Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

米原マリィの気炎

2006-12-31 19:52:31 | 音楽・芸術・文学
ことし2006年5月末に米原万里さんが亡くなった。<元祖シモネッタ・ドジ>活発な才気溢れる明るい方だった。
『不実な美女か貞淑な醜女か』で読売文学賞受賞、これがデビュー作、翻訳・通訳のメカニズムからその背景にある比較文化論というのか、真剣で中身も難しい。

バイリンガルどころかトライリンガルまで多言語を扱える人は増えているようだが、言葉の習得はまず母国語をしっかり身につけるのが何より先決というのが米原さんの持論。
「日本語の下手な人が学ぶ外国語は、日本語よりさらに下手にしか身につかない」
翻訳・通訳ギョウカイさん『通訳・翻訳ジャーナル』編集部サイトに、彼女の追悼特集・写真があった。

没後、この夏に出た「他諺の空似 ことわざ人類学」をナナメに読む。なにせ、わが日本の諺に寄せて世界中の似たような・似て非なることわざ...ここ3年ぐらいの雑誌への連載からのものだが、この本のなかで彼女は自分の残り時間を意識したのか、もう本気で鋭く怒ってくれた。なにに?
覇権大国の横暴と、無能な国家指導者・暴君、節操のない日本の指導者...

そして、大晦日の新聞には、イラクのフセイン絞首刑のニュース。これで、あのあたりの混迷の泥沼はいっそう深まるだろう。どこに大量破壊兵器があったの?劣化ウラン弾をばら撒いたのはだれ?日本では、捨てる神あれば拾う神あり、しかし一神教、宗派・民族の対立ではそう簡単にはいかぬのだ。
アメリカの現大統領も末期的症状、「Mad Emperors」にアメリカのひとは最近George Bush というのも入れるみたいだ。「帝政教育委員会」
こうなると、ジェフリー・アーチャーがすでに小説で実現させたように女性大統領が待たれる。

だいたい大昔から、ペルシャ・パルチア征伐などを思いついて、うまくいったためしはないのだ。 できたのはただひとり、天才・英雄アレクサンドロスのみであろう。ブッシュより、妻の鑑・オクタヴィアが従ったアントニウスのほうが、数段可愛げがあった。

*********
(「どんどんよくなるマリィの気炎」遺作に寄せて 阿刀田高 より)

...米原さんはロシア語を中心に多くの外国語に堪能な人であった。外国語を、ある程度の深さにおいて、つまりその背後にある民族の歴史・風俗・考え方をとりあえず知って理解するには、その人たちが日常的に用いていることわざのたぐいに通じることが良策なのである。...
言語感覚に優れていた米原さんは、たぶん無意識のうちにも、この方法を体得していたにちがいない。この『他諺の空似』を読むと・・・もちろん執筆のためにあらたに調査して学んだ部分が多々あることを疑わないが、それより先に知らず知らず長い年月をかけて培った知恵があって、それが鮮やかに開花していることがよくわかる。
...一行のことわざでは一面しか示しえない。対立する考え、視点の異なる見方、いろいろあって当然。それがいくつものことわざに反映されているわけだ。
 考えてみれば、小説もその通り、たとえば、一人の実在の人物を書いても、まったくちがう人格、まったくちがう作品、いろいろあって当然だし、事実、いろいろ実在している。それが、小説というジャンルの面白さである。...

