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狂歌・落首編 その2

2011-06-02 22:10:12 | 戦国時代考証
狂歌・落首編 その2(天正年間以降)
ここでは戦国後期(天正年間以降)に関する狂歌や落首などを、管理者の独断によりピックアップしてご紹介します。横書きご容赦下さい。


 かぞいろとやしなひ立てし甲斐もなく いたくも花を雨のうつ音
 

これは天正元(1573)年、将軍足利義昭が信長に反旗を翻したときに京に見られた落首である。義昭は信長の力を借りて将軍となり、初めは良かったが次第に自分の意のままにならないことに不満を持ち、前年に信長から十七箇条に及ぶ意見書を突きつけられたのをきっかけに行動に出るが、結局は二条城を攻められ和議を結ぶ。(『信長公記』)


 日の本に隠れなき名を改めて 果は大野の土橋となる
 

天正元(1573)年八月、越前国主朝倉義景は一族の景鏡に裏切られて大野郡山田荘賢松寺で自刃した。信長から自領の大野郡を安堵された景鏡は土橋信鏡と改名して再出発を目論むが、翌年数万の一向一揆勢に狙われ、平泉寺衆徒を率いて戦うが討死してしまう。これはその際に大野郡で歌われたという、景鏡のことを皮肉った狂歌である。


 おさめしるその源もながれずば すみかはるべき時やきにけん
 

これは狂歌ではないが、天正元(1573)年九月、源義家が自ら彫刻したという肖像を本尊とする美濃持是院という寺で、兎庵という人物が詠んだ歌である。平氏を名乗る織田信長の、草木もなびくその強大な権勢を目の当たりにして、源氏の勢力もついに衰えるべき時が来たのであろう、という思いを詠んだ歌である。(『美濃路紀行』)


 やきだされあたりにみちてうるさしや なにかせかかせさてはもうかせ
 下京は太子のてきにあらねども みな家ごとにもりやなりけり
 

天正元(1573)年七月、織田信長は槇島城を落とし足利義昭を河内に追放するが、この一連の戦いで京都上京一帯は信長により焼き払われてしまった。これは天正二(1574)年の正月末頃に復興中の京都で詠まれた落首で、初めの歌は下京の民衆が上京に宛てて送ったもの、次の歌はそれに対する上京からの返歌である。(『尋憲記』)


 桂田と富田二段の争いも 果はかまにてほくびきられぬ
 

これは天正二(1574)年に越前で起きた争いを皮肉った狂歌である。朝倉家を寝返った富田長秀(長繁)は、信長の長島一向一揆討伐時に戦功を挙げるが冷遇されたため、同じく寝返った桂田長俊(前波吉継)の出世をねたみこれを攻め滅ぼした。その上魚住景固父子まで謀殺したため人望を失って一向一揆勢に狙われ、対峙中に味方に裏切られて狙撃され哀れな最期を遂げたという。


 信長はいまみあてらやいひはざま 城をあけちとつげのくし原
 

天正二(1574)年正月、武田勝頼は大兵を率いて美濃に侵入、わずか一ヶ月半の間に信長方の十八の城砦を抜いた。これは戦勝気分にわき返っている武田軍の陣中で詠まれた戯れ歌といい、「いまみ(今見)」「あてら(阿寺)」「いひはざま(飯羽間)」「あけち(明知)」「くし原(串原)」と、武田勢が抜いた城が詠み込まれている。(『甲陽軍鑑』)


 信玄のあとをやうやう四郎殿 敵のかつより名をはなかしの
 

これは「四郎殿」(武田勝頼)が天正三(1575)年の長篠の戦いで織田・徳川勢に壊滅的な大敗を喫し、数多くの重臣を失って帰国した際のものである。高坂昌信が民衆に敗戦をさとられないように、準備しておいた旗や槍などを持って迎えに行ったが、結局は隠し通すことはできず、札にこのような落首が書かれ立てられたという。(『甲陽軍鑑』)


