Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

遥かなる未踏峰 ー ジェフリー・アーチャー

2013-05-29 00:50:56 | 音楽・芸術・文学
遥かなる未踏峰〈上〉 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 三浦雄一郎氏、エベレストから下山、カトマンズの空港で「酸素が濃いな・・・」。7年前に記録しておいた「三浦ファミリー!」、このあと75歳でまた登り、今また80歳で、「いくつになっても夢をあきらめない.その基本として健康、体力、気力を持てるということが必要」「よせばいいのに合計1時間ぐらい(酸素)マスクを取った。逆に疲れた。別のゾーン(次元)の空気だった」(毎日新聞2013.5.27より)、たいした怪物ですなあ。

エベレスト、チョモランマというべきなのだろう。ちょうど、ジェフリー・アーチャーの「遥かなる未踏峰」(Paths of Glory) を読んでいたところであった。文庫本の後書きから引用させてもらえば、— エヴェレストに挑み「なぜ登るのか?」と訊ねられ「そこに山があるからだ」と答えた悲劇の登山家ジョージ・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory 。彼は山頂にたどり着くことができたのか?いまでも多くの謎に包まれている彼の最期・・・—

名前だけどこかでうろ覚えの人であったが、「そこに山があるからだ」はマロリーの言葉。この人物に、ぼくのお気に入りの作家ジェフリー・アーチャー氏が迫ってくれたすばらしい小説だ。アーチャーさんの産物はCat-O'Nine-Talesもメモし、その後ゴッホの謎解きも面白かったが最近とんと御無沙汰していた。ところが出版社の言う所で、壮大なるサーガとか、「時のみぞ知る」Only Time Will Tell がいよいよ開幕だという。本国ではすでにこの「クリフトン年代記」第3部迄出たがこちらでは最近戸田裕之さんの翻訳で出たばかり。面白すぎてあっという間に読んでしまった。昔のリッチマン・プアマンを凌ぐドラマも作れそうな感じ。第2部以降は邦訳はすぐ出そうにないので道草喰っていたのが2年前出た、この本。

アーチャーさんが、新田次郎みたいな山と山男/山女の話を書くのかなあと思ったら大違い、人物のものがたりであった。マロリーはこれでまたまた21世紀に生き返ったすばらしい史伝、だけど、物語の最後には、やはりまた亡くなってしまった、残念。1924年6月、37歳の短い一生であった。日本では大正13年、オヤジや五十人町のおじいちゃんの生まれたころ。頂上まで600フィート(約182M)の「セカンドステップ」に立つマロリーとアーヴィンの姿が27300フィート(8321M)の第6キャンプのオデールの眼に入った。がまもなく霧のなかに消えた・・・75年経った1999年5月、マロリーの遺体が見つかる・・・マロリーは、いまエベレスト8164メートル地点に眠る。

孤独なむさくるしい蜘蛛男のような山男かというと、さに非ず、ケンブリッジを出た明るいインテリだったようだ。お友達の一人には「ビクトリア女王」の伝記作家リットン・ストレイチー、教師をした時代の教え子に、I,Claudius / Claudius the GOD「この私、クラウディウス」のロバート・グレイブズ。ジョージ・マロリー、第5キャンプでもイーリアスの翻訳をつづけ、ジョイスのユリシーズを読んでいた人だ。無事に下山出来ていればどれほどの仕事と作品を残したことか・・・ジェフリー・アーチャーが描いたものはジョンブル魂、よき家庭人、イギリス人の理想とするもの、と解説で三橋曉氏は書いている。最愛の妻ルースにあてた膨大な手紙の最後は頂上アタックの第6キャンプに残されていた。栄光への途のみ目指したのではない人の、命がけのラブストーリーであろう。