*******

ことしも、「終わりよければ全てよし」としたいなあ、きょうも母を「ビョ―インに連れてってやって」と妹からの電話。昨日まであっちの近くの整形で電気マッサージなど?やってたはずだが、ン、今日も?聞き返せば..なんと「美容院」、しかも行き着けのところでないとダメとがんばって予約まで入れていた。
「こんなあたまじゃねえ、病院でもみんな見てるのよ」「だーれも見てないって!」
ま、しょうがないので、白髪染め・パーマに連れてって結局半日がかり。こんなトコのパーマ屋に来てたんだ、そばに「西御城下」の道しるべ石。このあたりも古い街。
でも一時どうなるかと思った母もヨチヨチ歩いてはいる、あたまじゃなくて髪に気を遣うぐらいだから、本年の終わりは(ブログ総集編で?)よしとするか。


*********
「不実な美女か貞淑な醜女か 米原万里 新潮文庫 ISBN4-10-146521-5」
「他諺の空似 ことわざ人類学 米原万里 光文社 ISBN4-334-97504-6」
他諺の空似 ことわざ人類学

光文社

このアイテムの詳細を見る

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧の向こうに... 

2006-12-23 21:25:58 | 音楽・芸術・文学
きょうは今上天皇のご誕生日。1933(昭和8)年のお生まれ。皇后様は1934年のお生まれ。お元気でなによりです。

須賀敦子さん1929年生まれ、聖心女子大学文学部卒業ということは皇后様の先輩。1953年から71年までフランス・イタリアに長く暮らし、帰国後は上智大学教授もされた。このかたは皇后様になっていたかもしれない。だが、彼女は日本とイタリアにおいて小説より奇なりの人生を生きて、われわれにすばらしい精神上の贈り物を残された。
10年前の1996年暮れ、珠玉の作品がようやく世の中に現れ日本の読書人が気づいたときには、須賀さんにはもやは闘病に費やすだけの1年余の命しかなかった。

キリスト教の殻に閉じこもらない共同体、聖と俗の垣根を取り払った人間の言葉を話す場、広く世界に目をむけた活動をすることを目指した拠点、ミラノの「コルシア・デイ・セルヴィ Corsia dei Selvi書店」を彼女はソルボンヌから帰った日本で知る。
29歳で今度はイタリアに渡り、そして、とうとうたどりついた。

ミラノ、コルシア、ヴェネツィア、トリエステ、ユルスナール、一般向けに日本で生前に出たご本は、たったの、5冊であった。この十年でようやく、新聞に書かれたエッセイなどを集めた単行本や全集までが出るようになった。
このような文章と文学を、はたしてエッセイというのであろうか。時間によって熟成された出来事の記憶、想いをこめた作家や作品と自らの交錯、肉親や友人知人の物語、選び抜かれた言葉と流れる表現。散文なのか、叙事詩なのか。
ぼくは、これはエッセイなどではなく、ながーい詩、のようなもの、と思った。

コルシア書店などあるはずもない日本の地方都市、もはや、まともな書店は丸善ぐらい。
「文藝別冊 須賀敦子追悼特集」がおいてあった。追悼文にはイタリア人の文学者・友人も並ぶ。ここから、ほんの一部だが引用させていただき記憶にとどめたい。

********

...でも、まず何よりも、日本とイタリアのあいだで敦子が果たした文化の橋渡しとしての役割の重要さを、それまであまり知られていなかった日本の作家をイタリアに紹介するためになしとげた仕事の大きさを、強調しておきたい。
その仕事は彼女の優れた翻訳だけではない。まだ国際的な評価を得ていなかった作家たちの作品の翻訳出版を、イタリアの出版社に納得させたのである。
1965年にボンピアーニBompiani社から刊行された、大岡昇平が序を寄せた日本文学アンソロジーは、将来にわたってきっとその名を残すことだろう。イタリアの読者は、すでに知られていた谷崎潤一郎、芥川龍之介、川端康成に加え、泉鏡花、国木田独歩、志賀直哉、井伏鱒二、井上靖、深沢七郎、中島敦、石川淳らに初めて接する機会を得たのである。
その頃、私は日本文学に熱中しだしてまだ数年だったが、755ページものこの分厚いアンソロジーを手にしたときの興奮は、今もはっきり覚えている。この本は私の前に、それまで考えてもみなかったすばらしい世界を開いてみせてくれたのである。1970年代の初めには敦子は安倍公房をイタリアに紹介し、さらに、谷崎潤一郎、川端康成の翻訳を続けた。それから、イタリア文学の日本語訳を手がけた。イタリア、日本でのこの二つの仕事の自然の発展として、敦子は彼女自身が作家であることを見出したのだった。...
(アドリアーナ・ボスカロAdriana Boscaro「私をおいて逝ってしまった友だち」 から)



