日野土地家屋調査士・行政書士事務所のブログです。最近は更新滞りがちだけど、もう1年半以上も続いてます!これで良いのだ♪

宮城県石巻市で土地家屋調査士・行政書士事務所を開業してる好事家オヤジです。ただコメント不可に設定してますので悪しからず…

パチンコ依存症の被災民

2012年06月28日 | 事件・事故・震災
先日テレビで震災後、パチンコに走る被災者の方が多くなったとの特集をしていた。石巻市内の某パチンコ屋が映っていた。画面をぼかしていたけど、私がいつも通る道の市内でも大規模なパチンコ店であることはすぐに分かった。被災者には同情するけど、一方ではこんな生活に走る被災民の人たちもいるなんて嘆かわしい…。
パチンコは娯楽ではなく、もう完全なギャンブルなんでしょう?儲かるわけがない、儲かるなら誰も仕事などしないで朝から通ってる。助成金・義捐金とはいったい何なのかをもう一度考えて欲しいな。仮設住宅や避難してるアパートからパチンコ屋に通い、あまり遠くない将来、気が付いたときにはどうなっているのか?

その番組では、母親が一日ようやく数千円働いて稼いでくる一方で、35歳の息子は毎日2万円ほどパチンコで遊んでくるとか言ってた。就職活動はしているけど、希望してるものが見つからないとか…でも、だからパチンコ屋通い?傍から見れば、ただの口実にしか聞こえない。3人の子供を幼稚園・保育所に送ってからパチンコ屋へ一直線の27歳の若い母親もいた。

被災へのお見舞いと早めの自立のために頂いたお金はギャンブルをするためのモノじゃないでしょうに…それをもしパチンコで使い果たしたとしたなら、もう誰も助けてなどくれません。私がいま仕事をさせていただいてる方の多くは、一日も早い復興と自立の為に懸命になっています。しかしその一方で、こんな残念な現実もあるもんなんですね…

震災地の観光?

2012年05月31日 | 事件・事故・震災
まだまだ津波の悲劇が癒されない昨今、私の親類や知人でもかなりの人が行方不明のままです。
先日の新聞にこんな記事が載っていました。大川小学校には子供達を亡くした親達が線香や花を手向けにまだ連日のようにお参りしているみたいです。そういったある日、ある観光客一行が陽気に笑いながら大川小学校を背景に何枚も何枚も記念撮影をしていたらしい。それを見た子供2人を亡くしたある親御さん、「子供達の思い出が残る学校は、このまま残して欲しいと思う反面、こんな人達が大挙して訪れる観光地にされるなら壊して欲しい!」と思ったそうだ。
私も南三陸町で若者達がすぐ近くで復旧作業をしているのに、被災地を背景に大騒ぎして写真を撮っていた若者グループを見たことがあって、「何考えてんだ?少しは被災地の心の痛みを察したらどうなんだ!」と頭に来た事があった。ボランティア活動で被災地を訪問してくれる一方で、心ない人がいるのも事実。被災地を自分の目で確かめるのもいいかもしれないけど、やっぱりまだ心の傷の癒えない被災者たちも大勢いるってことを心の隅に置いて行動をして欲しいと願いたいですね。


八幡平熊牧場

2012年04月26日 | 事件・事故・震災
熊の事件がありましたよね~。そこは親子で八幡平付近の日帰り旅行の際にどこか温泉に入って行こうと鹿角をウロウロし、志張温泉も良いよ!と地元の方に聞いたのでその時に見学はしなかったけど、すぐ前を通りました。youtubeで世界中の熊に襲われた動画なども上がってますけど、やっぱり危険な猛獣だし怖い。

たとえ犬だって怖い。私は10年以上前だけど現場付近で図根点(国土調査の際の多角基準点)の探索に苦慮していたときに犬に太ももを噛み付かれたこともあったし、お客さん宅の訪問の際に庭先で襲い掛かられて、寸前で逃れた事も何度かあった。鎖につながれていなかったら、確実に咬まれただろう。

愛玩用に見るとかわいいものですが、とにかく動物は危険なものなのだ…と常に思っていたほうが良いですね。100年ほど前にあった「三毛別羆事件」って怖い事件もあったし。うちの地方には幸い熊はいないけど、やっぱり宮城も西部の山地、あと遊びに行く事も多い秋田・岩手方面にいくときは山間部では少し緊張感をもたなきゃな。忌まわしい事件だし、画像はこういうのを上げておきましょう。


ちなみに三毛別羆事件ってこれです。悲惨な事件ですので、気の弱い方は読まないほうがいいと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

男は黙って○○○○ビール?

2012年04月06日 | 事件・事故・震災
ネットでは地元の地方紙の他、読売と産経をいつも眺めています。その読売に載ってた記事。
長野県の某村が3月に実施した中学生の海外研修で、生徒数人が宿泊先のホテルで酒を飲んだのを黙認したとして、村は引率した40歳代の男性職員を減給3か月(10分の1)と昇格を1年延ばす処分をした。海外研修は3月下旬に5泊6日で行われ、2年生8人と担任教諭、男性職員、通訳の計11人が参加。職員が夜にホテルの部屋で缶ビールなどを飲んでいた際、生徒数人が飲みたがり、最初は禁じたが勝手に飲み始めたのを黙認した。
職員は「酔っていてとめられなかった」と話しているという。村教委は「生徒の行為をとめられなかったのは残念で、申し訳ない。来年以降、海外研修を継続するか検討したい」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120404-OYT8T00565.htm

自分はお酒、全く飲まない口だから知らないけど、どこに行っても飲みたくて飲みたくて仕様がないものなんだろうか?まぁ飲んだ生徒も生徒だけど、旅行の時は監督責任者たる引率者の飲酒を禁止したら?酔っていてとめられなかったなんて、どれだけ浴びていたんだよ?って感じです。言い訳もイタイ引率者ですね。


カブトビールなんてのがあったんだ?始めて知った。若い頃にある雑学の本を読んでて知ったんだけど恵比寿ビール、昔ロシアだったかに進出しようとしたけど、ある理由で全く売れなかったそうです。なぜか??答えはエビスってロシア語で女性器の隠語だったらしいんです。ニヤニヤして買った御仁は当然いたでしょうけど、普通はやっぱり買うのためらうかもしれない。男は黙ってオ○○コビール!いや、男だったら黙ってられるワケがない(笑)記述が怪しくなってくる前に止めます(^^; 今日は記事を引用して、半分手抜きブログで終わり♪

去年の今ごろ

2012年03月17日 | 事件・事故・震災
このブログ、やっぱりどれだけの方が見てくれているのか、やってる以上は気になります。3週間分の総閲覧数と訪問IP数が見れるのでそれで単純に計算すると、1日に250回ほど閲覧されて、90人前後が見てくれていることになるんだけど…こんなくだらないテーマも目茶目茶なブログをそれだけの人が見てるなんてホンマかいな?まぁ数字を信頼して見てくれているんだと思い込んでしまうと、やっぱりまた何か書かなきゃ…と思う次第で今日も続けています。でもコメントにレスするのは以前に掲示板を持っていた頃、けっこう負担に感じた。だから一方的な好き勝手なる記述でコメントできないように設定しています。気楽です♪

さて昨年の大震災の後の今ごろ何をやっていたか先日、次女と話をした。女房は事務所から先に車で帰宅する事も多く、次女は仕事帰りに事務所に頻繁に寄ってはチョイと休憩したりネットしたりした後、私を車に乗っけて帰宅ってことがよくあります。自宅~事務所までは700mの距離だから、歩いても大したことないけどね。
今まで何度か震災のことに触れたけど、ダブることがあるかもしれないけど、そこは大目に見てください。
まず大震災直後、暖を取るために事務所の物置の隅に放置していた、長い間使わなかった石油ストーブを自宅に運んだ。白米もそろそろ無くなってきたから、明日の土曜日(12日)にでもお米を搗いてこなきゃなぁ~って女房と口にしてた矢先の大震災だった。食料として事務所にあった数個の冷凍ご飯を自宅に持っていった。そして地域にあった沢水を利用した簡易水道から辛うじてチョロチョロ出ていた水をでかいバケツ何個分も汲み置きして、当分の水の確保に努めた。普段はゴミや砂利も混じってるから利用しないんだけど、地域のこの沢水に救われましたね。

食料は全く調達方法が無かったが、今までの買い置きと近所の人と食料を分け合ったりして当面しのげたけど、場合によっては万一に備えて使わないでいた娘の軽自動車のガソリンがまだ3分の2ほど残っていたから、300Kmくらいは走れる。だから被害の少ない東北内地まで走らせて、隣町に住む同年の従兄弟と食料を調達してこようか?ってことも思っていたけど、どこも食料は不足気味だったみたいですね。
それととにかく暖房機器がストーブ一個だし寒い!通電するまでの9~10日間が長かったのなんのって…。でも通電しても灯油が不足気味だから、ファンヒーターも1台使えただけ。
自分は昭和30年代の石油ストーブもガスもまだ田舎には普及していなかった時代を微かに覚えていて、小学校の頃から薪割りなどをしていたから比較的斧や鉈の使い方も難なくこなしたけど、娘達にとっては未知のこと。鍋や釜でご飯を炊いたりと、少しだけ親父としての株を上げました。

