Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

鹿児島阿房列車 ー 百鬼園先生

2012-04-01 15:43:38 | 音楽・芸術・文学
第一阿房列車 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 

百鬼園先生の連作第一回目「特別阿房列車」の出だし。「阿房列車と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどとは考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。何にも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行ってみようと思う。・・・」昭和25年のはずだから、戦後やっと少しは落ちついて来たころか、その時代の明るさの気分が、阿房列車シリーズ全体に感じられる。僕が生まれた年だ、ああ、生きた時代が重なっていてくれたと、百鬼園先生にますます親しみを感じる。

どの旅の感じもなかなかによいものだが、「鹿児島行」から先生が故郷の岡山を通り過ぎるあたりまでを記憶にとどめておこう。先生の「無用の用の旅」は昭和20年代後半から30年代初頭。僕はオヤジの転勤で仙台から福島に移った幼稚園前後の歳だが、汽車は特に夕方の風情、すれちがう最後尾の展望車の真っ赤なテールランプの記憶が今でも鮮烈である。駅裏にも住んだから、大きな蒸気機関車の入替、炭水車への石炭の搭載をながめたせいで、HOゲージの模型にはまったときもある。天賞堂、珊瑚模型・・・、レールなどはイギリスのPECO・・・人間の模型の様な息子が現われてからは暇も金もなく止めてしまった。二十数年ぶりで段ボールを開けたら、キューロクや造りかけのD51、ディーゼルDD51もあってうしろは貨物車ばかり。「はと」か、銀河鉄道でも再現しようと思ったが「貴婦人・C62」もいないし客車も足りずとても無理。せめて特急ヘッドマークだけでも・・・

  

先生が出発して行った有楽町と新橋の間の高架線、何年かあの近辺で毎晩遅くまでアクセク働き、有楽町、日比谷、新橋、ガード下あたりもうろうろしていた。上から眺めてもしょうがないです先生、下の方が断然面白いのだ。あれからでもずいぶんたってしまった。もっと昔、寝台特急ハヤブサか、ついたのは西鹿児島、北ではニセコなんかも何回か乗ってるなあ。もう電気機関車の時代だったけど。しかし小樽の手前辺りのトンネルで窓閉めず煙が入ってきてあわてたのはいつであったか、ローカルかなあ、岡山へも何度かとんぼ返りをしたことがあった。あーあ、往時はただ茫茫・・・4月1日は旅立ちの日なのに・・・輝いていた頃と良き時代を思って何が悪いか・・・ぼんやりと、追いまくられない旅に行きたいものだ・・・・センバツの八戸・光星、ノースリーから打った、センターフライかとも思ったが越えろと走ったという、一生の宝になるランニングホームランだね・・・

 

>>>>>>以下、「第一阿房列車 内田百間 鹿児島阿房列車 前章より引用」

 (ちっとや、そっとの)

六月晦日、宵の九時、電気機関車が一声嘶いて、汽車が動き出した。第三七列車博多行各等急行筑紫号の一等コムパアトに、私は国有鉄道のヒマラヤ山系君と乗っている。二重窓を閉め切って、カアテンが引いてあるから、汽車が動き出しても外が見えない。歩廊の燈が後へ行く景色はわからないが、段段勢いづいて来る震動で、もう東京駅の構内を離れようとしている見当はつく。この列車は新橋には停まらない。

昔の各等列車は一等車が真ん中にあったが、今はそうでない。一等車二等車三等車の順に列んで、下りの時は進行方向の先の方に一等があるから、従って機関車に一番近い。だから発車信号の吹鳴が手に取る様に聞こえた。電気機関車の鳴き声は曖昧である。蒸気機関車の汽笛なら、高い調子はピイであり、太ければポウで、そう云う風に書き現わす事が出来るけれども、電気機関車の汽笛はホニャアと云っている様でもあり、ケレヤアとも聞こえて、仮名で書く事も音標文字で現わす事も六ずかしい。巨人の目くらが按摩になって、流して行く按摩笛の様な気がする。