...1971年の秋、41歳の須賀敦子は東京に帰ってきた。
「純粋な時間として考えると、六十年の人生のなかの十三年は、さして長い時間でないかもしれない。しかし、私にとってイタリアで過ごした十三年は、消し去ることのできない軌跡を私のなかに残した。二十代の終わりから、四十代の初めという、人生にとって、さあ、いまだ、というような時間だったから、なのかもしれない。(『ミラノ 霧の風景』215頁)
しかし、読者が彼女のイタリアをめぐる随筆を読むのには、あと二十年を要する。
 あるとき「日本へ帰って十年間はどん底だったわよ」「私、くず屋をしてたこともある」と出し抜けに言い出し、目をくりくりさせた。
...
須賀敦子の帰国は、「バラード神父からの再々の帰国の要請」があってのことらしい。イタリアでも日本のエマウスEmaús運動は連絡を取りつづけていたと思われる。夫もいなくなったイタリアをさびしく引き上げたのではなかったようだ。彼女はあくまで前向きな人だった。
「日本に帰ってきてよかったと思ったわ。日本の教会をみてると眠っているようだった。日本では、やらなきゃならないことが山積み。直接、肌に感じる仕事ができるかも知れない」

国際ワークキャンプに参加した若い仲間を組織して東京でヤングエマウスが誕生した。練馬区に「エマウスの家」をつくり、須賀敦子はその責任者として廃品回収を陣頭指揮した
「汚い仕事と思うでしょ。でもいちばん、人間が裸になれるんです。最も貧しい人を助けることによって、気がついたら自分自身がいちばん救われているんです。」
..こうして活動をする一方で、須賀敦子は大学世界でのキャリアも築いていった。
帰国直後は、慶應大学国際センター嘱託として翻訳に携わった。1972年より慶應大学でイタリア語を、73年より上智大学で日本文学を、78年より京都大学で現代イタリア語を教え、82年上智大学外国語学部助教授となった。翌83年からは東京大学で現代イタリア詩を教えている。81年には、ウンガレッティGiuseppe Ungaretti の研究で文学博士号取得。
60代に入ってからオリベッティOlivetti社の広報誌「SPAZIO」にエッセイを発表し、1990年白水社から『ミラノ 霧の風景』として発刊されるとその端正で魅力的な文章に読書家は瞠目し、女流文学賞と講談社エッセイ賞をダブル受賞した。
それからの須賀敦子は、上智大学教授、イタリア文学者としてだけでなく、随筆家として多忙であった。...

1996年の暮れ、数人で忘年会をしたとき、「年がかわったら入院するの」と、その病名も聞かされ、驚いた。...
「閉じこもった悲しみの日々にわたしが
自分を映してみる一本の道がある」
(森まゆみ「心に伽藍を建てる人」―須賀敦子の人生 から)



***********

以下を参考、引用しました。

「文藝別冊 須賀敦子追悼特集 霧の向こうに 河出書房新社 ISBN4-309-97566-6」
「ミラノ 霧の風景 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07357-2」
「コルシア書店の仲間たち 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07353-8」
「ヴェネツィアの宿 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07354-6」
「トリエステの坂道 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07355-4」
「ユルスナールの靴 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07356-2」
「塩一トンの読書 須賀敦子 河出書房新社 ISBN4-309-01542-5」

**************
須賀敦子―霧のむこうに

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンタの宝探しin Google Earth

2006-12-20 00:28:48 | テレビ・インターネット
こんにちわ~。よいこのブログみなさん、準備はイイかな?サンタさんがGoogle Earthのどっかに、プレゼントの貴重なたからものを隠しましたよ~。
12月12日からクリスマスイヴまで毎日、サンタさんが北極事務所から現れて、Google Earthの地球の上のおもちゃの隠し場所に案内しますよ~。