不便だったけど非常時には幼少のころの昔ながらのこんな生活経験が役立ちました

ちょうど去年の今ごろが犠牲となった知人・親戚の情報が入ったり食料・灯油・ガソリンが枯渇しつつあった頃で、一番ショックで苦しいピークの頃だったなぁ。

あれから一年

2012年03月11日 | 事件・事故・震災
あの悪夢からもう1年が経つ、早いモンですね。
本日、つい先ほどの午後2時46分に黙祷を告げるサイレンが鳴り響きました。あらためて合掌…

この歌の5分過ぎから…もうみんな多くは語らなくなったけど、傷跡はまだまだ癒えることはないでしょう。
家族に乾杯でさだまさしさんが被災地のお寺で被災民に勇気付けたメロディです。



頑張っても頑張っても成果が出ず、そんなときには頑張れ!って言葉は過酷に響くこともあるだろうけど、だからと言って諦めちゃいけない。千里の道も一歩から。初めの一歩がなけりゃ何にも進むことはない。あと一年後には絶対にもっと復興してるでしょう。だから個人の力は微力でも、少しずつ確実に一歩ずつ頑張ろう!

石巻日日新聞のドラマ

2012年03月08日 | 事件・事故・震災
普段はテレビはほとんど見ない私ですけど表記のドラマ、6日の夜に見ました。未曽有の大災害、TVドラマではなかなか表現しきれないでしょうね…実際はあんなもんじゃなかった!って感も無きにしもあらずだったけど、本当に興味深く見た。
ガソリン・灯油が手に入らず、食料が売ってなく、私のところは新聞はじきに手元に来たけど、それでも人伝に飛び交う情報は真実かデマか全く分からなかった。通電した9日後に初めて映像を見、そしてその2日後に津波被災地をこの目で見たときの驚愕さときたら…
ドラマ見て思ったね。石巻日日新聞社の近江君を始め皆、報道家としてのプロ根性は凄かったんだって。
自分は何もできなかったです。自分等のことだけで精一杯…ということもありました。

絆の文字がクローズアップされた昨年。絆を英訳すると「bond」となるそうです。木工ボンドと同じボンド。友情の絆はbonds of friendshipと言うんだとか?今日はこの動画を載せておきます。



一年経つのか…いまだ時々信じられない気持ちになってくる。なんか今日のは支離滅裂な文章、ごめん。

辰形の松

2012年02月11日 | 事件・事故・震災

今年の干支は「辰」である。1月に気仙沼市の辰形をした松が話題になりました。う~ん、確かに見える…まんが日本むかし話のオープニングの小僧さんが乗った辰そのものの形をしていますね。
松のある場所は岩井崎。私の家族は震災前は十数年間に渡り、毎年夏にそこに遊びに行ったもんです。デジカメで撮ったの見てみたら、最後に行ったのは一昨年の7月10日でした。景色も最高のところだったけど、今どんな状態なんだろう?


岩井崎の潮吹き岩、地盤が下がったしどうなのか気になっていますが、ネットを検索したら無事に潮を上げているとのこと。また以前のように夏に観光として訪問できるのは、いったいいつの日になるんだろうかなぁ~。



岩井崎のすぐ北側に位置する気仙沼大島には「みちびき地蔵」という昔話があります。まんが日本むかし話でも放映されたこともあり、東日本大震災後には海外のサイトでも紹介され、この昔話が話題になりました。

亡くなる人の魂は前日にみちびき地蔵の前に現れるのだそうだ。ある日田植え仕事を終えた母親とハマキチという母子が、みちびき地蔵の前にたくさんの村人や牛・馬が地蔵の前に現れたのを見て、怖くなって家に逃げ帰った。次の日浜辺の潮が引いており、村人たちはそこで海藻をとっていたところ、山のような大津波が到来し、逃げ遅れた61名の村人と6頭の牛馬が亡くなってしまった。この大惨事を目の当たりにして、親子はみちびき地蔵で見たの出来事を「やっぱり本当だったんだ…」と思うのであった。