 勝頼と名乗る武田の甲斐なくて 軍(いくさ)に負けて信濃わるさよ
 

これも長篠の戦いに関する落首である。一説に勝頼は、馬場信房をはじめとする譜代重臣たちからの「自重されますように」との意見を退け、面目にこだわって決戦を挑み大敗したという。余談だが、重臣筆頭の馬場信房は無理矢理勝頼を甲斐に退却させて踏みとどまり、刀の柄に手を掛けたまま抜きもせず討たれたと伝えられている。(『松平記』)


 上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長
 

これは天正五(1577)年の加賀手取川の戦いに関する京童の歌である。この戦いで信長勢は上杉謙信から追撃され、増水した手取川で溺死する者数知れずという大敗を喫したのだが、後ろに続いていた信長は、前線が退却を始めるやいなや、ただ一騎逃げ帰ったという。「はねる」「とぶ」という言葉が、勢いに乗って追撃する上杉勢と、飛ぶように逃げ帰った信長の様子を上手く表している。


 あら木弓はりまのかたへおしよせて いるもいられず引もひかれず
 なにしおふさよの朝霧たちこもり 心ぼそくもしかやなくらん
 

これは天正六(1578)年の播磨上月城の戦いの際、五月晦日付けの陣中からの以徹宛て書状に吉川元長(元春嫡男)が書いた狂歌である。荒木村重の謀反で播磨に立ち往生した秀吉の様子と、もはや落城は時間の問題の上月城の様子を詠んでいる。「さよ」とは上月城のある佐用郡を指し、鹿介はさぞ心細くて泣いているだろうという意味である。なお、余裕であろうか、これに続いて元長は「一笑々々」とも記している。(『吉川家文書別集』)


 いくたびも毛利を頼みにありをかや けふ思い立つあまの羽衣
 

天正六(1578)年十月、荒木村重は突然信長に反旗を翻して有岡(伊丹)城に籠もり、翌年九月には包囲をかいくぐって尼ヶ崎城へと脱出した。これはその際、村重を翻意させるよう信長から命じられた一族の荒木久左衛門が、尼ヶ崎城に赴くにあたって詠んだ狂歌である。「毛利勢の援軍を心待ちにしていたが無駄であった」という無念の思いがにじみ出ている。(『信長公記』)


 無常やな国を寂滅することは 越後の金の諸行なりけり
 

天正六(1578)年三月、上杉謙信の急死により上杉家に御館の乱が勃発した。北条氏政は武田勝頼に弟景虎救援を依頼するが、勝頼は一旦出陣したものの、黄金一万両などの条件で景勝と和睦、ために景虎は滅ぶ。これは金に目がくらんだ勝頼が、平家物語にある「諸行無常の鐘」のように、無情にも景虎と領国までをも「金」で滅ぼしたことを皮肉って甲斐三日市場に立てられた落首という。(『小田原北条記』)


秋風にみなまた落つる木の葉かな 寄せては沈む浦浪の月
 

天正八(1580)年八月、島津義久は大軍を動員して肥後水俣城の相良義陽を攻めた。これはその際に見られた矢文合戦における歌で、上の句は島津勢が城内に射込んだもの、下の句は城内からの返歌である。しかし「寄せるなら寄せて見ろ、逆に沈めてやる」と言い放ったものの、程なく義陽は嫡男忠房と二男頼房を人質に差し出して降伏する。


 金銀をつかい捨てたる馬ぞろえ 将棋に似たる王の見物
 

天正九(1581)年二月、織田信長は京都の御所東門外において正親町天皇の御前で大馬揃え(観兵式)を行った。各大名のそれぞれ贅をつくした出で立ちは京都の人々を驚かせ、古来例のないことともっぱらの評判であったという。これはその際、各大名の金銀ちりばめた華やかな装いを、金・銀・馬(成り角)・王と将棋の駒に懸けて詠んだ歌である。(『醒睡笑』)