題して「Santa's Toy Hunt and Santa Tracker in Google Earth.」
ソフトと動かし方はこのサイトにありますよ。「Google Earth」は、みな、もう持ってるかな?サンタさんが動く版でやってね。

「Google Earth」がちゃんとあれば、あとは「 Santa Tracker と Toy Hunt file」をダウンロード。左にあるプレゼントの絵をクリックするのが早いかな!?
今日までで、もう8つ見つかってますよ~、24日まで、あといくつ?

・ぞうサンとネコちゃんの絵の包み紙は、アメリカの...
・青いハコに何入ってるのかなあ、ぐるっと回して上から覗いてみる、ここどこかな
・赤いプレゼントとお人形は?
・クマちゃんとニモみたいなぬいぐるみ、ここは?

さーて、今日のプレゼント「ロボット」(これが噂のGoogleロボット!?)
ヒントも出ますネ!794ねんから1868ねんまでエムペラーのいたトコロにあるよ、どこでしょう??


************
プレイモービル クリスマス トナカイのソリとサンタ 3604

アガツマ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Google Earth」で古地図

2006-12-10 19:56:08 | テレビ・インターネット
先月からGoogleの衛星画像地図ソフト「Google Earth」で、古地図も表示できるようになったというので、遅ればせながらやってみた。「Google Earth」では、今の実映像に重ねて16種の古地図が見られる、という。
どんなものかいな?インターネット上での記事でみると、面白そう...

「米Googleは13日、3D衛星画像地図ソフト「Google Earth」に4つの特集コンテンツを追加したと発表した。これまでもディスカバリーチャンネルや国連環境計画などの特集コンテンツが提供されていたが、さらに多くの教育的情報が追加されることになる。
 追加されたコンテンツの1つは、古くは17世紀にまでさかのぼる古地図を集めた『David Rumsey』コレクション。David Rumsey氏は地図収集家として著名な人物だ。このコンテンツでは、1680年から1892年までに世界各地が描かれた16種類の歴史的地図をGoogle Earthの現在の状況と重ね合わせて見られる。カッシーニが1790年に描いた地球、1787年に描かれたアフリカの地図、1710年に描かれた日本と中国を含むアジア地域の地図も含まれている。この地図を見ることにより人々の地理的な認識が時間とともにどのように変化していったかを観察することができる。 」

(見るには?:[Google Earth]R-4β版は当然要りますね、上記機能は日本語では不可なので「英語」環境にする。Windowsでは、[Google Earth]メニューバーのツール→オプション→「全体」にて「言語設定」を「英語」に、そして「Google Earth」を2回起動すると、Layersパネルが現れFeatured Content→Rumsey Historical Mapsから古地図を選んでクリック...やってみよう!)

さて、実際に見てみると...まあ、古地図というのも面白いことは面白いが...日本ならば、どうせなら伊能さんの地図を重ねてみたいと思った。

1787年の南アメリカの地図ががほぼ正確なのは感心。それに比べ、1710年のアジアはなんとも形もなさない。都市の地図ではさすがに1843年・ロンドンは精密、1836年・ニューヨーク、1853年・サンフランシスコは一部地域の断片のみ、1680年の江戸の地図は伊能以前なので残念だが、同時代のヨーロッパの首都なみの精度と思われた。
1790年の全世界「World Globe」、このころにはわが人類はほとんど正確に5大陸の位置関係で地球を把握したことが分かる。

1800年代初期の時期に、一国の全図について「伊能地図」のような正確な地図財産を有した国はあったのだろうか。1年前、伊能忠敬研究会の渡辺一郎さんが掘り起こされた伊能忠敬の中図、大図と事跡の話を書いた。日本全図の最終的な完成図「大日本沿海輿地全図」の完成・幕府提出は、忠敬の死後3年余の1821年に成り、以降百数十年の命を有し日本の地図の基本になっていた。

