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Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

猫の木

2006-05-13 21:39:04 | ねこちゃん
猫の運動のためには広さよりも高さがあればよい!家の広さについてはもとよりドーしようもないが高低ならなんとかなるか、外に一切出さない彼らにおわびのしるしに「猫の木」を作ってやった。

このあいだ志津川湾の海で拾ってきた柱にまるく削った板をつけてと考えたが、DIYで見たスノコみたいな板をくっつければいいではないか!と安直な設計変更に流れた。まあ、そのためイメージは保ちつつあっという間に出来上がったノダ。木製のプランターの土台に倒れないように立てるバランスが苦労と工夫ではありましたよ。

猫の木だから上から下までぜんぶ木製というところ、コダワリとセンス、職人芸が光りますなあ。実はノコギリぐらいしか工具がなく他の材料の選択枝がないから...

さすがに分別盛り6歳の「たすけ」は、ご主人の工作能力の危うさと思いつきのいい加減さを見て取り「危うきに近寄らず」、2歳チャレンジ意欲満々の「ハク」ちゃんは、けなげにも爪とぎまでしてくれてごきげんであります。が、てっぺんはグラグラしている模様、ボンドで補強の必要ありますな。アブナイ、ここからは現場を見て知恵というか、ドロナワの手当てを働かせる。

さて、世界に一つだけの木なのだヨと言い含めつつ、ご印象をうかがったところ、
「ハク」 ;「まだ、ニャンともいえない、ちょっと高すぎるかにゃ...」
「たすけ」;「危なっかしいので、もすこし模様見だにゃ...」
とのことでした。
(5.14、追記・追画像!?:少し低くしてカドもとって色も塗り、ハクちゃんの完成検査も受けました)
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5月7日

2006-05-07 01:28:22 | なんでもあり・ファミリー
福島にいたあの日からちょうど50年たった。

F大付属小入試は父の期待にそえず、住んでいた家近くのS聖母小学校に入った。制服仮縫いの日は祖母と一緒、入学式の写真には父が写っている。母が入院中だったからだ。

朝ごはんのとき電話が鳴り、ばあちゃんが受けた。
「母さん死んだんだよ」というひきつった祖母の声にも、僕は学校に行くと言い張った。日曜ではなかった、あの日は学校だった。
休み時間に校庭側のコンクリートタタミで遊んでいたら、連れ立って歩いてきたマザー二人から声をかけられた。
「お母さま、よくなられました?」僕、だまって首を振る。「おかわりないの?」「退院されたの?」。だまって首を振る。ためらいながら最後に聞いてくれた「亡くなられたの?」に、僕はうなずいた。
マザー達は驚き一人はどこかへ走ってゆき、すぐさま僕を家に帰したようだ、ここから記憶途切れる。

病院での母は眠っていた。
祖母が「パンツは、はかせられなくて上からかけただけ」と誰かに言っている。
母に近づくと、目をあけた、ように見えた。部屋を出ようと離れたとき、また、まぶたが開いてはっきりと僕を見た。死んでなんかいないじゃないか、と思った。

縁側でオマルに真っ赤なおしっこが出て祖母が「あらっ、のり坊大変だ」と慌てた。すぐに近くの国立病院に入院させられた。自家中毒だったという。このとき3才だとすると、昭和28年、仙台でのことだ。
心細くて二階の窓から見ていると、病院の正門から小柄な母が歩いて入ってきた...うわぁ..
一番古そうな記憶だけど、まるで昨日のことのようだ。

母は、おとなしい人だった。縁側の前の畳で裁縫をしている。僕は横で遊んでいる。弟がよちよちやってきてヨイショとすわりタチバサミがボキッと折れた。「困った子ねえ」という言葉は出たが母はまったく怒らなかった。

仙台の仙石線宮城野原駅近くの母の知り合いらしい家で小犬をもらった。買い物篭のなかに小さな茶色い犬が動いていて、線路沿いの帰り道、何度も篭を覗きながら家に帰った。名前はペスになった。耳が垂れた毛が多少長い雑種で色は茶色。父が福島に転勤する昭和29年までテニスコートの向いの祖母の家にいたから、これは4才ぐらいのときだったか。

(1学期はずいぶん休んだ。深緑色の小さな聖書と赤い万年筆、(モルヒネの?)注射器と消毒綿入れ、たからものをビスケットの函につめて、畳の縁をブーブーと走らせていた。何十年もたって古いアルバムを見つけた。母はカトリック系の仙台高等女学校・いまの仙台白百合学園の出なのであった。僕が修道院の小学校に入れられたのは、母の最後の意志だったろう。半世紀たちアラ還の僕は、なるべく白百合のあった花京院交差点を渡る。重そうなかばんを抱えた小柄な女学生の通学路と行き来した空間を横切っているような気がして...2010.5追記)

1956年・昭和31年5月7日午前8時45分...
いったい、僕は誰に向かって何を書いているのだろうか、
インターネットがどこかにつながっているなら...これ読んでね。今、花盛りだよ。

コメント (4)
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「青春」の詩

2006-05-06 19:45:06 | 音楽・芸術・文学
今日もまずまずの天気、カレイ13匹、黒ソイ1、アイナメ1。
カレイだけ狙っていったが釣りすぎ、ナメタも2枚。鯛はぞろぞろいるのに、水冷たく食い気なし。

帰り道は眠気防止のため、「52番街」通って来た。このあいだテレビでBilly Joelのコンサートやってた、再放送しないかな。あいつとは同じ歳だ、アーティストは若いなあ。

だれか、西海岸に行っちゃったって?三陸海岸もなかなかだぜ、でも大都会がいいなあ。田舎ばっかいると演歌風になるのだ、次入ってたCD、これだもんね、
♪ ひとぉ~つぅや~ぁ、ふたぁつうじゃないのぉ~、ふぅ~るき~ずぅ~わぁ~...
あれっ?これ大阪の大都会だ。心配せんといて、これがわしの人生や。
30年こんなの聞いてるようじゃ進歩してないって? ほっといて。
.....
I don't need you to worry for me cause I'm alright
I don't need you to tell me it's time to come home
I don't care what you say anymore , this is my life
Go ahead with your own life and leave me alone
.... MY LIFE by Billy Joel "52nd STREET" 1978 CBS/Sony ...


昨日の話、思い起こせば曽野綾子さん40過ぎて友達が増えますます活発となり、ただでメークしてもらえるのでテレビにもちょくちょく出られ、ずっと青春にあるような感じ。
皇后様の何年か先輩、そんなお年に見えないなあ。よく食べ、家の中にぎやかだからいいのでしょうね。大変な時代と環境も切り抜けてこられ、信仰も深く、発言に自信もおありだ。だから、いつまでも若い。チューリップのようだ!?

そういえば数年前会社で教えてもらった「青春」の詩があるではないか。あらためて素直に聞けば、すばらしい内容である。ただ、原詩にはちょっと違う部分があるようだ...
...心の中に無線局、感受性のアンテナをいつまでも...

青春  Youth ; Samuel Ullman  訳:岡田義夫  (*

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、
こういう様相を青春というのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに精神はしぼむ。
苦悶や、孤疑や、不安、恐怖、失望、
こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、 驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、
小児の如く求めて止まぬ探究心、人生への歓喜と興味。

 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
 希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、
そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、
この時にこそ人は全くに老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。


*********
 (* http://www.rik.co.jp/itai/itai.htm

52nd Street
Billy Joel
Sony/Columbia

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