟って、容堂のところに行き、
「君公はすでに満腔の不平を吐き尽くされたのでございます。この上抗弁されましては、徳川内府と秘密の約束でもあるのではないかと疑惑されるだけでございましょう。そこのところをよくよくお考え下さいますよう」
といった。
 それもそうだと、容堂も思い、春嶽にもそう言った。
 やがて再び会議がひらかれたが、もう波瀾はおこらない。会議はついに岩倉等の意図したところにおちついた。すなわち退官納地のことを尾・越の老公から慶喜にさとさせ、慶喜から進んで退官・納地を奉請させるということに決議されたのであった。総裁有栖川宮が宸断を仰ぎ、天皇が裁可された。すでに三更をすぎていた(『岩倉公実記』『丁卯日記』『大西郷全集』『維新土佐勤王史』)。

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西郷隆盛 第七巻/海音寺潮五郎

2016-06-11 16:17:22 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第七巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝、朝日新聞社刊の第七巻の帯には、<薩長連合成る!維新前夜ーー禁門の変後、幕府は長州征討を諸藩に命じた。しかし、死中に活を求める西郷の尽力が長州を救い、これが契機となって薩長連合は成る。急逝後ますます世評の高い著者のライフワーク>とある。

 幕末の混沌とした情勢のなか、いよいよ天才たちの出番となってきた。海音寺さんの見るところの「天才」は、高杉晋作、坂本龍馬、そして西郷隆盛。何が、どこが天才かは、この大部の著のそこかしこに出てくるのだがおおむね忘れた。が、幕末にこういう人物を得た日本は幸運であった。大局観と直感力、真っ正直で嘘がない、信じることに熱意があって、行動は大胆不敵、鋭いかバッサリ切るのかともかく切れ味。幕末も平成の世も、言い訳と小細工ばかりするような人たちがはびこってはいるようだが、天才、英雄は、激動の時代にしか生まれてこないのだろうか。

 坂本龍馬や高杉晋作は、多少ヤワなお坊ちゃんとも思っていたが、あれほど若くしてからに、なんともタイヘンな人物であったと再認識した。西郷の思想と人物、度量の深さ、司馬遼太郎さんは西郷を感情の量が大きいという言葉で表現したが、倒幕まで突っ走る先見の明と行動力、その根底には知性の高さと冷静さを僕は感じる。西郷と高杉は、お互いを意識することはあっても相見えることはなかったようで残念だ。西郷と坂本は、助け合いと信頼関係が濃密だったのが救いである。海音寺さんが記録した薩長連合がようやく成ったあたりを、抜き書きして記憶にとどめておこう。

>>>(以下、「西郷隆盛 第七巻 / 海音寺潮五郎著  朝日新聞社 昭和53年3月25日」より引用 。。。部は中略)


<西郷隆盛 第七巻 目次>
遣欧鎖港談判特使始末
長州藩書生の英国蜜遊学
井上と伊藤の尽力空し
馬関戦争
講和
五代才助と松木弘安のこと
薩藩欧州留学生・モンブラン伯爵
西郷、長州膺懲を促進す
勝安房との初会見
雄藩連合の構想
西郷の対長州策
長州両派の争い・井上聞太の遭難
天狗党のさわぎ
解兵についての西郷の努力
吉川経幹の弁疏
長州諸隊の情勢・西郷の撤兵論
高杉と西郷の動き
長州諸隊の動静・西郷と中岡慎太郎の初対面
西郷、三途の川を渡る
高杉挙兵
諸隊の奮起
西郷の努力
長州征伐解兵と西郷の結婚
五卿動座
西郷の薩筑同盟運動
高杉の俗論党征伐
大久保のいろいろな工作
薩長連合工作
幕府のうぬぼれ
天狗党の最期
西郷の日々
幕府、長州再征を触れ出す
中岡慎太郎の薩長同盟工作
将軍、長州征伐のために引兵上洛せんとす
薩長連合成らんとして停頓す
将軍、長州再征のために大坂に下る
薩長の和親進み、長州の軍備着々と捗る
長幕のやりとり
西郷の観察
英仏の外交戦
大久保の長州再征せきとめの健闘
外交団、条約勅許をもぎとる
広島における長幕談判
永井主水正の宍戸備俊介に対する尋問
近藤勇等新撰組四士の事
第二回尋問
薩長連合成る
坂本龍馬寺田屋の遭難
木戸帰国
あとがき


<<(薩長連合成る)から

。。。。
さて、黒田了介は<慶応元年>十二月九日以前(詳しくは不明)に馬関に到着した。黒田は木戸(桂)に会い、西郷をはじめ薩藩の主脳等が、両藩の同盟のために御上京を切望していると説いた。後年明治になってから五稜郭の降将榎本武揚等の助命運動を黒田はしているが、実に根気がよい。ねばり強い性質の人だったのである。せっせと木戸に説いたが、木戸はうんと言わない。黒田に数日先立って来ていた坂本龍馬も口説いたが、それでもうんと言わない。
 木戸が承諾しない理由がいくつかあった。
一、木戸自身が気が進まなかった。木戸は慎重であるとともに執念深い性質である。八月十八日政変によって苦汁を喫せしめられた恨みを忘れかねていた。それは忍ぶとしても、今の長州藩の立場として、薩藩との同盟はのどから手の出るほど望ましいことではあるが、うかうかのっては裏切られはすまいかとの不安がある。彼はまた名誉を重んずる性質である。苦境にある長州藩としてこちらから出かけて行くのは哀れみを乞うような気がするのである。封建の時代としてはやむを得ない心理だったが、これを超越出来るのは西郷や坂本の担懐を必要とする。木戸は担懐の人ではないのである。
二、奇兵隊その他の諸隊の間に、薩摩との同盟和親を最もいさぎよしとしない空気があった。諸隊は「薩賊会姦」をスローガンとして、この数年の間敵愾心を研ぎみがいて来たのだ。急にその薩賊と同盟しようといっても、受けつけられるものではない。諸隊の大幹部である太田市之進などは、「宮門事変では多数の同志を死なせたが、もとを正せばこれは薩摩の姦謀によって八月十八日の政変があったからである。その薩摩と同盟などしては、死んだ同志にどう申訳が立つものぞ」と主張して、猛烈な異論を唱えている。俗論党を征伐して藩論を立て直すことの出来たのは、諸隊の武力によるのである。近くまた幕府の征長軍と戦わねばならないことは確実であるが、その場合にも主戦力となるのは諸隊兵である。藩庁としては諸隊の意見を無視するわけにはいかないのである。
三、このような諸隊であったためにずいぶん自負心が強く、そのあまりにはわがままであり、藩政府も統制しかねるところがあった。木戸、山田宇右衛門、前原彦太郎(一誠)などが業をにやして政務員を辞職したり、辞職しようとしたことさえある。こんな諸隊がいては、薩摩に招かれたからといって出かけるのさえ危険である。まして薩摩と同盟なぞ結んでは連中の怒りははかり知れないものがあろう。諸事念入りな木戸としてはふみ切れないのも道理であった。

 黒田は二十日ばかりも馬関にとどまって口説き、坂本はまた木戸以外に高杉や井上聞太や伊藤俊輔等に、木戸を承諾させてくれと口説いた。高杉や井上や伊藤ははじめから薩摩との同盟には賛成していたから、奇兵隊総督の山県を口説いた。山県は念入りで、陰湿なところのある男だが、諸隊の幹部の中では大局に通じていて、利害の打算は明らかである。賛成した。
 こういうことで、ついに木戸はうんと行って、藩主敬親から、「京摂の形勢視察」という名目で上京を命じられることとなり、十二月二十七日、奇兵隊士三好軍太郎、御楯隊士品川弥二郎、遊撃隊士早川渡、それに土佐人田中謙助(田中光顕)を連れ、黒田とともに三田尻から出帆して上方へ向かった。諸隊士と同行したのは責任を分かつために木戸が希望したのであろう。諸隊の方では目付役をつけるつもりだったかも知れないが、木戸からみればそれは責任を分かつことにもなる。木戸らしい用心深さである。田中謙助は吉田東洋の暗殺者である那須信吾の甥で、叔父の感化で勤王青年となっていたが、高杉の花々しい働きに感激し、長州に来て弟子になっていたのである。これも高杉からの目付役的任務を負うていたのであろう。
 この時のことを、木戸は自らこう書いている。
「十二月、薩州の黒田了介、余をたずねて馬関に至る。談話一日、切に余に上京をうながす。この時坂本良馬(龍馬)また来って馬関にあり。またしきりに黒田とともに上京のことを論ず。而して余白面(ここでは馬鹿みたいな顔をしての意)、京に至り、薩人と面会するに忍びず、故に他人をして上京せしめんとす。而して高杉晋作、井上聞太等、また余をして上京せしむることを論じ、ついに公命下るに至る。よって、余恥を忍び、意を決し、諸隊中品川弥二郎、三好軍太郎、早川渡、土人田中謙介(助)、薩人黒田了介と同船して浪華に至る。時に正月四日なり」

 一行はずいぶん用心して大坂に行っている。三田尻で乗った船は播州で乗りかえ、大坂につくと一旦天保山沖に碇泊していた薩摩の軍艦春日に乗り移り、それから上陸して薩摩の蔵屋敷に入った。薩摩屋敷からは黒田嘉右衛門(清綱)が出迎えに出た。木戸の記すように正月四日であった。
 三日間大坂に滞在し、八日の払暁、淀川をさかのぼって、伏見の薩摩藩邸に入った。黒田了介の大坂からの連絡によって、西郷が村田新八を帯同して京から迎えに来、共に歩いて京に入り、二本松の藩邸へ導いた。
 当時、京には西郷、大久保、小松帯刀、桂右衛門(久武)、島津伊勢、吉井幸輔、奈良原幸五郎(繁)等がいた。歓迎すること一方ではなく、毎日のように饗宴をもよおし、その間国事なども談合、往々深夜に至ったが、肝心の同盟のことについては、薩摩側は一向切り出さない。木戸もまた切り出さない。ついに正月二十日になった。
「在留中、大久保一蔵、小松帯刀、桂右衛門、そのほか相面会するもの数十人、懇志甚だ厚く、在留ほとんど二旬(実は十一、二日であるが、それくらい長く感ぜられたのであろう)、而して未だ両藩の間に関係するの談に及ばず。余空しく在留するを厭い、一旦拝辞し去らんと欲す」
と、木戸は後に書いている。しびれを切らし、心中立腹して、帰国しようと言い出したのである。薩摩側ではもちろん引止めたろうが、木戸はきかないので、別宴をひらくことにした。それは正月二十日のことであった。

 どうしてこういうことになったのであろう。木戸が自ら切り出さなかった理由は、これまで書いて来た事情によって明らかだが、薩摩側の理由がわからない。同盟を最も必要とするのは長州の方だ、こんなことは先ず言い出した方が将来下馬になるものだから、最も必要とする側が言い出すべきだというのであったろうと思われる。あるいはそうであったろう。前に西郷が中岡慎太郎の熱心な勧めにをことわって下関の待っている木戸をすっぽかして京に急行したことを考え合わせると、この時もその可能性は大きい。とすれば、これも久光の指令であったろう。
「こちらの方から切望しているような風を見せてはならんぞ。長州に先ず言わせ、こちらは受けて立つという形にもって行け。その方が将来のためになる」
という久光の指示があったのではないか。久光は権威主義者だ。そして古い型の策謀家である。そのように思われるのである。
 西郷はこんな権威主義や策謀は最もきらいであるから、気をもんで他の人々に相談しただろうとおもわれるが、久光の意志を無視することになれば、見送るよりほかはないという人々が多かったろう。島津伊勢がそうであり、小松帯刀だってあやしい。大久保だってこの頃ではあやしい。桂や吉井はあるいは西郷に同意したかも知れないが、こう反対者が多くては決定しない道理である。
 ついに薩摩側では二十日の夜別宴を催すことにした。昨年春以来、苦心に苦心を重ねて、やっとここまで漕ぎつけた連合は、空しく消えるほかはないかに見えた。