さて、Google3D画像表示というのも...わが家付近は1軒分ずれている。なんでだろう?気楽に遊んでいるうちはいいが...なんでも本当の役に立つためには隠れた努力がいるのだなあ。

月初めまでしっかりしていた老母の言動も、先週急に時間と空間を飛び超えはじめ、こんなことをして遊んでいる状況ではなくなった。あしたも病院に...
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イナバウア~ねこ

2006-12-05 00:29:55 | ねこちゃん
ボクは、猫背気味だから無理かなあ、でもやってみよう。
のびィーを洗練させて、あのイナバウア~もマスターした、どうだ今年の大賞。
静香ちゃんねこになったら、ごほうび、弐萬円ものだね!?
ボクだってカラダ柔らかいから、やればできるじゃん。

グルグル回るネコじゃらしを追っかけたら、目がまわってヨレヨレ。\(@_@)/
たまには逆回転もしないと大変らしいと、コムスメともども気がついた。
フィギュアネコも、楽じゃない。

ラストの決め、観客に両手をかざしたはずがバンザイ・はりつけネコになってしまった。
やらせたママは、あまりのことに顔を隠してしまった。
ボク最近は温風ヒータの前で、じさまネコみたいな顔で寝てばっかりいるが、たまにはタイクツしのぎにヒト様と遊んでやるのもいいことだ。

誰にだって苦手なこともある。ボクは水を飲むのがヘタなのだ。
ピチャピチャ飲んだあとは、ハナのあたり水滴だらけですぐわかられてしまうのだ。
さすがにセンパイのタスケは、身づくろい顔つくろい、腕力にも一日の長あり、
温風ヒータ前の指定S席の取り合いでは、ボクはネコパンチ一発くらってしまったよ~。かれは、この夜も、ばかばかしくなってそっとカメラを避けたっけ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「七ツ森」の遊び場

2006-12-03 22:14:40 | ローカルな話題

先週の日曜、奥おおえ柳川温泉からの帰り「急いで帰んなきゃないことないでしょ?」と、寄り道したところは宮城県黒川郡の七ツ森、南川ダムの湖畔。
カナダの本物のログハウス、趣味のギャラリ「鍛冶屋」、アメリカンレストラン、あたりはゆったりした田園風景。
昔、力持ちの朝比奈三郎という大男が、弓の稽古の的にする山をつくるため、背負この「たんがら」に土をいれて7往復して的山をつくりましたが、休むたびに、こぼれた土でできたのが「七ツ森」。(「七ツ森のできたわけ

あれっ、顔見知ったかたが現れて、Hさんがここにいる!?
Iさんのお友達で蕎麦うち道具など作ってもらっている木工家。自然の木や枝を活かした椅子や家具も作るひと。ここのオーナとのおつき合いで、週末だけのお手伝い店番とか。ログハウスには彼の作品なども置いてある。
大木の壁には大鹿の剥製のあたま、屋根裏部屋には白い狼の毛皮がぶら下がっている、シッポふさふさ、あのブランカの!?分厚い木のテーブルは6人がかりで運び込んだ重さ。なかなかワイルド。薪ストーブも火が入れば、いい感じだなあ。

ハウスの崖下の傾斜地形を利用して、下が趣味のギャラリ「鍛冶屋」さん。この日は、オーナーの奥様がみずから店番、なかなかお元気。
おおっ、これはニョウボウやムスメが喜びそうなものばかり...
「うわー、、そうか、もうサンタさんですね~、こりゃ、ずいぶんお金使わされそうですね~」
「アーラ、ハハハ、それがこっちのねらいメだわよ~」
「写真?いいわよ、ド~ンド~ン撮ってェ」