巨人と云うのは日本の大入道の事ではない。ゴヤの描いた巨人の絵を写真版で見た事がある。半裸の巨人が大きな山脈の上に腰を掛けて、うしろの空に懸かっている弦月を半ば振り返って眺めている。その巨人は目くらではない。出目で、ぐりぐりした目玉に月の光が射している様な気がした。同行のヒマラヤ山系君は、柄は小さいが少し出目である。
「出目でない、奥目には、利口な人が多いですね」と或る時意味ありげな事を云った。

窓にカアテンが垂れていて面白くない。まだまだ寝るどころの話ではないから一方に片寄せて、硝子越しに外を眺めた。有楽町と新橋の間の高架線を走っている。走って行く方向の右側は、ドアがあって廊下を隔てているから、見えない。左側の数寄屋橋辺りから銀座裏にかけて、ネオンサインの燈が錯落参差、おもちゃ箱をひっくり返した様に散らばって輝いている。

これから途中泊まりを重ねて鹿児島まで行き、八日か九日しなければ東京へ帰って来ない。この景色とも一寸お別れだと考えて見ようとしたが、すぐに、そう云う感慨は成立しない事に気がついた。なぜと云うに私は滅多にこんな所へ出て来た事がない。銀座のネオンサインを見るのは、一年に一二度あるかないかと云う始末である。暫しの別れも何もあったものではないだろう。
こないだ内から、抜けかけた前歯がぶらぶらしている。帰って来る迄にどこか旅先で抜けるだろう。行く先は鹿児島だから遠い。鉄路一千五百粁、海山越えてはるばるたどりついたら、折角の事だから、抜けた前歯を置き土産にして来ようか知ら。宿は城山の中腹にあると云う話しなので、そこはもう立つ前からきまっている。城山に前歯を残して帰る亦可ならずやなどと考えながら、舌の先で押して見たら、思ったより大きく動いた。行き著く前に落ちない方がいいから、そっとしておく。
係りのボイが来て、菓子折の包みの様な物と手紙をそこに置いた。


お見送りの方から、と云ったので驚いて尋ねた。
「だれか見送りに来たのか」
しかし汽車はもう走っている。
ボイが云うには、お見送りにいらした方が、これを赤帽にお託しになって、赤帽が持ってまいりました。
腑に落ちないけれど請取って、手紙を見た。
夢袋さんの手紙である。表に麗麗しく私の名前が書いてある。ボイがどうして見当をつけたか解らないが、手紙の宛名通り、私は私に違いないから止むを得ない。しかし困った事である。これから明日の午頃まで世話になり、その間にいろいろ我儘をしようと予定している矢先に、そのボイにこちらの正体を見破られたくなかった。
手紙には、「御命令に従ってお見送りはいたしませんが、プラットホームを通って、車中の先生のお元気なお姿をひそかに拝し、」とあるけれど、カアテンが下りていて、発車前の寝台車は外から見ると霊柩車の様である。中身は拝見は出来なかったが、きっとそのつもりで、手紙はうちで書いて来たのだろう。

御命令に従って、と云うのは、抑も最初の特別阿房列車の時は、見送りに来てくれた椰子君が車室に侵入し、先生が展望車でえらそうな顔をしている所を写真に撮ろうと思って、写真機はこの通り持って来たけれど、フィルムがない。途中二三軒聞いて廻ったが、どこにもないので、残念ですと云った。フィルムがなかったので虎口を逃れたけれど、そんな事をされたら、同車の紳士の手前恥を掻いてしまう。
夢袋さんはこの前の区間阿房列車の時、三等車の窓際に起って、先生がお立ちになるのに、駅長はなぜお見送りに出ないのだろう。行って呼んで来ましょうか、と大きな声で云ったので肝を冷やした。

二件とも物騒な前例であるから、今度はあらかじめ両君に別別の機会に、お見送りの儀は平に御容赦下さる様頼んだ。
夢袋さんはそれでも是非にと云う事なので、事わけをわって話した。僕は体裁屋である。車中ではむっとして澄ましていたい。そこへ発車前にお見送りが来ると、最初から旅行の空威張りが崩れてしまう。僕は元来お愛想のいい性分だから、見送りを相手にして、黙っていればいい事を述べ立てる。それですっかり沽券を落とす。どうでもいい事で、もともと沽券も格好もあったものではないのだが、そこが体裁屋だから、僕の心事を憐れんで、見送りには来ないで下さいと頼んだ。