 しかし、世の中が大転換をしなければならない大事な時には、天運があるものなのであろうか。奇蹟がおこった。この日ーー二十日に坂本龍馬が上京して来たのである。
 坂本は正月十日に、京坂の上場を探索すべき主命を受けている長州藩士三好愼藏を同道して馬関を出発、十七日に神戸に着き、十八日大坂、ここから、海援隊士細川左馬介(池内蔵太)、寺内新左衛門らがつきそって十九日伏見、二十日に三好を伏見の寺田屋にとめおいて、細川左馬介、寺内新左衛門等とともに二本松の薩摩藩邸についたのである。早速、木戸に会った。彼は当然もう連合の話し合いがついたものと思い込んでいたので、挨拶もそこそこに、
「どういう風にきまりました。西郷も他の衆もなかなかの人々で、御心配なさったほどのことはなかったでしょう。どんな風にきまったか、楽しみです。話して聞かせて下さい」
というと、木戸は世にも渋い顔で言う。
「その話は出もせんのです。毎日饗宴攻めで、歓待はしてもらいましたが、だからといって、誓約なんぞしはしません」
 坂本はおどろき、また立腹した。
「なんですと?拙者等が縁もゆかりもないのに、貴藩と薩藩との間にわだかまっている不和を洗い流し、両藩を握手させるためにあんなに骨を折ったのは、単に両藩のためを思ったからではありません。この握手によって日本の行きづまりを打開出来ると思ったからです。貴殿もあの多忙の中から無理をしてこんな遠くへ出てまいられ、薩藩の要路の人々に会いながら、何たることです。貴殿が当邸へまいられてから、もう十日以上にもなるというではありませんか。どんなつもりで、便々としておられたのです。そりゃ、貴殿の方にはいろいろ言いぶんはありましょう。それはわかっています。しかし、そんな女々しい感情にとらわれている時ではありますまい。なぜ男子憂国の至情をぶちまけて、天下のために相談なさらんのです」
と、はげしい調子で責め立てた。
 木戸は沈痛な表情で聞いていたが、
「貴殿がそう申されるのは道理です。しかし、拙者の立場を考えて下さい。はじめわが長州藩は日本の国難を傍観することが出来ず、わが主人は奮然、大いに日本のために尽力しようと決心し、薩国のことも、一身のことも顧みず起ち上りました。それゆえに拙者共もその意を体し、その心を輔けて譜代の君恩に報いんことを期しました。しかるに、幕府が途中で志を変じたために、終始かわらぬ態度を持しつづけたわが藩は天下に孤立して、今日の厄難に陥るに至りました。拙者はそれに不平を申すのではありません。臣子の分を踏んでこうなったのですから、それは何とも思いはしません」
と、先ず言った。これは我々がすでに長州藩使者等と永井主水正との問答で十分に聞いたところである。即ちこの時期の長州人共通の情憤である。こんな場合であるのに、木戸のような人物でも、一通りこれを言わなければ、次が出て来ないのである。坂本はそれをよく知っているから、うなずきながら聞いた。
「しかし」
と、木戸のことばは一転して、
「薩州の立場は違います。公然と天子に朝し、公然と幕府と会い、公然と諸藩と交わることが出来るのです。つまり、天下にたいして公然と尽くすことの出来る境遇にあります。これに反して、わが長州藩は朝廷からは勅勘を被り、幕府からは叛逆者と見なされ、長防二州にせぐくまって、天下皆敵の立場にあり、今や幕府の征伐軍の旌旗は四境にひるがえろうとしているのです。全藩の士人のたのむところはただ一つ、自ら省みてやましきことなしとの信念のみです。これ一つをよりどころにして、一死をもって四境にせまる敵と戦おうとするのです。活路のないことはいうまでもありません。このように、わが長州の立場は危険至極、亡国必至といってもよいのです。こういう長州藩が先ず口をひらいて薩州と同盟を結びたいというのは、つまり薩州を危険の地に誘うものであります。したがって明言はせずとも、授けを乞うと同じです。そこまで拙者等は心を落ちぶらせたくはありません。もし薩州が日本のために尽くす料簡になっているのなら、天下の幸いです。わが長州にかわってくれるでしょうから、長州はもう亡んでもかまいません。同盟のことは、拙者の方からは、口が切れても言い出すことは出来ません」
 龍馬は南国の海のように闊達で、ものなれた男だ。へたにつついて相手の心を一層こじれさせるようなことはしない。
「よくわかりました。ごもっともです。ここは拙者にまかせて下さい。そして、帰国するなどとは言わんで下さい」
と、なだめておいて、西郷に会った。

「西郷さん。どうしたのです。木戸さんに会うて聞いたら、かんじんのことは一向話に出もせんから、かんしゃくをおこして、帰国するというていますぞ」
 西郷は木戸の立場の苦しさも、心理もよくわかっていて、薩摩側が久光の意向をはばかって大事を逸し去らせようとしているのを大いに気をもんでいたのだ。坂本が来てくれたのは、救いの神であると思っている。
「木戸さんの言われることはもっともでごわす。重々こちらが行きとどかんのでごわす。何とか木戸さんをなだめて下さい。この問題については坂本さんたちがはじめから骨折って下さっているのに、その立会いなしにきめてしまったらいかんと思うて、実は坂本さんの来なさるのを首を長くして待っていたのだと言っていたとでも言うて、きげんをとりむすんで下さい。こちらの方は拙者が引き受けまとめもすから」
 坂本は西郷の言外の意味がよくわかって、すぐ木戸の許に引きかえして木戸を説いて承知させた。
 西郷は他の薩摩の幹部等を説いて承諾させた。

 その夜、はじめてこの問題についての正式会見が小松帯刀の別邸で行われた。
『忠正公勤王事蹟』にこの時のことをこう記している。
「木戸ははじめ小松、西郷などと会見した時に、これまで薩州と長州との関係はかようかようであったが、長州の意思はこの通りであると言うて、従来の行きがかりをくわしく言うと、西郷は初めから終わりまで謹聴して、いかにもごもっともでございますと言うていたそうであります。嘗て品川子爵(品川弥二郎)から聞いたことがありますが、おれが薩人の立場に立ったとすれば、木戸の言うことには十分突っ込むところがあった。それをいかにもごもっともでございますというて、しゃがんだまま何も言わなかったのは、さすが西郷の大きいところであると話されました」
 談合は、上記のように木戸が気色ばんで長州の正義をのべ、薩・長の旧い悪関係のことに難しいことを言ったのだが、西郷が終始おとなしく聞いて少しも言いかえしなどしなかったので、やがてなごやかな空気となった。木戸も言うだけのことを言ったので、落ちついて来たのであろう。

 双方から、将来の見込みについて話が出、その結果、六カ条のことがきめられた。
一 長・幕の間に戦端がひらかれた場合は、薩摩はすぐ二千余の兵を急速に上方に取りよせ、現在の在京の兵と合わせておき、うち千人は大坂におき、京都と大坂とをかためること。
二 長・幕の間の戦いに、長州に勝ち色が見えたら、薩摩は必ず朝廷に対して長州のことをいろいろ運動すること。
三 万一、負け色になっても、半年や一年の間には決して長州は潰滅することはないから、その間に薩摩において相当尽力して、長州の立場を保ってくれること。
四 長・幕の間が開戦に至らずして、幕府軍が東帰したら、薩摩は長州の冤罪を厳しく朝廷に申し上げ、勅勘のゆるされるように必ず運動尽力すること。
五 薩摩が国許から兵を京坂に取り寄せて兵力を示しても、一橋、会津、桑名などがなお今日のような態度を改めず、もったいなくも朝廷を擁し奉って正議をはばみ、運動尽力の道の邪魔をするようなら、薩摩も覚悟を決めて、兵力をもってこれらを一掃し、幕府と決戦すること。
六 長州の冤罪たることが認められ、勅勘がゆるされることになったら、両藩は誠心をもって相合し、砕身尽力することは言うまでもないことだが、すでに今日より皇国のため、皇威輝く王政復古を目的として誠心を尽してきっと尽力すること。

 以上である。この六カ条を見てもわかるように、この同盟は長州のためと日本のために倒幕を目的とする攻守同盟なのである。

 木戸は翌二十一日、京都を立って帰国の途についた。黒田了介と村田新八とがこれを送った。

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対岸に相槌 ー 佐竹真紀子 展  

2016-05-03 19:50:11 | 音楽・芸術・文学

 

 

佐竹 真紀子 展ー対岸に相槌ーSARP 仙台アーティストランプレイス 

 この若手アーティストは、東北大震災以降何かを思ったらしくテーマをここに収斂させている。もっとハッピーな油絵を描いてもらいたいのだが、それは誰でもやるでしょ、こういうことは私がしなくちゃ、と一蹴されている。であるから余計な口出しはせず、チチハハ共々少しは手助けをしてインスタレーションの映像のなかで共演者の名をもらった。それにしても、これはいったいなんなのか、町が消えた喪失感か、ひとを喪っての鎮魂なのか、過去から未来への時間の停止なのか。。。心を同じくするアーティストたちには、「今、何ができるだろうか」という思いがあっていろんな取り組みもあるようだ。-震災後をみつめる-岡部昌生- 

 

<<あの町の行方>>

    

     

 

<<この町から問いかけて>>映像

 

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西郷隆盛 第六巻 / 海音寺潮五郎

2016-04-11 09:38:31 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛〈第6巻〉 (1977年)
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝の第六巻は、<西郷赦免・中央復帰ーー薩摩藩の大舵を握った西郷は冷静に中立を守る。一方、八月十八日の政変で勅勘を蒙った長州藩の朝廷工作は執拗をきわめ、ついに蛤御門の戦いへ、長州勢は惨敗して国許へ>という情勢。読者としては、こういう本は手元に置いて精読してくれればすむ。これは西郷を縦糸にした幕末・維新の精密な史伝であるから、有象無象の方々も登場はするがそれはそれ、いよいよ、西郷中央の舞台に復帰。西郷への周囲の期待と人望がなかりせば、孤島で朽ち果てることになっていたのかもしれぬ。
 であるから、ここは沖永良部遠島から解き放たれた西郷のうれしさとそれをとりまくひとたちのこと。のり坊氏もいろんな思いの中こたつで隠忍の日々であるが、西郷のこと思えばウルウルとなりタバコばっかり吸っていた。西郷隆盛、人間五十年。。。。

>>>(以下、「西郷隆盛 第六巻 / 海音寺潮五郎著  朝日新聞社 昭和52年11月25日」より引用 。。。部は中略)

<西郷隆盛 第六巻 目次>
土佐勤王党壊滅
生野事変
薩英講和
島津久光の上京
八月十八日政変後の京都の情勢と久光の心事
春嶽の出京
勝麟太郎の建言
松平春嶽と二条右府斉敬の会話
久光の工作ーー「西洋諸国事情誌」献上
久光に賜わった宸翰
宸翰にたいする久光の答書
長州藩の内部情勢
長州藩の朝廷工作(一)
長州藩挙藩一致につとむ
真木和泉守のあせり
長州藩の朝廷工作(二)
奉勅始末記
井原主計のねばり
長州の薩摩船砲撃と焼打ち
公武合体派大名の永井尚志江戸派遣と一橋慶喜の着京
新撰組粛正
西郷赦免
西郷の藩への上申書
西郷着京とその当時の京都の形勢
山内容堂の状況
将軍上洛
長州膺懲のこと
幕府の薩摩にたいする毛嫌い
幕閣と一橋との薩藩猜疑
西郷の形勢観察
長州進発の勢い
池田屋事変
西郷と当時の薩摩藩邸
長州藩進発
西郷の決意と薩摩の態度
官軍の手配り・佐久間象山の暗殺
戦機ひしひしと迫る
長州側の文書戦
戦いはじまる禁門の変
薩摩藩兵の戦い
平野国臣の死・真木和泉守の死


