夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

共戦26

2011-12-15 17:28:38 | 小説「新・人間革命」
共戦26

 直井美子は、裏表のない性格で、率直に、言うべきことはズバリと言う女性であった。高校時代にはバレーボールの選手として、全国大会に出場したこともあり、活動的で明るく、面倒みもよかった。

 一九七二年(昭和四十七年)、県婦人部長となり、山口全県が彼女の“乱舞のコート”となった。そして、翌年に、梅岡芳実が山口県長に就き、二人は力を合わせて、山口広布を牽引してきたのである。

 懇談会の席で山本伸一は、梅岡に語った。 

 「梅岡県長は、直井婦人部長と組み、支えてもらったから、伸び伸びと力を発揮し、大きな発展の足跡を刻めたんだよ」

 「はい。おっしゃる通りだと思います」

 梅岡が言うと同時に、直井も答えた。

 「県長が一生懸命に戦われたからです」

 伸一は、微笑みを浮かべた。

 「婦人部長の、その気遣いがすばらしい。

 壮年と婦人の仲が悪い組織というのは、互いに、相手を立てることができないんです。

 実は、それは、双方共に、境涯が低いということでもある。どちらか一方が、大きな心で相手を包容できれば、意地を張り合うことなどなくなるものです。山口県は、直井さんが大きな境涯で、県長を包んでくれたことで、着実に発展することができたように思うね」

 梅岡は、大きく頷いた。彼自身が、それを痛感していたからである。

 山口県は、「長州の小提灯」と言われ、各人が独立自尊の意識が強く、地理的にも小都市が分散していることから、一つにまとまりにくい県民性であると言われてきた。

 梅岡は、鳥取県の出身で、中国男子部長、中国青年部長等を歴任してきたが、山口県と特に深い縁はなかった。皆には、“突然、県長としてやって来た”との印象があった。

 直井は、梅岡より数歳年長であったが、県長として彼を立て、懸命に守り支えてきた。

 地元生え抜きの、その県婦人部長の姿を見て、各地の功労者らも快く梅岡を応援し、山口の団結がつくられていったといえよう。

コメントを投稿