夢袋さんが私の話を納得したので、安心していると、顔を出さない見送りを敢行して、鞄にぶら下げた名刺にはヒマラヤ山系君のを使ってある程気をつけて隠した私の正体を、手紙の名宛で暴露してしまった。私がそれ程有名だと考えているわけではない。ただ商売柄、世間のどの筋かに私の名前を知った者がいないとは限らないから、用心したに越した事はない。現に係りのボイは私が心配した筋の一人だったと見えて、忽ち私を認識し、手紙を取り次いだ後は、人の事を「先生、先生」と呼び出したから、夢袋さんの諒解しない意味で私は肩身の狭い思いをした。


手紙に添えた包みには、サントリのポケット壜と私の好物の胡桃餅が這入っている。
しかし、旅中ウィスキイは飲まない方がいい。
「ねえ山系君」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいけないだろう」「飲まなくてもいいです」「その鞄の中に気附けの小壜も這入っているけれど、それは勿論飲む可き物ではない。夢袋さんのこれも、飲むのはよそうね」「はあ」「旅行中ウィスキイは飲んではいかん」
山系に申し渡したのか、自分に申し聞けたのか、その気持ちは判然としないが、今度の旅程八日の内、前半の4日目辺りには、どちらの壜も空っぽになっていた。

夢袋さんの手紙の最後には、こう書いてある。「ラヂオが颱風ケイトの来襲を告げておりますので心配いたしております。ケイトに向かって雄雄しく出発する阿房列車のつつがなきことを切にお祈りいたします」

ケイト颱風の事は、出る前から心配しているのであって、必ず無事だと云う確信はない。しかし旅先のどこかで、きっとぶつかるともきまっていない。うまく行けば、颱風が荒らした後へ行き著く事になるかもしれない。どうなるか解らないが、凡てはその場の風まかせと云うつもりで出かけてきた。

もうとっくに品川駅を出て、段段速くなっている。汽車のバウンドの感触は、いつ乗っても気持ちがいい。そろそろ車中の一盞を始めようと思う。
三七列車は、各等聯結の急行であるが、食堂車がついていない。それは前から解っているので、魔法壜を二本買って、お癇をした酒を入れて来た。夜九時の発車でそれから始めれば、いつもの私の晩のお膳が大概九時から十時頃に始まるのと同じ時刻である。その癖になっているから、腹がへってはいない。山系君はそうはいかないかも知れないけれど、いい工合に彼は腹がへった顔をしない男だから、それでいい事にしてほっておいた。

それでこれから始めようと思う。今晩の晩餐の用意には、二本の魔法壜の外に、有明屋の佃煮と、三角に結んだ小さな握り飯とがある。テエブルの代わりには、片隅の洗面台に蓋をしたのがその儘使える。しかしそれに向かって腰を掛ける場所は、後で寝台になる座席しかないから、そうすると私は山系と同じ方を向いて並び、気違いが養生している様な事になる。そっち側で一人腰を掛けられる物を、何かボイに持って来て貰おうと云う事になって、そう云ったら、丁度高さの工合のいい空の木箱を持ち出して、古いカアテンを幾枚もその上に重ねてくれた。それでクッションのついた腰掛けが出来た。山系君が木箱に腰を掛け、私は座席の上に坐り込んで、
「さあ始めよう』と云う段取りになった。
燈火は窓枠の上の蛍光ランプである。
魔法壜から、持参の小さな杯に注ぐのは中中六ずかしい。揺れているから、手許がきまらない。しかし暫らくすると、手の方が車の震動に順応して、調子が合わせられると見えて、もうちっともこぼれない。
カフェやバアに行けば、蛍光ランプは普通かも知れないけれど、私は知らないから珍らしい。しかし目が慣れれば別に変わった所もない。ただ窓の外の燈がへんな色に見える。今まで東海道本線の右側を走っていた桜木町線の電車が、東神奈川に近づく前から跨線で本線の左に移っているので、カアテンを片寄せた窓越しに上り下りの電車が走っているのが見える。電車の燈火の色が変で、赤茶けて、ふやけている。それを見た目を車室内へ戻すと、明るくて美しいと思う。

