※ 何かおかしい
死刑廃止が、先進社会の倫理であると、ときおり声高になる・・、
なにかおかしい。それが社会の有るべき姿だと私には飲み込めない。
もし、我が子が無慈悲に無残に人生を絶たれても、
社会は加害者の生命を尊重するということである。
そんな美しさを装った社会倫理に私は賛同出来ない。
被害者の生命は守れなかったが、加害者の生命は守るという論である。
こんな欺瞞を翳して、生命の尊厳と言い逃れできるのは人間社会だけだ。
戦争と殺戮なんて、その程度の欺瞞でとてもとても相殺できない。
生き物には、生きてるか、死んでるかだけしかない。
有るか、無いかである。
人間は、誰しもその生命を躍動させる時間を享受できる。
だが、被害者は突然、加害者によって無いにされるのだ。
当事者でない生きてる者たちは、
死んだ人間とそれを悲しむ者たちに、何も手を差し伸ることをしない。
同情の他に手立てがない。あげく冷淡である。法も誠に冷淡である。
だが、加害者に優しい。
他人を我欲のまま死に至らしめた者であっても、
その生命を守るべきだと言うのである。
加害者の人権と生命を、保護する方法だけが論じられる。
加害者を生命の勝者とすることが、社会の美しい倫理だと宣う。
社会の倫理はそんなところに有るのか、そうなのか?
たとえ、加害者が独房に閉じ込められようが、彼は有るのである。
彼は猛省して許しを乞うて、心新たに変身しようが、
被害者には無いだけがある。生と死のバランスは明白に取れない。
社会倫理の欺瞞そのものである。
加害者は無いで対価を払うのが、有るべき生命への道理ではないのか。
生命は億年経っても、個に一回だけ有るものである。
生命を軽んじているのは、
むしろ、死刑廃止を主張する者たちでなかろうか。
倫理の美談に醉うな。・・・と左様な視点はどうだろうか。
※ 心神喪失で、多数の死傷者を出しても、無罪判決になる法は果たして、
社会の正義なのか、死者に対してそれは正義なのか。
一切の罪が問われないなら、
死傷者は不運な生命の敗残者に貶められるだけか?
生命の尊厳は、惨殺された者には無用のものなのか?
法は決して生命に対して平等ではない。
つくづく、法は何を求めているのだろうと思う。
法の正義とはなんなんだろう。
生きてる者だけに示される、便宜的な処方箋に過ぎないのか、
しかも、無理やり編み出した量刑という屁理屈で勘定されている。
その屁理屈が、偏った生命の尊厳を、根底から歪めていないか。
裁判官は法の終身牢人であるから、決して、
檻の外に出ようとしないし、出られない。
そして、現存社会の妥協点を割り出して、権威としてしまう。
こういう判決に出会うたびに、居た堪れなくなってしまう。
※ 岸田内閣で、死刑囚の刑が執行された。
やはり、すぐさま死刑廃止論者が抗議の声明を出した。
私は、社会の法として死刑を廃止すべきではないと考えている。
死刑は執行されるべきと考えている。
被害者は命を奪われて運が悪かったね、でも殺人者の命は守らなくてはね、
それが目指すべき社会だよ。と死刑廃止論者は言いたいようだ。
計画的に無差別に殺人が行われる。
自暴自棄で他人に襲い掛かって命をあっけなく奪ってしまう。
恨み通して殺人におよぶ、金銭欲や、嫉妬から他者の生命を消してしまう。
残忍極まりない殺人が後を絶たない。
どんな背景があれ、おのれ中心の殺意で他人の生命を消すのである。
被害者はあっさり地球上から消し去られてしまう。
なんの言葉を発することも出来ない。
なぜだ!苦しい!という瞬間さえあっただろうか。
秋葉原の無差別通り魔、京アニの多数の死亡者、大阪ビルの放火事件の
多数の死亡者を知ってもなお、
死刑廃止論者は、加害が明白なる者の死刑に反対なのだろう。
なんと殺人者に優しいのだろう。
優しさが望まれてる場面は、社会の別な場面にたくさんあるというのに。
誤判の恐れを論拠とする主張や刑の執行の残虐性を彼らは喧伝する。
世界の潮流だとも言う。殺人者の人権を法は守れという。
彼らの言葉には、被害者の無念とその失われた生命の尊厳が言及されない。
生きてる加害者の今後の命を声高に守ろうとする。
社会の法は、宗教ではない。親鸞でもない。
加害者をなんとしても、生死の勝者にしたいのか。
かれら廃止論者は被害者をアンラッキーな人々として同情するだけのようである。
一人一人の人生の未来と重みを脇に置いて、ひたすら殺人者を死なすまいとする。
それが成熟した社会の目指すべき倫理と考えているのだろう。
あげく無残な死に方をした被害者は、冷淡にも統計上の数に加えられるだけだ。
規律があってどうにかこうにか社会の運営がなされている。
法を堅く守って人生を送っているのが人々の社会である。
最悪で残酷な罪に対し、なぜ法の原点を薄めようとするのか。
殺人という罪は、法のどのあたりにあるのか。
そこに社会の高みがあるというのか。倫理の遊びをするんじゃないよ。
人間愛を象徴する主張とは思えない。
ドブに蓋をするような倫理だ。究極の自己欺瞞である。
廃止論者は自分の家族が無残な被害の当事者になっても、
きっと加害者に向かって、安心しなさい死刑にはならないからと言えるのだろう。
神のようでもあり、無感覚な人だと思う。
悔悟や更生で生まれ変わるとしても、それこそが殺人者個人の利得である。
ここでも加害者の勝利である。
そんな微かな効果を、廃止論者や弁護者が手柄のことのように言うべきではない。
非情にも地球上から消されてしまった被害者にはなんの恩恵もないのだから。
世界の70%の国が廃止に向かってるという。
むしろ、それがはなはだしく妄想である。
社会の倫理に酔い過ぎてはいないか、
究極の罪の償いがないならば、悍ましい殺人行為は増え続ける。
刑務所は更正施設ではない。そう信じている美しい人々の幻想である。
宗教さえ諍いや暴力を誘発することが、世界中で頻繁に表出してるのに、
一方だけの生命尊重で、社会を美化しないでもらいたい。
そのうち、社会には刑務所が要らないと言い始めるのではないか。
社会の少数者や弱者を救済する、それが社会の成熟である。
殺人者は弱者ではない。
殺人者を生命の勝者にしようとするばかりじゃないか。
もし死刑廃止に目を向けるなら、被害者の家族が加害者を許した場合だけである。
判決に示される数量的な刑罰の基準さえ、根拠希薄である。
被害者の受けた人生の喪失にたいし、冷淡な基準でしかない。
死刑廃止の社会の未来図を描くのは、倫理のマスターべ−ションだと思う。
※ 量刑の基準がヘンだと思う判決が相次いでいる。
つまるところ、加害者を生死の勝利者にしてしまっている。
裁判官は、法の格子部屋に自ら入った牢人である。
世間の異変も感性も感知することなく、法の解釈だけに生きている。
崇高とは見えない、むしろ腹立たしく思う。
※ 罪を償う
生き方は、順法のみを基準にしてはならない。
法律は社会安全のための規制であって、
徳性の領域にあるものではない。
刑期を終えても、人として罪を償ったことにはならない。
法社会からそれ以上の制裁を受けないというだけである。
人生を見つめることをサボった人は、だいたい刑務所にいる。
人も社会もやっぱり性悪説が適っている。
だから法律がある。
だから性悪に流れないように喚起し続ける作業が必要である。