<<(西郷赦免)から
 この文久三年の十一月下旬から十二月上旬にかけて、在京薩摩藩士の有志者の間で、西郷召喚の嘆願をしようという議がおこった。
 当時は幕府側としてはやっと一橋慶喜が入京したかしないかの頃であり、将軍に至っては永井尚志が松平春嶽の使者として江戸に下って上京を催促している頃であったりしたが、在京の大名、春嶽、会津容保、久光、伊達宗城、肥後藩の代表者長岡兄弟等の間に公武合体のことが熱心に懇談され、まことにうまく行きそうな時期であった。
 一方、長州との関係を見ると、井原主計が国許から来て、しきりに入京の許可を嘆願している頃でもある。
 このような時期に、薩藩士の間に西郷の召還嘆願の議がおこったについては、一応の考察を要する。『大西郷全集』の伝記編では、
「八月政変以来、薩摩の勢力は漸く上下に重きをなすに至った。けれども、それと同時に勤王派は閉息して佐幕党が頭を擡げて来た。薩摩の勤王派の連中は、この形勢を見て飽き足らずと思った。と言って首領ともいうべき人物が居らんでは、如何とも仕様がない。どうかして西郷の赦免を願う道はないかと云々」
と説明している。
 煎じつめればそういうことになろうが、公武合体とは、朝幕両方を認めて、両者を調和合一させて挙国一致しようという方法である。勤王派も認めるが佐幕も否定しないのである。勤王派だ、佐幕党だと言い立てては、成り立たない方式である。やがて、彼等は久光に嘆願し、久光はこれを許すのだが、久光は骨髄からの公武合体主義者であり、西郷ぎらいなのだ。こんな理由では許すはずがない。
 思うに、当時京では最も勢力があり、天皇の信頼を得ていたのは、縷述した通り、薩摩と会津であったが、ともすれば会津の方が勢いがよくなりそうな形勢があるので、それにたいする焦慮があったのではないか。会津は幕府の親藩なので、同じく公武合体といっても幕府びいきのように薩摩人らには考えられ、薩摩は公武合体でも朝廷に重点をおいているのだから、煎じつめれば勤王派、佐幕派ということになろうが、この時点では会津容保は心から勤王の志に燃えており、江戸における幕府当局が幕府中心主義から解脱し得ないでいることを憂慮し、慷慨していることはずっと前に述べた通りだ。『伝記編』の説明は正確とはいえない。
 西郷の召還を必要と考えた薩藩士等の当面の理由とするところは以上の通りであったろうが、中心の理由は西郷にたいする思慕であり、人望であったろう。旧誠忠組の幹部としては大久保がおり、伊地知貞馨(堀次郎)がおり、伊地知正治がいる。大久保に至っては久光側近の要人として、今では大へんな羽振りだ。去年の夏頃まで、旧誠忠組の者で最も久光に気に入られていたのは掘だったが、冬頃から大久保になった。堀の藩邸放火事件が暴露して、堀を中央の地に出せなくなったためでもあるが、一つには大久保の実力が久光にわかって来たためであろう。人物も重厚である。堀は才子でもあり、久光の大好きな学問の知識もあるが、オッチョコチョイでお調子もの的なところがあって、なにか危なっかしい不安があるが、大久保は重厚・堅実だ。命じたことを確実に処理する手腕もあれば、策も立つ。何よりも秘すべきこととそうでないこととの弁別がついて、決してあやまらないことだ。また、久光は厳しい統制こそ政治の要諦と信じ切っているのだが、大久保は心からそれがわかって、最も忠実だ。今では最も信頼している気に入りの者になっている。
 しかし、旧誠忠組の目から見ると、大久保があまりにも久光に密着し、久光の思想、久光の政治行動に忠実すぎることがあき足らない。独自の見識による批判がないようであるのが気に入らないのである。
「久光は骨の髄からの公武合体主義者だ。それにべったりの一蔵サアでは、我々のこの志をどうすることも出来はせん」
と思うのである。
 こうなると、いやが応でも西郷が慕わしくなって来る。

 このような心が、この頃のいつか、有志の藩士等を十数名、円山の料亭に集まらせた。柴山龍五郎、三島弥兵衛、福山清蔵、井上弥八郎等であったと『伝記編』はいう。この中の福山は沖永良部詰めの役人になっていて、再送のこの島での牢舎生活の初期に、土持政照とともに西郷の監視役を命ぜられていた人物である。井上弥八郎は藤井良節の弟、柴山龍五郎は寺田屋事件の時の幹部の一人である。以上のほかに黒田嘉右衛門(後の清綱)、伊地知正治もいたのではないかと思うが、あるいは二人は藩の准要人になっているから、嫌疑を恐れて出席しなかったかもしれない。出席はしなくても、最も熱心なシンパであったことは、次ぎのことでわかる。
 円山会議の結果、西郷の赦免を願い出よう、そうしてもお許しなくば、御前において一同打ち揃って切腹仕るべしと、死を決して嘆願したら、すげなくはされるまいと相談がまとまった。代表者としては、黒田と伊地知が選ばれた。二人がこの日出席していれば、その席で決定したのであろうし、出世kしていまかったのなら、その日か翌日あたりに、会議の結果を報告した上で承諾を得たのであろう。
 この円山会議を『伝記編』は、翌文久四年(元治元年)の正月としているが、文久三年十二月に、吉井幸輔が藩命によって横浜に汽船を購入に行くにあたり、在京中の大久保に出した手紙があり、その一部に、
 大島(西郷のこと)の一件、おどり上りたいほどのうれしさです。(原文=飛揚このことに御座候)。ついては小生に航海して迎えに行くべき命令が下りそうな模様の由、まことに有難い次第です。当年中に上京いたします故、さよう御承知下さい。
 と、あるところを見ると、少なくとも十二月中旬にかかる頃までには、西郷赦免の許可があったと見なければならない。『伝記編』にいうように二月に円山会議があったとすれば、それはすでに赦免決定後におけるもので、最初のものでなかったことは明らかである。

 久光の西郷ぎらいは藩中誰知らぬ者はない。黒田と伊地知ははじめから久光に願い出ることをはばかって、相談の上、先ず小松を訪問して説いた。小松は大いに賛成ではあるが、自分からは願い出にくい事情があるとことわった。そこで二人は大久保を訪問したが、大久保も賛成はしながらも応じようとは言わない。
「わしはあの当時嫌疑を受けた者でごわすから、わしから願い出てはかえって不首尾におわる恐れがごわす」
 要するに二人とも久光の怒りがこわいのである。小松は家老で久光のお気に入り、大久保はお気に入りの要人だが、その二人がこんなにこわがっているところを見ても、いかに久光が西郷をきらっているかがわかるのである。世間では、この時の西郷の赦免は大久保の努力と嘆願によると説く人が多いが、事実は上の通りである。ここに大久保の一面を知る一つの鍵がある。大久保は自らの地位、栄達にも執着のあった人なのである。西郷とは根本的に違うのである。
 二人は大久保という人間の一面に触れ得て、ある失望を感じただろうか。あるいは久光の西郷ぎらいを知っているだけに無理はないと思ったろうか。いずれにしても、途方にくれたことは間違いない。こうなると、直接願い出ることは益々こわくなったはずだ。二人はなお相談して、久光のお気に入りである高崎佐太郎と高崎猪太郎(後の五六)とに頼むことにした。佐太郎は八月十八日の政変の仕掛人であり、猪太郎は久光の名を受けていろいろ運動していたことを想起していただきたい。この時期、二人は目立つほど久光のお気に入りだったのである。二人は承知してくれた。この二人はこれまで特に西郷と親しくいたような話は伝わっていないが、西郷の人物の卓抜さと人望の高さは知っていたであろう。あるいは二人は旧誠忠組左派の連中からあまり好意を持たれていないので、かえって引き受けずにいられなかったのかもしれない。当時の薩摩武士らしい心意気である。

 二人は久光に目通りして、当今の時勢に西郷のような人物が遠島になっていて、京都にいないのはまことに残念であると、皆が言って、拙者等に御赦免召還をお願いしてくれるように申しました、どうかお聞き入れたまわりますように平に嘆願申し上げますと言った。久光は銀のきせるで煙草を吸いながら聞いていたが返事をしない。きせるをくわえたまま振り向きもしない。いかにもにがい顔であったという。
 二人はさぞひるんだであろうが、勇気をはげましてさらに言った。
「もし、この願いをお聞きとどけたまわぬなら、一同切腹いたす覚悟であると申しています」
 久光はなお黙っていたが、二人が退去の様子も見せず、平伏をつづけていると、はじめて口のきせるをとって、言ったという。
「『孟子』に、人を登用するのは最も念をいれるべきで、左右皆賢なりといっても、自らの目でとくと見定めないかぎりは、抜擢などしてはならないとある。しかしながら、多数の家臣等がそれほど申すものを、愚昧なわしがひとりきかんのは、穏当なことではない。太守様(忠義)に伺いを立てよ。太守様においてよしと仰せられるなら、わしも異存はない」
 どんなに久光が西郷の赦免をいやがったかは、この時彼のくわえていたきせるの吸口に、深い歯のあとがついていたことをもってもわかる。久光がはじめて中央に乗り出すにあたって、西郷を大島から召還した時も、西郷に集まる全藩の輿望に、久光を取りまく側近等は驚嘆し、ついに嫉妬し、それが西郷を大坂から国許に追い返し、つづいて遠島に処した根本原因になったことはあの節書いた通りだが、こんどのこの嘆願を聞いて、その嫉妬はさらに募ったろう。これは長く尾を引いて、明治になってもつづくのである。したがって西郷の運命にも大影響を持つのである。

 それはさておき、二人の報告を聞いて、一同のよろこびは天へも昇るばかりだ。一同打ちそろって久光の前に出てお礼を言上しただろう。久光がどんな表情で聞き、何と言ったかは記録するところがない。
 好まざるところではあるが、約束したことは守らなければならない。久光は近臣岸良七之丞を帰国させて、忠義の意向を問わせた。あるいは久光は孝心の深い忠義のことだから、西郷にたいする自分の心を知っている故、ならんと拒否してくれるであろうと思ったのかもしれないが、忠義は輿論に素直で、すぐ許した。
 それはもう二月半ばのことであった。この頃、すでに吉井は横浜で汽船一隻を購入して、その船で鹿児島にかえっていた。船は胡蝶丸と名づけられていた。早速、その船で西郷を迎えに行くことになった。吉井は西郷の弟従道と福山清蔵を同道して行った。福山は京都にいて、西郷の赦免運動をしていたのだから、迎えに行く一人として急遽帰国を許されたのであろう。
 胡蝶丸が沖永良部に到着したのは、二月二十二日であった。