1953年のきょう5月29日はヒラリー卿がテンジンとともにエベレスト登頂に成功した日のようだ。偶然知ったことで、これはそのうち忘れるだろう・・・

*****

NHKBSプレミアム「ザ・プロファイラー」—エベレスト人類初挑戦伝説の登山家マロリー(2014.3.5)を観た。第3次遠征隊の第6キャンプとマロリー最後の笑顔の動画像その他の写真が観られたのが収穫だったが、どうも違うなあ、という感じ。酸素ボンベも使うこと自体が邪道と言われた時代だったのだろうし・・・それよりも、肌身離さず持っていたルースの写真は、遺体からは見つからなかった、だから・・・アーチャーの作家としての嗅覚。これをボクも信じて、登頂成功後の下山中でのザイルパートナー滑落が命取りになったと、思いたい。まあいいか、今日の番組の視点はその部分ではないから・・・(2014.3.5追記)

遥かなる未踏峰〈下〉 (新潮文庫) 新潮社

 

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花画像屏風篇その2

2013-05-25 22:30:00 | なんでもあり・ファミリー

上の方の画像の日付は5月の連休あたりの頃だからもう半月以上前。花の季節はめぐってきたが・・・母の日になればあ~などと歌っていたら「おばあちゃん」の四十九日だったり、母の命日思い出したり、ことしは花盛りの気分ではなかったな。庭のハ~ナミズキもほったらかしで薄紅色つけず・・・まあ、そうはいってもいろいろあざやか。画像屏風篇その2としてとっておこう。
ロクに手入れもしてない木に咲く花ばかり 。黒竹クンもとってやるべきだったが、タケノコ生やしすぎるよ、柔らかいとこだけ味噌汁に入ってたぜ・・・

  春は梅から。おばあちゃんの八重さくら、今年はこれだったのに・・・

   赤い椿白い椿と落ちにけり、いざぎよく

  はなかいどう、はなずおう。カイドウは見直した。

  りんごの花、ハナミズキは・・・百年続きますようにね

  霧島ツツジ、門柱はアイビーで表札も見えず

  邦坊にもらった山つつじ鮮やか、やえつつじ清楚

 

  やまぶき黄色、どうだんつつじは緑白紅と年に3色だよ

  地面にちいさき花、青、ももいろ、なんかミツパがはびこってるなあ

 

  アザレア、シャクナゲ、すこし遅れて来て、派手だな西洋のは・・・

  紫もくれんは切りすぎた、薔薇のあたりに毛虫の巣!!、殺虫剤も撒かないからなあ、いい虫か悪い虫か見分けもつかず、そもそも善悪とはなんだろ、ともかく「沈黙の春」ではなかったようで・・・

 

 

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図屏風の一日

2013-05-23 22:40:14 | なんでもあり・ファミリー

 
今日何時に来るの?とムスメのメール。バイト10時迄やってるという、まあ着くのはそのころだろから入れるだろう・・・自分で電話もしていないで泊まろうという訳、いいかげんなオヤジだなあ。鷹の台のコンビニでお土産かって、これまたいいかげん。玉川上水沿いの小道を行こうとしたけど、暗くて怖い、ちがう道も忘れたので、これはムサビと目星をつけた若者に聞いたら、ずーと行って右だと、ばちっし。

翌朝は日曜日。とっしょりは起床6時、なによ8時まで寝せてよと階上(ロフトというの?)から声ばかりが降りて来た。外は快晴、昨夜怖くて歩けなかった玉川上水の小道にいってみよう。散歩や、ランニングのかたが、おはよう、などと声をかけてくれるので、にわかハイカーみたいに擦れ違う人に、おはよ~。またまた私鉄の駅まで歩いてしまって7−11ブランドのサンドイッチやら生ハムとかエスプレッソとか、朝食を調達した。おっと朝何をたべて、ダラダラ作文の見本みたいになってきたぞ。もっとも、この土日、ちゃんとした予定は同窓会の15時集合だけ、家を出てから成り行き任せ、さしたる予定もなにも・・・一日を画像屏風?にすれば、こんな・・・

  

あと30分、ムニャムニャ・・・、もう9時近いぜ起きろ。上野の国立西洋美術館でラファエロ展やってるから行く?と、昨夜ムスメは言ったはず、割引券有るよ~。自分は美大生、フリーパスなのだ。そのまえに根津美術館行くけどぉ~、19日までの展覧会。なにっ?美術館のハシゴ?暇なんでしょ?根津ってどこだ?表参道でおりて・・・。おっと、行く行く~、とあいなった。
JR週末パスもってたのでメトロはやめ、原宿からぶらぶらと歩いた。同潤会APってのがあったなあ・・・

