Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

百合子、ダスヴィダーニャ

2013-01-09 23:59:59 | 勉強会・ゲイプロ以外のイベント等
今月もダイニングバー Queer+s で映画を見てきました( Queer+s Movie Night と題された、月に1回開催されるイベント。基本的に第2水曜日 )
以前のこの会のことについて、このブログでも書いているので、よろしければごらんください。

トーチソングトリロジー (7月11日) 
ハッシュ! (8月29日) 
プルートで朝食を (9月12日)
ブエノスアイレス (10月10日)
・ あしたのバスタはアルデンテ (11月14日)


今回の映画は、『百合子、ダスヴィダーニャ』(浜野佐知監督作品)でした。

レズビアン(ならびにバイセクシャル)を描いた作品です。かつ、現実の人物のことを描いた作品でもあります。
僕はこれまでにレズビアンを題材にした映画を見たことがなく、「どんな感じなんだろう」と思いながら見に行きました。
ゲイとレズビアンは、同性愛者というくくりでは同じになるのですが、実は互いのことを全然わかっていないような気がします。
少なくとも僕はそうです。レズビアンのことってわからないことだらけですから。
バイセクシャルについても同様で、実のところ僕は全然わかっていません。
そんな感じなもので、お勉強(?)になればいいかなあという感じで、今回は参加させてもらいました。

さて、この映画のストーリーですが、上にリンクを置いた公式サイトから拝借することにします。

1924年(大正13年)ロシア語を勉強しながら、雑誌『愛国婦人』の編集をしていた湯浅芳子(菜 葉 菜)は、先輩作家・野上弥生子(洞口依子)の紹介で、中條百合子(一十三十一)と出会う。
百合子は17歳で「貧しき人々の群」を発表し、天才少女と騒がれた小説家。19歳の時に遊学中のニューヨークで、15歳年上の古代ペルシア語研究者の荒木茂(大杉漣)と結婚するが、芳子と出会った5年後には二人の結婚生活は行き詰まっていた。
お互いに惹かれあった芳子と百合子は、親しく付き合い始めるが、芳子は「私は、男が女に惚れるように、女に惚れる」と公言して憚らない女性だった。二人の情熱的な関係はリーベ(恋)かフレンドシップ(友情)か?
二人はディスカッションしながら関係を深めて行く。
しかし、それは荒木にとって生活の根底を揺るがすものだった。20歳でアメリカに渡り、15年間にわたって苦学した荒木は、百合子と結婚することによって帰国し、大学教授の職も得ることができた。芳子に百合子を奪われることは、なんとしても避けなければならない。
百合子,芳子,荒木の3人は、東京と、百合子の祖母が住む福島県の安積・開成山(現・郡山市)の間を往復しながら、異性愛と同性愛が交錯する愛憎のドラマを繰り広げる


湯浅芳子さんは真性レズビアンと考えてよいでしょう。「私は、男が女に惚れるように、女に惚れる」とご自身で言っていますし。
一方、中條百合子さんはバイセクシャルということになるのかなあと思います。この作品で描かれているように、荒木茂と結婚していましたし、後には共産党員の宮本顕治と結婚しましたから。
ストーリーをお読みいただけばわかるように、この作品は同性愛が織り交ぜられていることを除けば、よくある三角関係の話であるといえるでしょう。
つまり、《 湯浅芳子 も 荒木茂 も ともに 中條百合子 へ性愛を向けている 》という構図ですからね。
中條百合子がバイセクシャルの女性であったためにこの構図が成り立ったともいえるのかもしれません。
なぜなら、もし中條百合子が同性愛者であれば湯浅芳子を選び取って終わりであるし、異性愛者であれば湯浅芳子を性愛対象とすることはありえないのだから。

この映画でよいなあと思ったのは、異性愛と同性愛をともに自然なものとして描いていたところと思います。
どちらも当人にとっては自然な気持ちのはずなのですから、当然といえば当然なのですが。
人を好きになるのに理由なんてないですからね。理屈で人を好きになるわけじゃない。だから恋って不可思議でロマンティックなんでしょうね。
荒木茂の中條百合子を愛する気持ちは本物だと感じたし、湯浅芳子の中條百合子を愛する気持ちも本物だと感じました。
そして、板ばさみになって揺れ動いている中條百合子の気持ちもよく伝わってきました。

この映画は大正時代末期から昭和の初期にかけての時代を舞台として描いています。
そのため、モダンでハイカラな雰囲気が強く出ている映画でした。
少々、懐古趣味があるので、僕としてはそういう雰囲気を楽しむことができたと思っています。
また、会話の随所にカタカナ語を過剰に織り交ぜるような感じが、この時代の知識人っぽくていいなあと感じました。

男性登場人物が極端に少ないというのも、この映画の特徴といえるでしょう。
僕としてはいささかさびしい感じでした(^^;)
大杉漣が演じる荒木茂は、いい味わいを出していたと思います。かわいかったです。かわいいおじさんは好物です

同性愛について《 変態 》という認識は、当時の日本にはすでにあったと思います。映画の中にもせりふとしてはっきりと出てきました。
詳しくはわかりませんが、江戸時代以前の日本にはそういう認識はなかったのではないかなあと僕は思っています。
というのは、文学作品を読んでいると、江戸時代以前の日本においては、同性同士の性的関係はありふれたものであったように見えるからです。
そもそも、異性愛だとか同性愛だとかいう括りすらもなかったのが江戸時代以前の日本なのかもしれません。
ところが、明治時代に社会構造ががらりと変わり、身分制度が撤廃されたり、不完全な形とはいえ憲法が制定されて人権が保障された近代国家となりました。
それはもちろん、大きな目で見れば喜ばしい方向への変化といえるのだけれども、弊害も生んでしまったことでしょう。
その中に、同性愛に対する嫌悪感情や、それを変態や倒錯とみなす風潮が生まれてしまったというのももしかしたらあるのかもしれませんね。

僕にとっての異性愛は確かに異質なものです。自分自身が女性に恋をして、女性と性的な関係を結んでなどということを考えれば、「ああ、ありえない(><)」となります。
やっぱり僕にとっては同性愛が自然であり、当たり前のものです。とても尊いものでもあります。いずれにせよ、僕は《 男に恋する男 》として生まれたし、これからもそういうポジションで生きていくことになるでしょう。
ただし、それは異性愛を否定するものではありません。
むしろ、僕は異性愛を尊重します。なぜならば、(人口の大多数を占める)異性愛者にとって、異性愛は自然なものであるし、尊いものだと思うからです。そう、僕にとって同性愛が自然で当たり前で尊いものであるのとまったく同じように。
だから、僕は、僕自身の同性愛を認めてほしいし尊重してほしいから、異性愛も認めるし尊重していきます。
そこに優劣などないと信じています。
異性愛が同性愛より尊いわけでもなければ、同性愛が異性愛よりも尊いわけでもない。どっちも同じように各人にとっては尊いのだから。

このあたりのことは、以前から考えていたようなことですが、この映画を見ながら、あるいは見終えた後にいろいろな対話をしながら、あらためて考えたことです。

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