 この日の西郷のことを、島ではこう伝えて、東郷中介が『南洲翁謫所逸話』に記録している。
 西郷は自分が赦免されることになったとは知らないから、この日もいつもの通り座敷牢で机に向かって読書していると、土持政照が来た。
「沖に蒸氣船が見えもす。藩の船らしゅうごわす」
「ちがうじゃろう。お国の蒸氣船は、昨年のイギリスとの戦さでみな焼かれてしもうたということでごわすから、それは異国船でごわしょう」
と、西郷は答えた。
「そうでございもそか。しかし、異国船なら、それはまた一大事でごわす」
土持はあわただしく出て行った。
西郷にしても、緊張一通りではなかったはずである。異国船なら戦さになる可能性が大いにある。薩英の間に和議が結ばれたことは、恐らく西郷の耳には届いていなかったろう。何せ、船の往来も稀な孤島である。
 しばらくすると、土持があわただしく帰って来て、
「異国船ではごわはん。お国の蒸氣船で、こんどお買入になった、胡蝶丸というのでごわそうな。しかも、先生の御赦免の御使者が乗っておじゃるのじゃそうでごわす。御使者は御親友の吉井幸輔様で、御舎弟の慎吾様も乗っておじゃるそうにごわす。福山清蔵様も乗っておじゃると言いもす。お役所で、今聞いて来もした。」
と、息せき切って言った。
「ほんとでごわすか!」
「こげんことに、なんでうそを申しもそ!やがてお役所からお迎いが参りもそ。御仕度なさって下さい」
政照はまた走り去って、役所の様子を見てから帰って来ると、西郷がうろうろと家中を歩きまわっている。何かさがしものでもしている風だ。
「何をしていなさるのです。もうお迎いがまいられもすぞ」
「羽織をさがしとりもす。順徳院様(斉彬)から拝領した羽織でごわす。記念のためにおはんに上げようと思うて、さっき出しておいたのでごわすが、どこへ行ったか、見えんようになったのでごわす」
「その小わきにかかえていなさるのではごわはんか」
西郷は左のわきの下にかかえている羽織を見て、からからと笑い出した。
「やあ、これじゃ、これじゃ。わしもあわてているらしゅうごわすな」
西郷ほどに沈着な人間がこうだったのだから、そのうれしさはよほどのものであったことがわかる。やがて、役所からの迎えとともに役所に行くと、上下を着た吉井幸輔と、弟の慎吾、福山清蔵とが待っている。なつかしさに、熱いものがどっと胸にこみ上げて来たろう。涙がこぼれそうなのをこらえて、からからと笑って言った。
「おうら、誰が来たかと思えば、ヨゴレどんじゃらい」
吉井は少年の頃、まるで身なりにかまわず、垢づいていたので、親友なかまで、「ヨゴレ」とあだ名していたのである。
「おいはおはんの赦免状を持って来たのじゃ。ヨゴレちゅうことがごわすか。三拝九拝して、おがみなされ」
と、吉井も笑った。
やがて、雑談がはずむ。西郷は慎吾に家族のことをたずね、吉井はこんどの赦免状がどういういきさつで出たかを語った。
「そうでごわすか。わしのために、君前に出て、そろって腹を切るとまで決議されたのでごわすか。有難かことでごわす」
涙もろい西郷だ。涙をこぼしたろう。
吉井はかたちを改めて、赦免状を読み上げ、かしこまっている西郷に渡した。
「ありがたかこと」
西郷はおしいただいて、つくづくと見ていたが、
「おいはこれで御赦免になることになったが、新八どんはどうなっている。新八どんのところへは、別にお使いが立っているのじゃろな」
村田新八のことである。
「ああ、そうじゃった!新八どんのことはとんと忘れとった。したがって、何の御沙汰もいただいて来ておらん。こりゃこまった」
「そりゃいかんど。新八どんとおいは同罪じゃ。おいだけが赦されて、新八どんをおいて行くわけにはいかん。どうじゃろ、鬼界島に寄って、連れてもどろや。万事、おいが責任を負うから」
「ようごわしょう」
吉井はうなずいたが、同時にこういうところが吉之助サアじゃ、一蔵どんではとてもこうは行かんと思ったにちがいない。

 西郷は役所の座敷を貸してもらい、土持に頼んで酒肴の用意をし、在番役人や島役人一同を招待して告別の宴を張ったが、その準備の出来るまで、恐らく吉井は中央の情勢について詳しく語ったに違いない。吉井は公武合体派の大名衆が京に集まり、一橋慶喜も上京し、正月半ばには将軍も上洛して、公武合体の機運が熟し切っていると語っただろうか。あるいは、熟し切っているのに、一橋慶喜をはじめとして、幕府側が薩摩にたいする疑念を捨てかねているために、スムーズに行かないでいると、この時点ではもう京都でははっきりとなっている情勢を語ったろうか。多分、後者だろう。西郷は倒幕ということを考えたようだから、それはこの少し後に語る事実で明らかになる。
 やがて、別離の宴がはじまった。その席上、西郷が土持に贈った詩はこうである。
 別離、夢のごとくまた雲のごとし 
 去らんと欲し還来り涙紛々
 獄裡の仁恩、謝するに語なし
 遠く波浪を凌いで君を思ふに痩せん

 夜はふけたが、うわさを聞き伝えて、知合いの者や弟子等が集まって来る。一体、離島の人情は人なつっこい上に、西郷にたいしてはまた格別の慕情がある。人々は西郷のためにその赦免帰還をよろこびながらも、別れを悲しんで涙をこぼした。西郷もそれは同じだ。飽かず語りつづけた。
 夜中を過ぎる頃、船に乗り込み、まだ暗いうちに出帆した。岸ではいつまでも灯を振ってなごりをおしんでいた。二月二十三日の払暁近い時刻だから、細い月が東の空にかかっていたであろう。
 胡蝶丸の船長は土屋伝次郎といって、薩摩郡群崎の人だが、目地もかなり進んでから、この時の思い出話をしている。それによると、西郷はひどく酔って乗船した。夜明け方、船長が船内を巡視していると、西郷がうろうろしていて、便所はどこかと聞いた。案内してやると、しばらくして出てきて甲板に行った。船長がついて行くと、西郷は、
「船長さん、おはんは大砲を撃ったことがごわすか」
ときいた。
「ごわはん」
「そうでごわすか。わしはこんどはその大砲を撃ちにもどるのでごわすよ」
といって、呵々と笑ったというのである。
この実話があるので、ぼくは西郷が吉井からきいた中央の情勢によって、ついに公武合体で追いつく時代は去って、倒幕の時が近づいてきたと判断したと推理したいのである。

 胡蝶丸はその日の正午頃、大島に寄港したので、西郷は上陸して竜郷に行った。何の前知らせもなく、いきなり夫が帰って来たのだから、愛加那と子供等は夢かとばかりよろこんだ。御赦免になって帰国し、晴れて天下のために働く身になったのだと聞かされると、よろこびは一層であったろう。しかし、西郷が沖永良部にいるかぎりは、いつかまた会うことが期待できるが、今度のようなことになるのは、永久に会えなくなることである。愛加那の心理は最も複雑であったはずである。
 西郷は三夜四日竜郷にいて、二十六日の朝、大島を出帆、途中鬼界島に寄って村田をのせ、二十八日の朝、山川港についた。

 沖永良部における一年半の西郷の生活は、はじめの数ヶ月は惨苦に満ちたものだったが、その後は土持政照の情けによって気楽でもあり、健康的であった。しかし、牢座敷の外に出ることは出来なかったので、足がずいぶん弱っていた。だから、山川港から鹿児島に帰るにも、駕籠によらねばならなかった。十三里の道である。その日の夜に入って着いた。
 家族や親戚等のよろこびは言うまでもない。同志等も来ている。同志等がいろいろと中央の情勢について話して聞かせたが、すでに吉井にきいているから、ただうなずいて聞いた。
 思うに、この日か、翌二十九日あたりだろう、藩庁から出来るだけ早く京都に上るようにとの命令を伝えた。
 こうなると、彼には急いでしなければならない仕事がある。大島三島(大島本島、徳之島、沖永良部島)の砂糖は薩藩の最も重要な財源になっている。藩は島民から租税として収納するほかに、一手に買い上げて大坂に持って行ってさばくのである。その収納にも買上げにも、ずいぶん非道な搾取が行われている。
 彼は最初に大島住いになった時、まだ島の生活にもなじまず、健康上の理由もあって、島民にも王冠を持つことが出来なかった時期に、島民の苦しい生活に同情し、藩の苛政をいきどおり、大久保市蔵等に宛てた手紙に、「島民にたいする藩の政治は言語道断な苛政で、見るに忍びないものがある。北海道の松前氏の蝦夷人にたいする政治もひどい由だが、それ以上と思う。最もにがにがしいことだ。こんなにひどかろうとは予想しなかった。おどろくべきことである」と書き送っている。
 その頃の西郷は流罪人ではなく、単にそこに居住を命ぜられていただけであったので、次第に島の生活に慣れて来ると、島代官その他にいろいろと忠告したり、献言したりして、民の苦しみを緩めることにつとめた。しかし、自らかえりみて、その努力が大して効果があったとは思われない。彼は常に気になっていた。
 沖永良部では彼はずっと牢舎の生活をしていて、直接に民の疾苦を見ることはなかったが、土持政照からくわしく聞いたはずである。彼の憂心と慷慨は深くなるばかりであったろう。それは天性愛情深く、また正義を愛し不義を憎んでやまない彼としては最も自然な感情であったはずであるが、敬天愛人の哲学からもそうでなければならなかったはずである。
 こんど赦免されて内地に帰ったについて、これまでずっと胸中にたくわえていた砂糖買上げののことについて、ぜひ上中建白しなければならないと決心したのである。
 彼のこの上申書は、平凡社版の『大西郷書簡大成』に「大島外二島の砂糖買い上げにつき藩庁への上申書」と標題し、書かれた年時を「元治元年三月初」と推定している。彼は三月三日には京都に旅立ったのであるから、これの書かれたのは、二月二十九日から三月二日までの四日間でなければならない。おそらく、彼は二十九日にも、船旅の疲れがあり、足が痛んでも、寝てはいず、机にむかってせっせと書いていたろう。
 このことについては、のちにくわしく述べるが、西郷は二月三十日には、足を引きずって、島津氏の菩提寺である福昌寺に行き、斉彬の墓に詣でた。この翌年三月下旬、西郷が久方ぶりに土持政照に出した手紙の中にこうある。
「さて、その後は書状も奉らず、甚だもって不本意な次第で、さぞ御立腹のおんことと考えていますが、鹿児島に帰着しまして、中四日すると早々出立したほどで、何もかも忽忙混雑のことでありました。殊に足が立ちませず、船つき場(山川)から自宅まで歩行出来ず、駕籠で帰ったような始末で、あわれなていたらくでありました。帰着の翌々日福昌寺に参拝しましたが、ようよう這うようにして参ったことで、難儀なことでした。お察し下さい」
 西郷が斉彬の墓前にぬかずいて、どのような祈念をしたか、それを書くのは小説の分野であるが、必ずや天命自覚のことを告げ、これこそ御遺志をつぐことであると信ずると言い、さしあたっては幕府を倒すことに専念すべきであると思う故に、御加護を願いたいと言ったであろう。多分、西郷においては、天と斉彬は同一のものになっていたろう。
 彼は三月四日に、汽船で京都にむかった。
 この日は雨であったことが、彼の前掲の手紙ではなく、この日土持政照に出した手紙でわかる。

<<(西郷着京とその当時の京都の情勢)から
 西郷は三月十四日に京都に着いた。そして、三日後の十八日に久光に目通りした。
 久光は西郷をやむなく召還したのだが、召還した上はしかたがない。西郷の様子を見て次々に役目を進めて、ついに軍賦役と諸藩士との応接掛に任命した。軍賦役の「賦」はくばるという意味である。つまり、軍事司令官ということになろうか。
 この頃、大久保一蔵が江戸藩邸の留守居役であった新納嘉藤次に出した手紙の尚々書に、「大島儀も上京して来て、早速拝謁仰せつけられ、軍賦役と応答掛に仰せつけられました。この頃は大体議論もおとなしくなっていまして、少しも心配なことはなく、安心しました。お上(久光のこと)の方でも、今は少しも御疑惑はなく、有難い次第です。御安心下さい」とある。
 大久保が、西郷が昔にかわらず激しい議論を吐いて久光のきげんをそこなうのではないかと心配していたこと、そうではなくなっているのでよろこんでいること、それを新納のような藩の要人に告げて宣伝につとめていることがよくわかる。それとともに、大久保が西郷に会って、十分に注意するようにと忠告している場面も目に浮かぶ。これはもちろん大久保の友情による。恐らく、大久保は西郷にたいして、口頭でする議論はもちろんのこと、手紙のようなものも、いつどんなめぐり合わせで久光の目に触れるかわからないから、久光の心に逆らうようなことは書くなと忠告したはずである。とりわけ、両人の互いの書簡は准公文書のようなもので、ほとんど必ず久光の目に触れるのであるから、西郷もそのつもりで書いたはずである。だから、我々研究者としても、その目で読む必要が有る。文字そのままに読んでは、西郷の真意に違うはずである。
 西郷自身がこの頃に書いた手紙がある。内容から見て桂右衛門久武宛のものであったように観察される。よほど心を許した人にあてたものであることは確かである。その書き出しにもこうある。
  ご一別依頼はお便りすることが出来ませんでしたが、いよいよ御嘉祥、およろこび申し上げます。小弟は無異、先月十四日京着いたしました。憚りながら御放慮下さい。さて、大坂、伏見あたりから有志の人々へ面会しました(大坂藩邸、伏見藩邸で、藩内の昔の同志等に会ったとの意であろう)。小生は昔に少しも変らぬ態度で応接するのですが、相手の方はどうも気味悪がっているように思われました。しかしながら、皆々安心の様子に見えました。よほど心配していたようにも思われます。小生がどのような狂言(矯激な論)を言い出すかもしれないと心配していたのではないでしょうか。滑稽なことでした。しかし小生が至極おとなしくしていますと、あまり程がよすぎて、きげん取りに度度役目を昇進させられまして、小生としては落ちつきの悪いことです。御笑察下さい。
 。。。

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 女川尾浦。遠島ならぬ対岸は出島  ホヤ養殖棚周りのかかり釣り2016,4,2

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西郷隆盛 第五巻 / 海音寺潮五郎

2016-04-05 16:30:32 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第五巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

 この西郷隆盛史伝の第五巻は、<芸術院賞に輝く著者の傑作-ー天皇の攘夷祈願・親征へと急進攘夷と唱える激派の勝利とみえたが‥‥。公武合体派のクーデターでどんでん返し。そして七卿落ち。。。>となる。公武合体派というのは、もともと武家もお公家もあまり覇気のなさそうな人たちばかりで土俵際だったはず。薩摩の狡知と会津の武力で過激な若者達に一矢報いたわけだろうが、これをクーデターというの?それにしてもまあ、もつれた釣り糸のような、人々の動きだ。

 文久三年のこの頃も西郷は、絶海の孤島。風のたよりで薩摩がイギリス艦隊に砲撃されたことを知り詳しい情報を知りたがっているが如何ともしがたい。日々刻々と二転三転する世の中の動き、まさに時は幕末。海音寺さんの言葉を借りれば、天は「大薙刀の截断力も持つ天才」の出現をまっていたのだ。

 時局を追えば第五巻目次の通りだがそのなかから、海音寺さんの眼でみた、松平春嶽、一橋慶喜、高杉晋作、そして西郷隆盛についての人物像がうかがわれる箇所を抜き書きしてみた。

『西郷南洲翁遺訓集』「命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。。。。」じつに西郷そのひとが、始末に困る人だったのだ。

 

>>>(以下は、「西郷隆盛 第五巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和52年7月20日」からの引用 。。。部は中略)


<西郷隆盛 第五巻 目次>
急進攘夷派と漸進攘夷派の争い
倒幕思想
生麦事件についての外国側の風聞第一報
激派公家と激派武士などの運動
激派の勝利
三条実美等と一橋慶喜との談判
薩摩と幕府の空しい努力
激派、朝議を壟断す
大政奉還の初声
毛利定広の加茂、泉涌寺行幸の建白と両派の言路洞開布達
両関白の泣言
三条の辞表問題
足利三将軍木像梟首その他
土佐勤王党に対する容堂の第二撃
生麦事件についての英国の談判にたいする朝廷の反応
木像梟首犯人逮捕
長州藩のいろいろな建白
公武合体派の退勢
御親兵・加茂行幸・清川八郎始末
春嶽の時局絶望と辞表提出
島津久光の入京と帰国
蜘蛛の巣にかかった幕府・春嶽の届け捨て帰国
岩清水行幸
激派の攘夷督促
将軍と姉小路公知の摂海巡視・勝麟太郎のこと
帰府道中の一橋慶喜
生麦事変の折衝
小笠原、一身に責任を負って償金を支払う
一橋の帰府・小笠原の鎖港談判・朝廷の不満
一橋慶喜の辞表提出
姉小路公知暗殺さる
小笠原長行のクーデター計画失敗
長州藩の攘夷戦争
高杉の奇兵隊創設と大里占領
勅使の長州派遣
不運な幕鑑朝陽・不運な幕府使者中根一之允
薩英戦争
西郷と英国艦隊襲来
真木和泉守登場
攘夷親征のこと決定
親征についての真木和泉守の建白書
親征にたいする上流公卿と会津
薩摩と会津の提携
天忠組
八月十八日政変・七卿落ち
真木和泉の西郷あての手紙

あとがき

 

<<<<(公武合体派の退勢)
 ずっと述べて来た通り、文久三年の二月一ぱいは漸進攘夷派(公武合体派)と急進攘夷派(尊王攘夷派)との主導権争いの時期であったが、三月は漸進派の敗退、急進派の制覇の成った時期である。すなわち長州藩を中心とする攘夷派が勝利を得て、朝議の主導権を全面的に獲得し、幕府を中心とする公武合体派が全面的に京都から敗退した時期である。この月中も様々な事件が京都を中心に日本におこっているが、すべてこの観点から眺めれば、一切は瞭然としてあきらかである。
。。。。

 同じこの三月三日、春嶽は朝十時頃に藩邸を出て、江州大津に行った。家茂将軍が今日大津に到着することになっていたので、それを出迎えるためもあったが、さらにもう一つさらに大事な用があった。
 春嶽は昨年夏幕政参与となり、つづいて政事総裁になって以来、幕府の対朝廷の様々なことを改善するために、懸命の努力をつづけて来た。幕府の老中や諸役人等はもちろんのこと、将軍後見の一橋慶喜まで、幕府自尊の心と幕府中心の慣行から蝉脱出来ず、いろいろなことがあったが、春嶽は教誨し、説得し、ついに朝廷尊崇の風を幕府の定着させた。
 また、今年になると、一橋慶喜と先後して上京して来て、公武合体を実現するために努力をおしまなかった。しかし、その努力はほとんど効果がなく、今や朝廷には幕府を敵視し幕府側の公武合体実現への努力をさまたげようとする動きが事毎にある。春嶽には、全朝廷に憑きものがして、道理の支配するところではなくなっているようにしか見えない。
「道理を受け付けないものには、力を持って思い知らせるより方法はないのだが、その力を用うることは封ぜられている。とすれば、とるべき道は一つしかない。辞職である」
と思い定めたのであった。彼は自らも政事総裁を辞することに心をきめたが、将軍にもそれをすすめたいと思ったのであった。
。。。。
 我々は歴史の中に春嶽を浮かべ、その行動のあとをずっと見て来て、彼がいかに心の純真な人であり、いかに私心なく、いかに熱心に、努力をつづけて来たかを知っている。このような人が、いかにも悪意に満ちた、狂気じみた、この当時の過激公家群の様子と、その過激公家等におさえつけられて手も足も出ない、いくじのない上流公卿等の様子を見ていれば、絶望的になるのは無理はないと思う。
 当時の大名で、こんな空気と、こんな人々に対抗して逞しく戦って行ける人物は、恐らく一人もいなかったろう。島津久光は相当アクの強い人であり、賢くもあり、根性もある人だが、やはり出来なかったろう。調子が悪いと見れば、すぐ国許に引っ込んでしまうところにその弱さがある。山内容堂は賢明でもあり、勇気もあり、個人的迫力もあった人だが、これまた調子が悪ければすぐ国許へ引きあげた。一番出来そうなのは、鍋島閑叟だが、これは最も利口で、極度なエゴイストだから、最初から乗り出して来はしないのである。
 春嶽は最も賢明な人だが、最も純真で、最も欲のない人である。物質欲はもちろん、名誉欲も、権力欲もない人だから、憑かれて一種の狂気になり、幕府を悪意でしか見ない人々を相手に、空しい努力をいつまでも続けることが出来るはずはないのである。
 が、それにしても、自分の辞職は別として、将軍にまで軽々と辞職をすすめるのは、尋常ではない。二百数十年、十四代つづいてきた将軍職なのである。よくよく愛想がつき、よくよく絶望的になっていたのである。死にたいくらい深い絶望と嫌悪感があったのだろうと、筆者には思われる。
 春嶽は間もなく正式に辞表を提出し、何と慰留されてもきかず、ついには無断で届けっぱなしにして、越前に帰ってしまうのである。公武合体派の陣営の一角が大くずれにくずれ去ったのである。
。。。。。。
 春嶽の絶望は最も深刻で、幕府はもう天下の府として天下の政治をあずかることは出来ないとの思いが、さらに切になったのであろう。
 一橋慶喜は、やはりこの日、鷹司関白へ次のような伺い書を出した。
 御委任なし下されましたことについて、仰せ出されましたこと、承りました。国事のことについては、事柄によっては朝廷から直接に諸藩へ御沙汰あらせられるとの意味は、すべて大坂湾へ夷船が渡来するなどの、火急な場合においての御沙汰のことで、その余のことは守護職、所司代へ仰せ出されることと解釈いたしますが、なお念のためにこの際申し上げておきます。
 三月九日                     慶喜
 殿下

 さすがに慶喜は才人である。朝廷の幕府にたいする干渉の前触れを、「大坂湾へ夷船が渡来するなどの、火急な場合においての御沙汰」と限定しようとしたのである。しかし、ここに慶喜の才の限界がある。たとえ鷹司関白がその通りであると答えたとしても、その約束に何ほどの力があろう。また、約束が違うと抗議しても、朝廷がかまいつけないなら、幕府としてはそれまでのことだ。どうすることも出来はしない。鷹司になにがしかの力があれば、その約束にはある程度の拘束力があるが、鷹司は最も無力で凡庸な関白だ。激派公家等の横車にたいして、全然無力なのである。そこに思いを致さないのだから、慶喜はついに太平の時代の、やや小利口な大名に過ぎなかったと言えよう。
。。。


>>(一橋慶喜の辞表提出)
 慶喜は江戸に帰着し、小笠原を横浜から呼びかえしたが、別段何の咎めもしなかった。ここも、筆者が慶喜の江戸下り道中に、小笠原から独断支払いのことを知らせたに違いないと考える理由の一つであるが、ともかくも、慶喜は小笠原にこう言っただけであった。
「すでに償金を支払ったからには、今更是非を論じてもしかたのないことである。貴殿は速やかに上京して、くわしくその顛末を申し上げられよ、拙者もつづいて上京いたそう」
 慶喜のこのことばには含みがある。単に償金支払いのことについての言い訳や報告をせよというのではない。京都朝廷を迷乱させている攘夷論を説破して迷夢から醒めさせよというのである。だから、拙者もつづいて上京するというのである。手をつないで一緒にやろうという意味である。
 小笠原はなるべくなら、同時上京のほうがよいと思って、その時を待っていたところ、突然、一橋が辞職願を提出したのである。
。。。。
 日付が五月十七日になっているのは、書いたのが十七日で渡したのはその翌日であったのである。
 以上のどの書面にも、慶喜が辞職を決意した理由は明らかである。彼は開国主義者でありながら、朝廷の狂熱的な攘夷主義に屈してーー幕府の安全のためにやむを得ない屈服であったに違いないがーー、攘夷談判実行のお請けをして江戸に帰ってきたが、江戸の留守幕府の要人らは老中から諸有司に至るまで全部開国主義になっていて、攘夷談判にたいして受けつける者がいない。彼が将軍上洛の先駆として昨年末江戸を出た頃までは、これほど開国主義はさかんではなかった。半年経たない間にこうなったのである。それは欧米列強との戦争こわさのための臆病心も大いに手伝っているが、ともかくも盛んになっていた。
 その上、安政度に彼が家茂将軍と将軍世子たるを争ったこと(この世子争いは、松平春嶽その他の当時の賢諸侯や幕府の賢有司等が猛運動したので、慶喜は傍観していたのだが)をほじくり出して、幕府役人らの中に慶喜に野望があると疑って、なかなかの勢いとなっている。
 かれこれ、慶喜はボイコットされる形勢になっていた。それでイヤ気がさして、辞職しようと思い立ったのだと、これらの書面には述べてある。
 
 たしかにそうに違いないと筆者も思う。慶喜の立場はまことに同情すべきものがある。あらぬ疑いをかけられて、痛くない腹をさぐられるに至っては、誇りある人間にはたまらないことであるに相違ない。
 しかし、責任という点からすれば、問題がある。彼が辞職すれば、朝廷の叱責は幕府に向けられる。それは年若い将軍が一身に受けなければならないのである。もともと攘夷の勅諚を幕府の名によってお請けし、攘夷談判期日を朝廷に約束した主たる責任者は一橋である。読者は慶喜の旅館で三条実美らが勅使として行き向って返答を迫った時、松平春嶽が始終返答することを反対したことを思い出していただきたい。それをここまでしくさらして、ひとり辞職して圏外に立ち、将軍一人の身に非難を集中させるとは、無責任も甚だしいものといわねばならない。
 賢明な彼がここを考えなかったとは思われない。考えはしたであろうが、その性癖である揺れ易い心で、ふいとこう流れてしまったのであろう。
 彼は最も多智賢明な人であるが、思考が、よく言えば繊巧、悪く言えば小細工にすぎるのである。償金支払いを自分の江戸帰着前に留守幕府に片づけさせて、それについての自分にたいする非難を回避し、鎖港談判だけをやって朝廷の覚えをよくしておいて徐ろに善処を画そうとしたのがその例だ。償金さえ支払うなら。鎖港談判は出来ることだというのは、小笠原がきびしいはね返しを受けるまでは、人々の常識だったのである。
 そのくせ、武田耕雲斎に償金は支払うなという口上をもたせてやるなど、小細工もきわまるものである。きっと慶喜は、武田は札つきの攘夷家だから、そんな口上を持って行っても、幕府当局は自分の意思とは思わないだろうと踏んだのではないか。
 ともあれ、慶喜のこの思案の繊巧さが、いつも彼を弱くして、切所にあたってふらっと揺れて変心させるのである。天下の計は太い棒のように真直ぐにつらぬくものでなければならないのである。いつぞやもいったように、彼は政治家向きの人ではない。いわんや乱世に処して撥乱反正する英雄政治家ではない。
。。。

 

>>(高杉の奇兵隊創設と大里占領)
 幕末という歴史的区分は年代的にはあいまいである。外国関係のことがうるさくなりはじめた天保頃もすでに幕末というべきだという論もあり得るだろうが、仮にうんと切り下げて、嘉永六年六月にペリーが来航した時点から慶応四年正月の伏見・鳥羽戦までの足かけ十五年として、その次第に煮つまってきた文久三年半ばから以後における日本の三傑をえらぶとすれば、薩摩の西郷隆盛、長州の高杉晋作、土佐の坂本龍馬の三人であろう。
 三人とも一種の天才である。西郷を天才とするには異論のある人も多いであろうが、天才なるものをひたすらに鋭いものとする通俗的見方を揚棄するなら、切所にあたっての西郷の比倫する者のないほどの勇断力は、天才だけの持つものであることに気づかなければならないはずである。剃刀の切味ではなく、大薙刀の截断力である。天才と大才とを兼ねたものといわざるを得ない。坂本はこの史伝ではすでに姿をあらわしているが、まだその力量が十分に読者の目に触れる機会がない。本格的登壇にはもうしばらく時間がある。
 高杉はすでに姿をあらわした。横浜の外国公使刺殺計画、吉田松陰の改葬、家茂将軍の帰東阻止計画等等である。以上のことは要するに当時の激派壮士ーー現代の過激派青年にも通有なことで、高杉の進化を十分に品隲し得るものではないが、それでも彼が万人に卓越した気魄と天才のもつ鋭さとの所有者であることは、好意を持って見る人なら十分にわかるはずである。人を見るには先ず好意をもつことが必要である。最初から辛辣な心をもって見ては、結局はその人の長所と美点を見失ってしまう。彼の真骨頂はこの時点ーー長州の攘夷戦争のすんだ時から、その全容をあらわすのである。
 。。。

>>(西郷と英国艦隊襲来)
。。。
 西郷が「敬天」の信仰によって、月照との投身自殺の失敗の痛辱から立ち直ったことは、ずっと前に書いた。同時にこれは天命の自覚であった。「愛人」は「敬天」の対社会の具体化である。(第二巻「西郷と陽明学」参照)
 だから、これを彼の生涯の行蔵に照らし合わせて考えると、「敬天愛人」は彼の天命にたいする自覚の哲学であり、『南洲翁遺訓』は彼の革命家としての理想国家を語り、それを実現するにあたっての革命家のあらねばならぬ心掛と姿勢を語った書である。彼のこの哲学とこの書とは、従来、歴史学者や研究家の最も等閑にしているところであるが、それでは西郷の精髄ともいうべき最も肝心なものを捨てていることになる。維新前と維新後の西郷がまるで人が変って別人になっているなどということを言わなければならないはずである。発狂でもしないかぎり、一人の人間にそんな変化がおころうはずはないではないか。

 彼を同時代の志士等は皆革命家であったが、その抱いている革命の目的は、その全部が倒幕によって日本を天皇の国として建て直し、日本を欧米列強に劣らない国力を持つ国にしたいというにあり、これが終着点であったが、ひとり彼は違うのである。彼の目的はここを中間駅としてさらに遠大で、高邁なところを目ざしている。日本を道義国家たらしめて、為政者は清廉高潔、民の疾苦に常に心をおき、民は圧制なき政治の下において豊かで幸福であり、外国との交際は最も道義的である国としようというにあった。これは『南洲翁遺訓』を精読すれば、はっきりとわかる。
 同じく維新のために働いても、その目的はこのように違うのである。つまり、そのはじめから次元が違うのである。なおいえば、厳格には他の人々は単なる改革者であり、彼ひとりが革命家だったのであり、後の民権運動家等に彼を追慕する者が多い所以でもある。このことをわかるためには、西郷の民の実生活の苦悩に対する強いいきどおりと深い愛情を知ることが肝要だと思われるので、ぼくは煩をかえりみず、これをくわしく書いているのである。彼ほど民の生活を身近かに見て、その苦悩に同情し、圧制にいきどおっている者はないのである。


 革命というものは、いつの時代、どこの国でも、最も高く純粋な理想家によってはじめられ、指導されるが、やがて低次の実務家によって因習と現実とに妥協した線で定着させられるものである。レーニンによって理想的な共産主義国家を志向して出発したものが、スターリンによってあんな形になり、その後継者等によって今日のロシアのようになったのはその例である。現代のロシアほど共産主義なるものに幻滅を感じさせるものはない。現代のロシアはレーニンの志向した国家ではない。帝政ロシアに逆戻りした帝国主義国家である。共産主義国家と称し、その形はしているが、うちに向かっては民を抑圧し、外にむかっては飽くなき領土欲を発現しているところはロマノフ王朝国家と全然同じである。レーニンの志向し計画していた理想国家とは似もつかないものになっている。毛沢東は理想家であり、したがって永久革命家であったが、劉少奇や周恩来は実務家である。だから、毛沢東の生きている間は現実と妥協しながらも、理想から離れず、紅衛兵などという戦術で、ややもすれば現実と低次な妥協をしがちな革命を是正しつつ理想に向かって進もうとしていたが、将来はどうなるか、恐らく現実路線に密着すること益々深く、毛沢東の志向したところとは益々遠くなるのではないかと思われる。


 維新革命のあらごなしのおわったのは明治四年の廃藩置県であるが、明治六年の秋には朝鮮問題が政府の大問題となり、西郷は岩倉、大久保を中心とするかつての革命の同志と対立した。これを征韓論論争と通称しているが、この論争は単に舞台であったに過ぎず、本質は最初からの革命の目的の相違が、この時あの形ではじまったのである。大久保も、木戸も、その革命の目的は日本の独立を確保し、確立を強めるために日本を列強並みにすることにあった。民の苦しみなどは当面の心にはなかった。岩倉には、以上のことに皇室の権威を強め、皇室の財力を増大する目的が加わっていたに過ぎない。西郷の志向している国家は、彼らの志向する目的のためには迂遠なものと思われた。西郷が維新第一の功臣で、最も威望ある存在だったので、術策の限りを尽くして、あの形で中央政府から追放し、維新政治は大久保によって、フランス式内務省をつくって、日本を警察国家として、統制しやすい組織の国にすることになり(統制主義は大久保の最も好きな方式で、統制主義者島津久光の下で鍛錬を重ねて来ている)、大久保の死後はその後継者等によって、彼の敷いた軌道を走りつがれ、昭和大敗戦までつづいたという次第である。
 以上が、半世紀にわたって思索と研究とを重ねた末、ぼくの到達した西郷観の概略である。歴史の進行によって、史実と照合しながら、実証しつつ語り進んで行くのが、この伝記の目的であるが、今年は西郷の百年祭にあたって、ぼくの西郷観を手短に知りたいという読者の要望も多かろうと思うので、一先ず概略をここに書いた。くわしくは、巻を追うて説き進むであろう。

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 上から猫モミモミ、下は全身マッサージ機、始末に困る人だ。

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西郷隆盛 第四巻 / 海音寺潮五郎

2016-03-25 21:55:02 | 大和のひと/明治・幕末
西郷隆盛 第四巻
クリエーター情報なし
朝日新聞社

海音寺潮五郎さんの西郷隆盛史伝の第四巻は、単行本の帯によれば、<テロと弾劾・血風の季節-ー攘夷の勅を受け、開国を胸中に苦悩する幕閣首脳。島津久光、山内容堂らの公武合体工作。尊王攘夷志士たちの横行。世は騒然として文久二年から三年へ。。。>となる。

この頃のことを、安藤英男著「西郷隆盛」から何年かの間を数行ずつの駆け足したことがあった。「薩国貴重の大宝」
江戸で京で、権力の表と裏で、今に名を残す人たちが動き回っていたころ、西郷はといえばこの頃文久二年(1862)から元治元年(1864)までの1年半は絶海の孤島に遠ざけられ、時代の表舞台からは全く姿を消している。かたや大久保は島津久光の懐刀にまでなって、影で縦横無尽の働きぶりなのに。西郷は、この巻でも姿も見せない。
さても、尊王攘夷、公武合体、開国佐幕、、、志士浪士テロリストや若き公家さんまで、アジテータたちも喧しすぎて、これはいったいなんだろうなあ、と少しかじったこともあったなあ、「What’s 尊王攘夷?」。今回は少し深めて、一人醒めてこの時代の混沌とこの国の行く末を見通し、彼の策を西郷がやったらこわいと勝に言わしめた横井小楠のことばを、そっと聞いてみよう。

西郷は絶海の孤島でも、その人徳で監視の役人まで感服させどうにかして激動する世間の情報は得ていたようだ。いかんせん全くの蚊帳の外、イカ釣りのツノなど作って無聊を慰めていたかもしれぬ。鉄砲撃ちのほか釣りも好きだった西郷は、そういうことも玄人はだしだったのだ。このところ、市販の仕掛けで下手なカレイ釣り、万年初心者たる凡人のり坊にとって、これまた及ぶところではない人物である。

 

<<< (以下は、「西郷隆盛 第四巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社 昭和51年11月30日」からの引用 )

<西郷隆盛 第四巻 目次>

久光の京都帰着と意見具申そして帰国
土佐の進出と武市半平太の苦心
テロと弾劾はじまる
血風の季節
横井小楠の改革意見
会津藩主松平容保京都守護職となる
山内容堂と土佐勤王党
攘夷催促の勅使差遺
幕府の諸改革
江戸における開国鎖国の議論と長州藩の運動
勅使待遇問題と春獄の辞職願提出
一橋慶喜という人
薩摩の反対運動
江戸における長州藩の運動と高杉晋作等の攘夷実行計画
高崎猪太郎を通じての久光の意見具申
慶喜再度の辞職願と安政年度の追罰
島津久光の京都守護職任命問題
勅使の入城
春獄と久光・再び久光の守護職問題
勅書奉答と将軍の忠順
公使館焼打ち
横井小楠の奇禍・新徴組結成
薩藩の反急進運動
江戸における大久保の運動
大久保の運動の蹉跌
会津容保の京都赴任
一橋慶喜の上京
山内容堂と松平春嶽の上京
両儀奏の辞職・翠紅館の大会・青蓮院宮の還俗
山内容堂と松平容保

 

<<<< (第四巻 あとがき)より

。。。

 私は作家になって以来、歴史時代に取材した小説や史伝を書きつづけていますので、日本歴史については相当知っているつもりでありましたが、この第三巻、第四巻を書いてみて、これまで知っていると思っていたのはうぬぼれにすぎなかったことがわかりました。
 幕末・維新史を複雑にしている要素に薩・長の主導権争い、反目・相互憎悪があることは、今までも知っていましたし、西郷の研究にはこれらの究明は最も必要であるという見当もつけていました。しかし、こんなに激烈・執拗であったろうとは、思いもかけないことでした。少々思い切った言い方をしますなら、幕末・維新史を成立させているのは薩・長の競争・反目・憎悪であると言い切ってよいほどです。これが軸になって、さまざまな事件と事象を生んで、歴史は複雑な上にも複雑になって行ったのです。ですから、もしこれがなかったなら、幕末・維新史はまことに貧しいものになったでしょう。多分、単なる外交問題として片づいて、革命にはならず、革命はずっと後年に持ちこされたでしょうし、あるいはその間に日本は一時欧米列強に分割された時期があったかも知れません。
 まことに、歴史を書くことは、歴史を発見することであると、しみじみとわかりました。 

 この巻には、西郷は全然姿をあらわしません。西郷は文久二年四月十一日に大坂から海路国許に送り返され、六月から徳之島に送られ、さらに閏八月に沖永良部島に移され、幽囚の生活にうつり、文久三年中はそのまま、翌元治元年二月末に鹿児島に召還され、三月半ばに京都に上って来るのですから、この期間は風雲の外の人です。姿をあらわすはずはありません。
 しかし、この巻をお読みいただければ、おわかり願えると信じていますが、西郷という人物を理解するには、彼の不在中の中央の出来事を知ることが多いに必要なのです。この時期の日本の歴史についての相当くわしい理解がない以上、やがて中央に復帰してからの西郷はわからないはずです。これまでの西郷伝の全部はこれを等閑にしているので、真の西郷の伝記にはなっていないと私には思われます。ましてや、この書は西郷の伝記であると共に、幕末・維新史でもあるようにとの目的をもって書いているのですから、一層のことです。性急・端的に西郷を知ろうとなさらず、じっくりとお読みいただきたく存じます。

。。。。

<<< (横井小楠の改革意見)より

 ここで、大原勅使と島津久光とが立去った後の幕府のことを簡単に語りたい。
 生麦事件が幕府を最も困惑させたことは言うまでもないが、それはずっと後に薩英戦争を叙する際に書くことにして、ここでは幕府の政治向きがどう変化したのかについて述べたい。
 幕府はずいぶん経緯はあったものの、結局は大原勅使のもたらした勅諚を謹承して、一橋慶喜を将軍後見に、越前春嶽を政事総裁に登用したのだが、言うまでもなく、朝廷としてはこうして幕府の政治組織を改新することによって、日本の国難を救い、日本を安泰鞏固ならしめる清新な政治を行わせるためであった。

 ところが、この最後の目的に達する方法についての考えが、実はあいまいを極めていた。あいまいどころか、朝廷側でも、幕府側でも、矛盾と撞着に満ちていた。もちろん、朝廷側は攘夷主義、幕府側は開国主義であったわけであるが、実はこれは極めて大雑把な言い方で、内実に立入って精密に調べると、幕府側にも攘夷派があり、朝廷側にも開国派があった。
 幕府の役人は老中以下ほとんど全部が開国派であったが、中には相当な高官でありながら欧米ぎらいで、従って心情的攘夷派がいたはずである。公家に開国派がいたことは意外と言えるが、三奸とか四奸とか言われた人々ーー中にも岩倉などは内心は開国派であったに相違ない。また朝廷の武力的後援者であった島津久光はあきらかに開国派であった。ただ天皇が最も熱烈堅固な欧米嫌いで、従って攘夷であられたために、この人々は正直に自分の心を表明しなかったまでのことである。
 こうなってみると、公武合体とは一体なんだったのであろう。当時の日本にとって最も必要なことは対外方針の確立である。これがどちらかに確定してこそ挙国一致体制にもなれ、国力も増強され、国難解決の可能性も出来てくる。とすれば、何よりも先に外交方針の一定確立をはかるべきであった。「国是を確定する」ということばが、朝廷方面からも、幕府方面からもしきりに言われているが、この国是とはつまり外交方針のことなのである。

 それならば、開国・鎖国、あるいは和親・攘夷の善悪、利害、可能か不可能かについての詮議や論争がもっと活溌に行われるべきであったのに、それにはほとんど触れることなく、公武御一和とか、朝幕融和などという綺麗ごとばかりを言い立てていたのだから、愚劣をきわめている。
 しかし、思うにこれは天皇が最も重症の欧米アレルギーでおわしたので、鎖国攘夷派は最も活溌無遠慮に主張出来たが、開国論を説くことははばからねばならない空気が時代の風の吹きまわしによって急速に醸成されたためであろう。はじめあれほど堂々活溌に開国論を説いて、朝幕を感動させ、一般にもまた人気のあった長井雅楽が急坂を駆け下るように評判が悪くなり、失脚したばかりか、この翌年の二月には腹まで切らされるのだから、こう解釈するよりほかはない。

 孝明天皇の欧米嫌いによる鎖国主義は、世界史の進行に合流しようとする日本の歴史の流れをせきとめようとするものであり、日本に不幸と災厄とをもたらすものであったのだから、明らかに誤った、よくないものだったのであるが、これを是正し奉ろうとしたのは長井雅楽唯一人で、他には一人もいないことを思うと、日本人の忠誠とは一体なんであろうかとの疑問が湧いて来ないではない。孟子は男子の道と婦人の道とをわけて、主君の欲するところ、為すところに従って、一毫も違わじとつとめるのは婦人の夫につかえる道であり、道義を標準にして主君を規正するのが、男子の主君につかえる道であると説明しているから、日本人の忠は孟子に言わせれば婦人の道ということになる。
 孝明天皇が欧米人にたいして最も強烈な嫌悪感を持たれるようになったについては、もちろん理由があろう。根本的には西洋列強の東洋諸国にたいする暴悪な侵略行為であろう。これによって印度は国亡んで英国の領土となり、中国は最も悪逆な阿片戦争をしかけられて香港を奪われた。当時の日本は鎖国はしていたが、世界の出来事を知る便宜が全然なかったわけではない。志ある人は長崎を通じて知ることが出来た。それらのことについて書いた中国人の著書もいくらかは入って来た。漢文を読むことは、その頃の日本の知識人にとっては最も容易なことだった。当然、日本人は欧米人にたいして嫌悪と恐怖を感じた。それはごく少数の蘭学者とその蘭学者を通じて欧米の国力の強大さや文明の進歩を知っている者を除いた日本人全部であったはずである。当然、天皇もその一人でおわした。だから、その頃の天皇の欧米人嫌いは世間普通のもので、それほど強烈であったとは思われない。それが特別なものになったのは、一説によると、宮廷つきの絵師が描いてお目にかけた欧米人の風貌が妖怪じみた醜悪なものであったからであるという。さらにその上に、次ぎつぎに発生する外国関係の事件にたいする幕府の処置が最も拙劣であるためにそれらは全部国辱として感ぜられ、益々天皇の嫌悪感情が研ぎみがかれ、ついに一種のアレルギー感覚とまでなってしまったと思われるのである。

 天皇は日本全体の運命と民の幸福とを絶えず考えつづけ、そのためには攘夷が最上の策であると信じきっておられたのであるから、そのはじめにおいて、その目的のためには鎖国や攘夷は何の役にも立たず、かえって害悪をなすものであることをよくよく説明申し上ぐべきであったのに、第一の責任者である幕府は全然反対のことしかしなかった。井伊直弼は叡慮をふみにじってハリスとの調印を手はじめに各国と調印したのだから、当然、鎖国孤立は人間世界の自然の道でないばかりでなく、国をひらいて万国と交際する以外には日本の存続する道はないことを、十分に天皇に御説明申し上げ、天皇が御納得の行くまで努力を続けるべきであったのに、何とも説明の出来かねる奇怪至極なことをした。老中間部詮勝を上洛させて、最も暴力的な大検挙を敢行して、上は皇族・摂関家から、中は公家・大名、下は一般庶民に至るまでを処罰すると同時に、天皇にたいしては間部をして、
「七、八年から十年の間には、必ず攘夷をいたしまして、叡慮に添い奉るでありましょう」
と奏上させたのである。
 この支離滅裂な井伊のやり方が天皇に欧米嫌いを是認させ、幕府の約束がなかなかその通りに行きそうもないことによってそれを鋭くさせたと言ってよい。さらに堂上や一般志士等が叡慮は攘夷にあると知ってこれに追随したことによって、天皇は益々自分の欧米嫌いと攘夷主義とが輿論に合致する正当なものと信じるようになられたのである。

 せんじつめれば、一橋慶喜が将軍後見に就任することを渋ったのも、越前春嶽が政事総裁就任を渋ったのも、ここにあった。即ち、叡慮は攘夷にこりかたまっているのに、日本の立ちゆく道は開国以外にはないと、二人には信ぜられていたからである。要するに、天皇も公家等も、二人の抱いている外交方針についてはまるで知らず、井伊の暴悪政治の頃以来の、二人にたいする世の人望だけを買って、幕府に新しい職制を設けさせまでして、いわば無理やりに二人をその椅子につかせたのであった。
 二人の困惑は言うまでもない。二人とも信念を曲げる心はない。しかし、曲げて攘夷策をとらなければ天皇のお気に召すはずはないのである。春嶽は慶喜にくらべれば数等純情な人柄なので、慶喜が就任を承諾した後も、なお就任を渋ったことはあの節のべた。
 その春嶽が就任を承諾したのは、彼の賓師横井小楠が江戸に到着し、就任をすすめたからであった。だから、春嶽の政治意見はすべて小楠から出た。
 春嶽だけでなく、およそ小楠に会ってその説を聞く者は、幕府の高級官僚といわず、老中といわず、みな小楠に傾倒した。ついには一橋慶喜もとりこになった。明治になって、勝海舟が『氷川清話』で、小楠を賞賛して、自分が一生のうち最も感心した人物が二人ある、智謀・見識においては横井小楠、人物の雄偉卓抜においては西郷、この二人であると言っているが、横糸の彼の交際はこの頃が一番ひんぱんであったと思われる。勝の生涯の親友である大久保忠寛(後の一翁)はこの頃お側御用取次で、幕府の高級官僚としては最も早く横井に会い、横井の人物を高く買っているから、大久保の紹介で横井に会ったのであろう。後年坂本龍馬は横井を熊本に訪れて貴重な啓発を受けているが、坂本のこの訪問は勝から横井のすぐれた人物であることを聞いていたためであろう。坂本は横井の紹介によって越前藩中の横井の弟子三岡石五郎(後の由利公正)と知合いになり、坂本が生前三岡の経済上の見識について、西郷や大久保一蔵に語っていたことが機縁になって、三岡は維新初年(慶応の末年から明治のごく初期にかけて)の太政官の財務を担当することになるのである。歴史における人脈はどこでどう連絡してどういう働きを見せるか、ほとんど見当はつかないものである。