  

ずいぶん歩くじゃない、246渡ってすぐそこだよ、やっぱ少し遠かった。あっちに青山1丁目駅あるよ(うちは宮城郡の青山3丁目、お嬢は青山小学校のご卒業!?)、あら青学の縄張りかな?、この辺は南青山3丁目、ご本家は雰囲気すこしちがうかなあ・・・ 


       

根津美術館、 なにやってたかというと、「国宝 燕子花図屏風 <琳派>の競演」尾形光琳、琳派と同時代の作品展がこの日迄。「燕子花図屏風」は純金地に燕子花の群れの大屏風、これの写真を5枚も買ってやったがどうするのか、おう、折りたためばミニ図屏風になるんじゃないか?ここの日本庭園もぜいたくなものだが、美術品のコレクションといい、財を成したときはこういうふうに使いたいものだ・・・庭園を散策すれば、池に花の群れ。花は終わりかけているが、これが燕子花。カルタもいいけど、光琳さん、燕子花の葉っぱの一気の筆遣いなどみごとなものだ。
   

美術館を出て、またぶらぶら。こういうとこは路地に入るのいいんだ、小さな花屋さんがあった。覗けば、奥になにやら面白そうなお店がならび、すてきな老眼鏡があるがなんまんえんとか・・・
   

おっと~、とおりぬけたら開けたスペースに出て西洋屋台らしきところ、たこやきまでがオッサレーな味?もうラファエロ君は今日はいいや誰かと行けや、そうだラファエロはサンタンジェロでガイ骨になって寝てるんだっけ・・・・美術館のハシゴをすると気が散るよ・・・やめとこ。

   

WESTの黒っぽいフルーツケーキと塩クッキー何処で買えるだろ?ムスメ、かんたんに調べる、東京駅おおまるあたりだね。ん?大丸だ。ついてってやるけどあたし6時からはバイトなんだから・・・そうだ、7時からオレも、ふるさとスポーツ祭の人集め集約だったっけ、妙な予定あったのを思い出した・・・

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40年後のクラス会

2013-05-21 01:29:17 | なんでもあり・ファミリー

 「昭和47年3月卒業以来40年余、そろそろ現役引退の年頃となり・・・」というクラス幹事の須佐さんからお手紙、この人にはお世話になったからなあ。一球会/高校バレー部OB会も定期戦の日だから重なってしまったが、何十年振りかのほうには調布まで是非行かねばならぬ。

同窓会とは、おやじも卒業した旧逓信省の官練の伝統を受け継いだ電電公社にあった大学のクラス会。評論家草柳大蔵さんが文藝春秋連載の「企業王国論」で、電電を大卒地獄/高卒天国と表現した昭和3、40年代頃、その後30万人までふくれあがった公社でも本社採用学卒は300人程度の時代、ミドル養成の一般教育機関も必要だった。いうなれば電電兵学校、この「大学部」は僕等の頃で、業務系100名、技術系240名、在職年数最低2年で入学出来たから学生の平均年齢は23、4歳。社会人だから一般の大学とは違ったものの給料貰いながら全寮制で勉強と部活やっていればいいわけで、入試倍率は25倍。ボクは受験のプロみたいな高校にいたお陰で、一夜漬け対策はお手のもの、過去問調べヤマを全部当て天国のオヤジも後押ししてくれたのか自分では(?)満点の出来。二次試験のあった日曜日、この日も夜勤だったが電話局に向かう途中、うわ~これで学校に行ける、4月には東京に行くんだと思った瞬間、晩秋の夕暮れの仙台青葉通がとつぜん昼間の様なあかるさになり街の灯りが痛い位に眼に飛び込んで来た。こんな不思議な体験はこの時ばかりだ。

    一階いちばん手前が1年時の教室だったな

 