「蛍光ランプのあかりで見ると、貴君は実にむさくるしい」
「僕がですか」
「旅に立つ前には、髭ぐらい剃って来たらどうだ」
「はあ」
「丸でどぶ鼠だ」
「僕がですか」
「そうだ」
「鹿児島へ行ってから剃ります」
自分で鼻の下を撫でて、「そうします」と云い足した。
暫らく散髪にも行かないと見えて、頭の毛が鬱陶しくかぶっている。襟足が長いので、その先がワイシャツのカラの中に這入って、どこ迄続いているか、外からは解らない。熊の子に洋服を著せた様である。胴体は熊で、顔はどぶ鼠で、こんなのはヒマラヤ山の山奥へ行かなければいないだろう。
しかし、無理を云って、繰り合わせて同行して貰ったのだから、もてなさなければ悪い。
魔法壜を持ち上げて、「さあ一つ」と云ったが、思ったより軽かった。
「あんまりなさそうだな」
「あまり這入りませんからね」
山系君は杯を前に出したが、いつもの癖で猪口の縁を親指と中指とで持ち、その間の使わない人指指は邪魔だから曲げている格好が、人をあいつは泥棒だと云っている様である。
「またそんな手つきをする」
「はあ」
しかしそう云われても、持っている杯が邪魔になって、人差指を伸ばす事は出来ないらしい。
間もなく二本目の魔法壜に移った。横浜はもうさっき出た。
「我我は、どうも速すぎる様だ」
「お酒ですか」
「事によると、足りないぜ」
「それがですね、つまり、汽車が走っているものですから」
「汽車が走っているから、どうするのだ」
「走っていますので、ちっとや、そっとの」
云いかけて、つながりはなかったらしい。後は黙って勝手に飲んでいる。

保土ヶ谷の隧道を出てから、それは夜で外が暗くてもこちらで見当をつけているから、隧道は解るのだが、隧道を出たと思うと、線路の近くで蛙の鳴いている声が聞こえて来た。蛙の鳴く時候ではあるし、夜ではあり、そうだろうと思った。

放心した気持ちで、聞くともなしに聞いていたが、暫らくすると、或はそうでないかも知れないと思い出した。蛙の声にしては、あまりいつ迄も同じ調子である。又その調子が規則正しく繰り返しているのがおかしい。蛙の声でなく、車輪の軋む響きが伝わって聞こえるのかも知れない。そう思って聞くと、そうらしい。そうだろうと思った。

 車輪の音を放心した儘で聞きながら、その間に大分お酒を飲んだ。無口なヒマラヤ山系を相手にしているので、杯の間に議論の花を咲かせると云う事もない。しかし、何の話しもしないけれど、何となく面白くない事もない。外の音に気が散って、また耳を澄ました。さっきから聞こえているのは、矢っ張り田の中の蛙らしい。車輪の軋む音ではないだろう。尤も蛙だとしても、さっき保土ヶ谷の隧道を出た所で鳴いた蛙ではない。なぜと云うに汽車は走り続けている。違った蛙でも同じ声をしている。しかし本当に同じ声だかどうだか解らない。確かめようと思って気がついて見ると、汽車が動いているから、それは出来ない。はっきり聞いたと思う声は、実は幾つの声がつながっているのか、見当もつかない。どうも少し酔って来たらしい。総体に物事が、はっきりしない。蛙で面倒なら、車輪の音にして置こうかとも考える。そうは行かない。車輪なら車輪、蛙なら蛙、それはそうだが、ちっとやそっとの、と不意にさっき山系が云い掛けた文句が口に出た。

大船を出て、線路の真直い、汽車が速くなる辺りへかかっている。線路の継ぎ目を刻んで走る歯切れのいい音が、たッたッたッと云っていると思う内に、その儘の拍子で、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」と云い出した。汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度著くのはどこだろう。お酒がないだろう。

ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」
「はあ」
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「お酒はどうだ」

口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。
「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの、こう手を出して」
「何ですか、先生」
「ちッとやそッとの、ちッとやそッとのボオイを呼んで」
ボイがノックして這入って来て、
「お呼びで御座いますか、先生」と云った。
それでいくらか調子が静まった。お酒が足りなくなりそうだから、買ってくれと頼んだ。熱海で買いましょうと請け合って、出て行った。
ちッとやそッとの、ちッとやそッとは薄らいだが、まだ幾らか残っている。しかし線路の工合が変り、カアブが多くなったと見えて、さっき程切れ目を刻む音がはっきりしなくなったので、自然にそちらから誘われる事もない。

いつぞや一人で汽車に乗った時、線路を刻む四拍子につられて、ふと口の中で「青葉しげれる桜井の」を歌い出した。どこ迄行っても止められない。幸いだか、運悪くだか、私はその長い歌を、仕舞までみんな覚えている。それで到頭最後まで持って行って、済んだら、気が抜けた様な気持ちがした。
青葉繁れるをみんな覚えている馬鹿はいないだろうから、従って一番仕舞の所を知っている人も少ないだろう。念の為に記して置く。
  緋縅ならで紅の
  血汐たばしる篭手の上
  心残りは有らずやと
  兄の言葉に弟は
  これ皆かねての覚悟なり
  何か嘆かん今更に
  さは云え口惜し願わくは
  七たびこの世に生れ来て
  憎き敵をば亡ぼさん
  左なり左なりとうなずきて
  水泡と消えし兄弟の
  清き心は湊川
兄弟の兄は云う迄もなく正成、弟は正季である。 

汽車が熱海を出ると、ボイがお酒の壜を持って来た。
「先生買ってまいりました」
「先生」なぞ云わなくてもいい。不用の呼び掛けだが、これ皆夢袋さんの成せる業なり。何か嘆かん今更に、さは云えお酒は買ったれど、魔法壜の中身はお癇がしてあって、駅売りは冷酒である。後口に冷も悪くないかも知れないが、まだ魔法壜にいくらか残っているし、多分丹那隧道を出て、暫らくしてから冷酒に代ったと思うけれど、わざわざ買い足した程うまくもない。結局お行儀が悪く、意地がきたなくて、無くても済む物がほしかったのである。

二合壜を半分程飲んで御納杯にした。その残りの一合許りを鹿児島くんだり迄持ち廻り、どこの宿屋でも、それをお癇して出せと云うのを云い忘れて、翌くる日立つ時には又持って行った。到頭八日の間荷物にして、家に帰ってから九日目の晩に、家で飲んで、それでやっと片づいた。大きな顔をして一等車に乗っていても、根がけちだから、そう云う事でお里が知れる。そう思うけれど、実はそうではないとも思う。お酒と云う物は勿体ない。おろそかに出来ないと云う事が腹の底に沁み込んでいる。空襲の晩には、焼夷弾の雨下する中を、一合許りのお酒が底に残っていた一升壜をさげて逃げたが、その時のお酒と、コムパアトで飲み残したお酒と、勿体ないと云う味に変りはない。

それで今晩はお仕舞にした。洗面台のお膳を片づけ、臨時の木箱の腰掛けもボイが持って行って、もう寝るばかりになった。今どの辺りを走っているのか解らない。何しろ大分夜更けである。
寝台は上段と下段に別れている。ヒマラヤ山系が、お休みなさいと云って、小さな金の梯子を登った。どぶ鼠が天井裏に這い上がり、上でごそごそしている。何か、かじっているのではないか。上と下の境の天井は木の板だから、酒の勢いでかじって穴をあけて、落ちてこられては困る。その内に、うとうとして、天井の上は鼠が一ぱいいる様な気がし出した。いらいらし掛けたが、その儘寝てしまった。


(古里の夏霞)