 さて、こんな横井だったので、当時の幕府の政治は横井の意見によって行われた。少なくとも行われようとした。
 当時の横井の意見は、この頃の八月二十七日(横井は七月六日江戸に到着しているから、五十一日目だ)の朝、彼が外国奉行からこの頃大目付になった岡部駿河守長常の屋敷へ招待されていった時の岡部との会談に最もよくあらわれている。『再夢紀事』にその要領が出ているから、左に訳載する。 

 岡部はまず現在の天下の形勢をどう思われるかとたずねた。
「実に危いことになっていると思います」
「くわしくうけたまわりとうござる」

「近年来、幕府にはいろいろと御失策がありましたので、人心はさらに服していません。当春来、九州地方などは已に騒乱の様相を呈しましたが <清河八郎が来て、青蓮院宮の令旨が下る手筈になっていると言って、九州諸藩の有志者らを扇動糾合しようとしたあのことを言っているのである> 、薩・長等の一件もありましたため <薩摩藩と長州藩とが政治周旋に乗り出して朝幕の間に運動したことを言う。>、幕府でも御反省になって、一橋公と越前老公とを御登用なさって、世の望みに添いなされましたので、いささか世間も鎮静の姿となりました。しかし、決して真に治まったのではなく、しばらく形勢を観望しているというに過ぎませんから、お悔い改めの御政績が次々にあらわれなくては、またまた動乱に及ぶことはわかり切っています。
 今の世は一度乱世になってしまえば、もう決して取返しはつかず、恐れ多い申し条ながら、徳川家は御滅亡ということになると存じます。
 歴史によって、和漢古今の洗礼をしらべますと、乱世であっても、創業の君には必ずそれぞれの人材に恵まれます上に、それを思い切って挙用することも出来ますので、次第に強勢になるのですが、衰頽の世では太平の弊習で門閥だけを重んじますので、人材も出にくく、たとえ出て来ても格式を破っての挙用が出来ませんから、萎痺して振るわないのは当然のことで、たとえば様々な罪責一身に負うている人間に似ていますから、自然滅亡する道理です。

 ひと度乱れたものを中興するということは、なかなか出来ないものです。後漢の始祖光武皇帝は劉氏の血統を受けているというだけで、数世民間にあって起り立ったのですから、本質は中興にあらずして創業です。唐の玄宗も一度天下を失って後は、自分の手では取返すことは出来ず、子の粛宗によって恢復しましたが、もはや祖宗の盛んな時代にはかえすことは出来ませんでした。その他、治世から乱世になりますと、その時代の君主が取り戻した先例はないのですから、今の世とて一度乱世になりますれば、もはや御挽回なさることはほぼ不可能でございますから、今世の中が治まっている間に気をおつけになって、天下の人心に応ずるように御政道をなされば、またまた太平をお保ちなさることも出来ましょう。しかし、それとてもやはり創業のおつもりで非常果断の御処置をなさらなければ、なかなかおぼつかないことと存じます」

「しからば、いかにすれば現在のところで挽回することが出来ましょうか」
「幕府のお心得としては、小成に安じなさってはならないことです。つまり、然るべき御処置を施されて静謐になりました場合、それで太平になったとお考えになってはならないのであります。そんなことでは、御回復の時はありません。危乱が迫っていることを心からおわかりになって、古い考えを捨てて、至誠によって真治をお求めになろうとのお心が起りますれば、それが即ち興復の基になります。現在の世が危乱であるとのお説をお聞きなされて、挽回の計をお求めになろうとなさるお心が、即ち安閑としていることの出来ない誠意でありますから、その誠意を推しひろめて、広く治術をおさがしになることが挽回の道であります。今の世は幕府の力だけをもって御回復なさることは出来ません。天下の力を以て御挽回なさるよりほかはないのであります」

「天下の人心を治めて一致させることは、どうしたら出来ましょうか」
「何よりも、将軍家御上洛が、なさるべきことの第一であります」
「御上洛はとてもお出来にはなられないとの由で、御老中から種々難儀故障を申し出ておられます」
「それは出来ねばせぬという立場からの御計算でありましょう。寛永年間に三代将軍様のなされたような華やかなご上洛や、中国の皇帝の封禅・巡狩のたぐいのようなことは、太平の余光でいたされるべきことでありますから、唯今のような時代に用うべきことではございません。現在のご上洛は、神祖(家康)が一年のうちに両度も御往来あった場合程度のお手軽簡易ななされ方でなくてはなりません。現在の諸大名には風呂桶までもたせて旅行するような栄輝の流弊がありますから、上様が簡易お手軽な旅をして一般に示されることは、お身をもってこのような栄輝をお正しになる一端にもなることです。このように十分にご軽便にあらせられることはもちろんのことですが、時節がら御警衛のためにお旗本の若殿原を二、三千も召連れられることは必要でありましょう。道中筋の道路のお手入れも、御老中の御旅行の際くらいの道普請でよいでしょう。以上申しましたようなお心持ちでお取調べになり、お取調べが出来れば、いつ何時でも御出立がお出来になると御決定になりますれば、天下の人心もはじめて信服して、幕府から仰せ出されたことにはウソはないと信ずるようになりましょう。
 また、そのご上洛の期限のことは、京都へお伺いなさらねばならないことですから、京都からのお指図次第ということになれば、一年ぐらい延びても少しもかまわぬことです。朝廷にたいする近年の御不都合のことのお詫び、御降嫁のおん礼言上、さらに御親睦のためのご上洛ということが、すぐにでもお出来になるということになれば、それで天下は落ちつきます。必ずしも今すぐにでなくてはならないということはありません。
 でありますのに、一番に支障の出ることのわかっている経済方面からお取調べになるようでは、出来ぬことにしたいというなされ方で、なさらなければならないという精神は二の次になっています。それでは、かねて仰せ出されている幕府の御精神も相立ち難く、天下の服せぬは当然であります」

「仰せられること、いかにも敬服いたしました。その次になすべきことは何でしょう」
「諸大名の窮乏を救い、その妻子をそれぞれの国許へ帰し、海軍を興し給うことです。そうすれば、日本は兵力が強くなります」
「諸大名の参観を弛めることについては、これまでも評議のあったことですが、くわしくは理由がわかりません。弛めたあとはどんな調子になるのでしょうか」
「参観をやめてしまいますれば、再び諸大名が参観することはむずかしくなりますから、述職(職務報告)の制度へおかえになって、諸大名は百日ほど在府して、日に登城して国政向きのことなどを談ずるようになさるなら、幕府の御方針も徹底するでありましょう。これについては、大名達の妻室等も国住いをお許しになり、また諸大名が御命令によってつとめています海岸地帯の警備の役などは解免なさるがよろしゅうございます」

 すべてこれらのことは、諸大名の出費路を塞いで、経済にゆとりをつけ、それによって諸大名の軍備を充実させるに目的がある。
「海軍はなかなか費用のかかるもので、幕府の力では償いがたいと存ずる」
「これは幕府の御独力では出来られるものではありません。諸大名と合体して興さるべきことです。今の世は、海軍がなくては、絶海の孤島の日本ですから、歩兵だけをもっては護ることは出来ません。ですから、海軍は必ず必要なものです。武士も船に乗りますれば心細くなりますから、改めて覚悟しなければならず、自然志をふるい起こすことになり、また外国に往来することによって見聞がひろまりまして、これほど兵を強化するに役立つものはありません」

 ここまでのところには、開国主義的なものは全然出て来ない。参勤交代の制度を廃し、諸大名の妻の江戸住いをやめることによって、諸大名の英の出費を塞ぎ、その経済にゆとりをつけて、それぞれに軍備を充実させ、幕府とともに海軍力を奮い立てるという点などは、攘夷主義かと思われるほどである。しかし、この先がちがう。
 岡部はさらに問う。
「交易の道はどうでしょう」
「これも諸大名と合同して外国へ渡海し交易なさるようになされば、公平にその道が開けるでしょう。幕府が独占しようとしては行われ難いわけです。すべて金・銀・銅・鉄などについても幕府の独占を廃し、座株を廃止し、自由に発掘することを許せば、諸大名もそれぞれ力を尽くして発掘して、海軍の設備などについても費用不足ということはなくなるでありましょう」
<幕府は開国しても、その開港場はすべて幕府領内にあって、諸侯の領地には一カ所もなかった。したがって貿易の利は幕府の独占という建前になっていた。これでは、諸大名が開国策を積極的に支持しないはずであった。攘夷論の暴風的盛行の原因には、多少なりこれがあったかもしれない。>

 岡部駿河守は、この朝の問答によって、よほど横井に感心して、この日登城するとすぐ御用部屋に出頭して、月番老中の水野和泉守(忠精)と板倉周防守(勝静)とに、問答の次第を披露したところ、両老中も感心して、一橋慶喜に告げた。すると、急転直下に、横井を直参に召し抱えたいということにまでなった。幕府の中枢部がいかに横井にほれこんだかがわかる。同時にこれは彼らが窮し切って、人物の出現をいかに待っていたかを語るものであろう。この間のいきさつは、この日付で、慶喜が春嶽に出した手紙でわかる。こうある。

 今朝、駿州(岡部長常)が横井平四郎に面会して、いろいろ話を聞きましたところ、その申すところなかなか立派で、深く感心したとのことで、御用部屋にてこれを披露しますと、和泉も、周防も、いずれも感心しました由。
 両人、拙者の前に来て、以上のことを申しましたが、その時、周防(板倉老中)が申しますには、右平四郎を公儀の直参に召出されて、御改革の御相談を遊ばせられれますなら、実に天下のおんため、この上もありませんと、強く申します。そこで、越中(大久保忠寛、この時お側御用取次の職にあった)と駿河(岡部)へこのことを申しましたところ、両人ともに大喜びの様子でありました。
 越中の喜びは特に大きく、お召出しになるお役名はどうすべきや、また禄高などはどの程度にすべきやなどと申します。そこで評議におよびましたところ、名目は奧詰に仰せつけられ、上様の御前へも罷り出ることが出来、もちろん、御用部屋へは時々まかり出ることができるようにきめました。言うまでもなく、先規先例に拘束されないという精神で、大体のところを決定したわけですが、貴殿のご意見はどうでしょうか。お尋ねいたします。

 以後、横井は直接板倉老中にも会い、いずれもその見識の高さと策の確実さとによって感心され、ますます直参に召出したいとの思いを募らさせたが、これについては横井は謝絶しつづけた。人情の機微に通じ切っている横井には、そうなってはかえって自らの志の行われないことを知っていたのである。我々は長井雅楽、長野主膳の没落を見て来たが、長井の没落の原因には松下村塾の旧門下生等との思想的対立におとりなく、彼が功績を賞されて中老の資格をあたえられ、また先祖の代に減らされた知行百五十石を回復したことがあった。また長野の没落はお手盛りで百石増俸したことが原因の一つになっている。こういう点では武士は女より嫉妬深く、感情的である。最も賢明でもあれば、心術も清らかな横井には、それがよくわかっていたのである。

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  かなわぬ、ことばかり。。。
 
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