あっちのほうはナ~ニ?
「レストランとしてお貸ししてるの、召し上がっていったら...」
ということで、アメリカ家庭料理「MONTANA(モンタナ)」へレン・ママご一家のお店。
軽くサンドイッチでもと思ったら「BIGサンド」、アメリカかあ。Iさんのほうは、かなりカロリーありそう!まあ、スポーツジムに700回行く人だし...
ここはレストラン内装も家具調度も料理もコーヒーも、雰囲気はアメリカン。
小物ギャラリーとこちらレストラン、首都圏方面からの客そしてレピータが多いようでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「地デジ」準備完了

2006-12-01 00:28:04 | テレビ・インターネット

いよいよ12月。数日前のオフィス近くの公園は落葉樹が最後の華やぎ。
きょう2006.12.1で、全国47都道府県で地上デジタル放送が視聴できるようになった。受信可能世帯数は全国4000万世帯、全体の84%をカバーできているとか。

十数年前できたわが新興団地は、テレビ視聴は「共同視聴・CATV施設」。住民1千世帯の管理組合で運営、ボクも長年役員をやっている。
TV放送の再送信のほかに町内の子供の行事やお年寄りの活動などの超ローカルな自主番組を自分たちでつくって3週間ごとのメニューで流す。

小高い山際など一部にテレビ難視聴区域あり、さらにアンテナ無しでの街並み美観確保のためだが、地上デジタル放送でも丘沿いの場所などで映らないところがあると判明した。対策案はいくつかあったが、最終的に地上デジタル波のUHF帯をスルーで各家庭まで再送信できるように770Mhz方式に改修しCATV施設と運営も継続することにした。
この春から本格的に準備開始、幹線ケーブルやアンプ取替の工事も先月10月末に完了、各家庭で普通の「地デジ対応」テレビさえつなげば映るようになった。理事メンバの調査勉強や組合員PR,コンセンサス形成など入れると数年がかりであった。

CATVは、衛星放送、多チャンネルペイテレビまでの取込みやインターネット用ライン共用などポテンシャルは大きいが、欲張らずに「地デジ」対応のミニマムサービスレベルの改修とし、付加的な機能は盛り込まないことにした。BSデジタルやペイテレビなどについては変換機器が要る方式になることやNHK再送信の先行きも不明で、組合員のニーズも整合が取れない。BSは個別アンテナで別のほうが、電源・ケーブル障害時など災害時のリスク分散になろうし。

さて、「地デジ」とはなんだろう?
D-pa社団法人・地上デジタル放送推進協議会サイトによれば...)

「地上波のUHF帯を使用するデジタルテレビ放送。地上デジタル放送では、デジタルハイビジョンの高画質・高音質番組に加えて、双方向番組、高齢者や障害者にやさしい福祉番組、暮らしに役立つ最新情報番組などができる。
走行している電車やバス等に設置したテレビでも、チラツキがなくきれいに受信・視聴することが可能に。
放送局では自分のところの1チャンネルを分割して2~3番組の同時放送も可能、
携帯情報端末等では、簡易動画やデータ放送、音声放送を受信・視聴するサービスも開始されている。(通称:ワンセグ)
また、地域に密着した放送が行われるので、その地域にお住まいの視聴者のニーズに合った番組が提供される...」

いいことだらけにPR、推進団体だから、あたりまえか。地域に密着した放送?これは地デジとは直接関係ないなあ、まあ衛星放送よりはマシではあろうが、ローカル局ががんばれば!?

テレビ放送もアナログ放送開始からすでに50年、新しいサービスができる将来見据えた方式への移行は必須、ベースになるインフラ整備もきっちりやっておくことは大事だ。クルマでもケータイでもインターネットでも最初は反対や評論家的意見が多かった。ブレークして一気に変わったほうが安くつくのだ。
この街中の公園もボクが前いた会社が寄付して四十年、落ち着いた風情になった。
ボクらの時代には「デジタル」と公園ぐらいしか、後世に残す遺産がなかったのかも知れぬ。

*******************
ボクにもわかる地上デジタル

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする