久々に歴史を題材に書いてみようと思う。源義経最期の地は吾妻鏡によると「衣川館」とされ、一般的に高舘の義経堂のある場所とされています。しかし近年はそこではなく、衣川そばにある「接待館」が最期の地ではないか?という説も有力視されつつあるとのこと。
私も奥州市衣川区の安倍氏・清原氏・藤原氏・金売り吉次ゆかりの場所には二度ほど探訪してきたけど、実際はどうなんだろう?何の根拠も無いけど、実際に行ってみるとどうもこちらの衣川流域のほうが正しいような気がするんだなぁ。詳しく調べたことは無いけど、義経堂は江戸時代に伊達綱村が祭ったものであり、義経最期の地として口承で一人歩きし始めたんじゃなかろうか?
ちょうど接待館と義経堂の間に位置する、平泉レストハウス裏手の駐車場端に弁慶立ち往生の地があり、国道を挟んですぐ弁慶の墓がある。そこ弁慶立ち往生の地から義経堂まで約600~700m、接待館まで1.5Kmほどあります。義経の自刃の邪魔をさせぬため、身を挺してその場を護ったにはどちらもちょっと離れすぎてはいないだろうか?まぁ伝説だから、その信憑性にも問題はあるのだが…。
春から次女が岩手県奥州市で生活する予定である。私も好きな岩手路に行く機会が増えるのではないかと思う。だから時には平泉近辺に寄って、思いを巡らしてみようかと思う。そうすると今まで疑問に思ってる点について、不思議にも「○○だったんじゃないかなぁ?」なんて考え(自己流の珍説)が浮かぶものなんだなぁ。
私も奥州市衣川区の安倍氏・清原氏・藤原氏・金売り吉次ゆかりの場所には二度ほど探訪してきたけど、実際はどうなんだろう?何の根拠も無いけど、実際に行ってみるとどうもこちらの衣川流域のほうが正しいような気がするんだなぁ。詳しく調べたことは無いけど、義経堂は江戸時代に伊達綱村が祭ったものであり、義経最期の地として口承で一人歩きし始めたんじゃなかろうか?
ちょうど接待館と義経堂の間に位置する、平泉レストハウス裏手の駐車場端に弁慶立ち往生の地があり、国道を挟んですぐ弁慶の墓がある。そこ弁慶立ち往生の地から義経堂まで約600~700m、接待館まで1.5Kmほどあります。義経の自刃の邪魔をさせぬため、身を挺してその場を護ったにはどちらもちょっと離れすぎてはいないだろうか?まぁ伝説だから、その信憑性にも問題はあるのだが…。
春から次女が岩手県奥州市で生活する予定である。私も好きな岩手路に行く機会が増えるのではないかと思う。だから時には平泉近辺に寄って、思いを巡らしてみようかと思う。そうすると今まで疑問に思ってる点について、不思議にも「○○だったんじゃないかなぁ?」なんて考え(自己流の珍説)が浮かぶものなんだなぁ。