あれから、もう40数年、第5回生合同のクラス会、平成25年5月18日(土)、この日の参加者全国から85名、恩師4名。新設なった寮の食堂はホテル並みではないか。ついこのあいだ桜満開の並木道をくぐって入学したのに、実人生で一仕事終えてみれば、もはや物故者/消息不明が各クラスで7、8名ぐらいもいる。現役のまま亡くなった方も多い。リストを見れば、当時の顔と声までありありと浮かぶ。彼等への黙祷から会は始まった。此処にあの人たちも是非居てほしかった、特に佐藤英昭さん・・・

 今回幹事の須佐さんは、シルバーっぽいブレザー。卒業した年、本社で勉強し直してこいと言われ、須佐さんのアパートに半年居候したっけ。寅さんの口上をずいぶん聞かされた記憶あり、彼の最近の住所は柴又。さて、いまや天台宗福寿寺の矢橋住職はネクタイ姿で!

 

 オウオウ、ハテ誰だっけ、企業内大学だから仕事で直接関係した面々もいるが、何十年振りもまた多いからお互いなつかしい顔と顔。同じ経験、おなじ釜の飯を食った連中、構える部分は全く要らない。その後の仕事の歳月など本当にあっという間であった。殆どの人65を過ぎてリタイアしてしまったようだ。いまだにフルタイムやってるのは、ちゃんと勉強してその後もひたむきで今は経営陣にいるかたと、はたまたボクみたいなハンモックナンバー200番台の年金年齢未到達の窓ぎわ組。

此処でも、バレー部に入っていた。9人制から6人制に変ったころだが、放課後きっちり練習してるのだから調布近辺の実業団の大会ではよく優勝した。ボクはきまぐれで練習をサボるのでキャプテンもさせられた。バレー部長、まじめだったUさんは今いない、ずいぶん前に自ら命を絶たれた。元気でこんなことが出来ることが、みな、今うれしい。
  バレー部のエース山口・田辺とレシーバ3人! バレーのインターハイにも出た田辺の家の裏山はスキー場の様な感じ、彼は長野五輪のサポートもこなした。山口とは博多の駅でばったり会ったとき奴はバリバリのキャリアウーマンを連れている、このヤロ。加納は松山に家を持ったが東京単身が延べ十数年だったとか、いまカミさん孝行中・・・まん中の佐々木さんはやさしいお兄さんだった、今、先生やってるとか。

 

ボクのいた「武蔵野」寮は20歳で入った最年少組が多く、東京に来てみりゃ面白いことばかり、ボクの部屋はひと月も経たないうちに雀荘と化し休みには新宿やらをうろつき、ブール代数や回路網、電磁気学、経済原論どころの話でなくなった。教授陣は東大、東工大、早慶から教授/助教授が来ていただいてその先生の本が教科書なのに、徹マンあけで寝坊ばかり、担任の内田先生にたたき起されて授業に出るには出るのだが、階段教室後ろの方で目立たぬように夢の中、で講義はチンプンカンプン。しかしだ、今日の出席者でも、大学講師やってるかたや、ワセダの修士課程在籍というご仁も居るから、まあ、人間というか心がまえというか、上昇志向というか、そもそもちがったのだろうなあ・・・

  三鷹で同僚の土谷、趣味は読書と貯金と親孝行やでぇ~(??)と、本社でそのままVon君とも机を並べた 、まあ、関西人はこれやでぇ・・・ 次回は神戸あたりで、欠席裁判で岩井さんが幹事だよ~    

 サッカー部の雀士・金沢の柳瀬は鮮やかな手つきで、僕等から巻き上げては仙川の美人女将のとこに足しげく通われていた。こっちはスナック・マドンナでウダウダ・・・いつぞやテレビ会議の画面で会って以来だね。

 

 

 教程課長・バレー部顧問だった峠原先生84歳、ご趣味のウィスキー瓶の帆船は舷窓にLEDと光ファイバーで明かりがつき、かわいいペンギンも乗っている! まん中池田は、わがギョーカイでいえば、ぼくとは、エベレストと泉ケ岳ぐらいの標高差。        

  
  ちゃんとおべんきょうしてれば、ちがう人生もあったかなあ・・・

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