私はこのみちびき地蔵は見たこと無いけど、観光協会によるとこの地蔵も昨年の東日本大震災で流されてしまい、再建が練られてるそうです。

東日本大震災から10ヶ月

2012年01月12日 | 事件・事故・震災
次女は某飲食業の社員として働いている。見かけはおっとり型で落ち着いて見えるが、実際は私に似て結構ひょうきん族である。さてつい2~3日前に10人前後の女性グループがお店に見えたらしい。その中の4人ほどは見たことある顔…んっ?なでしこジャパンのメンバーの方たちでは?大野忍選手と近賀ゆかり選手だ!と気付いたらしいんだけど、まさかキャピキャピ騒ぐこともできない、あぁ~仕事じゃなけりゃ絶対にサイン貰いたかったのになぁ~!と残念がっていた。新聞やネット見たら、確かに彼女達は気仙沼市と石巻市へ慰問と復興支援の一環として、サッカー教室にきていたみたいです。

被災後、多くの有名人が石巻地方に激励に来てくれています。有名人達とそんなふれあいで元気を少し分けていただいた方も大勢いると思います。
去年の夏に石巻市北上町の現場測量の帰り、被災して壊滅した地区で小さなテントを囲んで十数人くらいが集まって何かをしていました。女房は被災民と瓦礫撤去作業の方たちへバーベキューでもしてあげてるのかな?と見えたらしい。なにしろ数十メートル先のテントの中、車で通過中だしハッキリしたことは分からない。
次の日に新聞で分ったんだけど、それは宇崎竜童さんが被災者や被災地で働く人たちへの激励のためのミニコンサートを開いてくれてたんだって。気付いていたなら私も宇崎さんのナマの歌を聞いて帰りたかったな。
石巻地方は瓦礫撤去と道路の復旧だけは随分と進んだけど、復興にはまだまだ程遠い現状です。私の地元の旧河北町は大川小学校の悲劇でも分るように、大川地区の集落・町並みの半分以上が無くなりました。川向かいの旧北上町地区も然り。昨日で丸10ヶ月、数キロ先の知ってる町並みの壊滅して悲惨な現状を見るたびに、まだ信じられない心境に襲われてしまいます。

震災時を振り返って

2011年11月27日 | 事件・事故・震災
やっぱり大多数の方々は、ご飯を炊くときは電気ジャーですか?我が家でもそうですけど、東日本大震災の時は電気がかなりの長期にわたって停電したから、当然電気の機器は使えなかった。
私は農家の育ちだったし、両親は夕方まで農作業。祖母が寝たきりだったため小学校3年の頃から炊事をさせられてきたから、今でも炊けって言われたら籾殻コンロやかまどでご飯も炊ける。


我が家はプロパンガスだったし、震災の時は鍋でご飯を炊いた。でも4歳下の女房は、電気以外でのご飯炊きが分らなかったみたいで、すべて私が任された。

具のほとんど無いチャーハンとか、あと冷たくなったご飯を蒸かして作った塩むすび、本当はご飯を蒸かすと水っぽさで旨味は落ちるんですが、そのときは美味かった~。毎朝起きると山水汲みと薪割りから始まった。湯を沸かしたあとはご飯炊き。田舎育ちゆえ、幼少の頃から鉈とか斧も使い慣れてたし、ナイフ一本持って野山を駆け巡り竹鉄砲作って遊んだりと、いま思えば野生児だったかな?それが非常事態のときは役にたった。

今年の3月は例年に無くかなり寒かったんですが、仕舞いには食う物も無くなりかなり辛かったです。お米もじきに底をついたし、食べられるものは季節感関係無しに食べた。小雪が舞う中、寒さに我慢しながらの冷やし中華もいま思えば美味かった。温かくして食えば良いじゃないかって?冷やし中華だけは温かいと酢でむせてしまうんで、ダメでした。あと有り合わせのモノを全て入れて作る団子汁やすいとん、これも美味かった~。

でも後で聞くと避難所生活の方々は食べるものが本当に無く、悲惨だったみたいです。不自由しながらもまだまだ私らは恵まれていたんです。近親者だけはガソリンがあるうちに安否を確かめられたが、仲間や知人・友人達の情報は全く入ってこなかった。先日ある会合が終わった後の会食時に、震災の体験を一人ひとりが振り返って話をしたんですが、「干し柿一個を家族で一口ずつ食べた」って聞いたとき、いくら自分等のためだけでも精一杯だったとはいえ、何もできなかったことにやや後ろめたさを感じてしまった。

今日はこのへんで終わります。またこのテーマで書くこともあるでしょう。