朝になってから通る京都も大阪も丸で知らなかった。姫路を出て上郡を過ぎ、三石の隧道が近くなる頃に漸く目が覚さめて、気分がはっきりした。郷里の岡山が近い。顔を洗って朝の支度をした。
三石の隧道を出て下り勾配を走り降り、吉井川の川中で曲がった鉄橋を渡ってから、備前平野の田圃の中を驀進した。
瀬戸駅を過ぎる頃から、座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。遠方で鶴が鳴いている様な声である。何年か前に岡山を通過した時にも、矢張りこの辺りからこの通りの音がしたのを思い出した。快い諧音であるけれども、聞き入っていると何となく哀心をそそる様な気がする。
砂塵をあげて西大寺駅を通過した。じきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云いたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸一言教えて置こうと思う。
百間川には水が流れていない。川底は肥沃な田地であって両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児島湾の入口の九幡に達している。中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這いになり、持って来た詩集を読んだと云うなら平仄が合うけれど、私は朱色の表紙の国文典を一生懸命に読んだ。今すぐその土手に掛かる。
「おい山系君」と呼んだが、曖昧な返事しかしない。少しくゴヤの巨人に似た目が上がりかけている。
「眠くて駄目かな」
「何です。眠かありませんよ」
「すぐ百間川の鉄橋なんだけれどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
解ったのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡って、次の旭川の鉄橋に近づいた。
車窓の左手の向うに見える東山の山腹の中に、私はさっきから瓶井の塔を探しているが、間に夏霞が籠めて、辺りがぼんやりしている所為か、見つからない。子供の時いつも眺めて育った塔だから、岡山を通る時は一目でも見たい。瓶井と云うのは、本当は「みかい」なのだが、だれもそうは云わない。訛りなりに、「にかい」の塔と云うのが固有名詞になっている。岡山では何でも「み」が「に」に訛ると云うのではないけれど、私なぞ子供の時に云い馴れたのは、歯にがき、真鍮にがき、玉にがかざれば光なし、と覚えている。抑も先生がそう云って教えたかも知れない。
旭川の鉄橋に掛かる前、やっと霞の奥に塔の影を見つけた。
旭川の鉄橋を渡ると思い出す話がある。岡山の人間は利口でいやだと他国の人がよく云う。その実例の様な話なのだが、小さな子供を負ぶったお神さんが鉄橋の上を渡っていると、汽車が来て逃げられなくなった。非常汽笛を鳴らしている機関車の前で、お神さんは手に持っていた傘をぱっと開き、ふわりと下の磧に飛び下りた。尻餅ぐらいはついたかも知れないけれど、背中の子供も無事だったので、車窓からのぞいて固唾を嚥んでいた乗客が一斉に拍手したそうである。私の子供の時の事で古い話だが、傘をひろげて飛んだのは、後の世の落下傘と同じ思いつきである。

もっと古い、私などの生まれる前の話に、傘屋の幸兵衛と云う者があって、瓶井の塔から飛行機の様な物に乗って空に飛んだそうである。発動機がついていたのではないだろうから、滑空機の趣向だったのだろう。瓶井の塔は高いから、暫らく宙を飛んで、原尾島と云う村まで行き、毛氈をひろげてお花見をしてる所へ落ちた。落ちても無事だったのだと思われる。お花見の人人が驚いたのは云う迄もない。後でお上から、人ノ為サザル事ヲ為シタル廉ニ依リと云うわけで叱られて、お国追放に処せられた。

汽車が旭川鉄橋に掛かって、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城の天守閣を探したが無い。ないのは承知しているが、つい見る気になって、矢っ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなっている。昭和二十年六月晦日の空襲で焼かれたのであって、三萬三千戸あった町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払われた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまった。

森谷金峰先生は私の小学校の時の先生であった。金峰先生の御長男は今岡山の学校の校長さんである。空襲の晩、校長森谷氏は火に追われて、老母を背中に負ぶって、旭川の土手を鉄橋の方へ逃げた。そのうしろで炎上するお城の大きな火焔が天に冲し、振り返れば焔の塊りになった天主閣は、下を流れる旭川の淵に焼け落ちて、土手を伝って逃げ延びる足許をその明かりが照らした事であろう。背中の老母は金峰先生の奥様である。よく覚えていないけれど、子供の時にお目に掛かった事があるに違いない。もう一度車窓から眺めて見ても、その辺りの空は白け返っているばかりである。
鉄橋を渡ったら、じきに岡山駅である。ちっとも帰って行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。停車の間、歩廊に出てその土を踏み、改札口の柵のこちらから駅前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかった。

・・・・(以下、略)








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