 心知らぬ人は何ともいはばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
 

これは天正十(1582)年六月の本能寺の変の直前に明智光秀の詠んだもので、家康の接待役を急遽降ろされて毛利攻めを命じられた光秀が、積年の恨みと先行きの不安から家臣の進言を容れて謀反を決意し、安土から居城の近江坂本城へ戻った際に詠んだ歌と伝えられる。(『明智軍記』)


昨日まで城の修理した勝家が 今日は柴たく灰と成りけり
 

これは天正十一(1583)年の近江賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、居城の越前北ノ庄城で自刃した柴田勝家について、後日秀吉から一首を求められた細川幽斎が歌ったものである。「城の修理」に勝家の官称修理亮を、「柴たく」に柴田をかけ、「灰となりけり」で自刃後城が炎上した様子を伝えている。(『細川家記』)


何事もかはり果てたる世の中を いかでや雪の白く降るらむ
 

天正十二(1584)年十一月、羽柴秀吉と上杉景勝に挟まれて窮した佐々成政は、家康に救援を求め厳寒のさらさら越え(ザラ峠越え)を決行、苦難の末に浜松にたどり着く。しかし時すでに遅く、家康も織田信雄も成政の申し出には応じなかった。これは悄然と帰国した成政が富山に帰り着いたときに詠んだもので、落胆した様子がよくにじみ出ている。


 備前もの身はなまくらか知らねとも 堤や岩は大切れぞする
 

天正十三(1585)年四月、紀州討伐に赴いた羽柴秀吉は太田左近宗正の籠もる太田城を水攻めで落としたのだが、包囲中に宇喜多勢の持ち場の堤が切れて水が逆流、多数の溺死者を出す事件があった。これはその際に紀州方で詠まれた狂歌で、「備前物(の刀)はなまくらだが、(武者は切れないくせに)堤や岩はよく切れる」と秀吉勢を嘲ったものである。(『根来焼討太田責細記』)


 徳川の家につたふる古箒(ほうき) 落ての後は木の下をはく
 家康のはき捨られし古箒 都へ来てはちりほどもなし
 

これは天正十三(1585)年十一月に徳川家を出奔して秀吉の下に参じた石川伯耆守数正に関する歌である。「古箒」とは「伯耆」にかけて老臣数正を指し、「木の下」は秀吉の旧姓にかけている。しかし彼はのちに信濃松本八万石を与えられており、そこそこの待遇はされていたのだが、やはり「裏切者」的イメージがあり、こう皮肉られたのであろう。(『改正三河後風土記』)


暮るるまで押しねやしたる御そく飯 世々の継ぎ目を違えじがため
 

天正十四(1586)年十一月、後陽成天皇が即位した。即位の礼当日は多数の拝観者が集まるが、延々と儀式が続き、夜更けになってもまだ終わらないでいた。この歌はそれを皮肉ったもので、「そく飯(飯粒を潰して作った糊)」を即位にかけている。「押しねやす」とは、飯粒をへらで押しつぶして良く練り、粘り気を増すことをいう。(『醒睡笑』)


二た世とは契らぬものを親と子の 別れむ袖の哀れをも知れ
 

天正十五(1587)年五月、秀吉の大軍の前に抗しきれず、ついに島津義久は剃髪し龍伯と改め降伏する。その際に義久は娘を人質として差し出したのだが、これはその際に詠んだ歌である。後にこれを知った秀吉は、戦国武将ではなく娘を持つ一人の父親としての義久の心情を推し量り、人質の娘を義久の元へ返したという。


 上ひげをちんちろりんとひねりあげ 口のあたりに鈴虫ぞ鳴く
 

これも上の歌と同じく島津義久が秀吉に降伏した際に詠まれた狂歌である。最後まで抵抗した大口城主新納忠元は、義久の命を受け頭を丸めて秀吉のもとに伺候した。忠元が秀吉から下された大盃に注がれた酒を飲み干した際、口ひげがかすかに鳴ったのを聞きつけた細川幽斎がこの下の句を詠んだところ、忠元は直ちに上の句を付け、居並ぶ諸将を感心させたという。


 在陣をするがのふじの山よりも たかねにかうは馬のまめかな
 

天正十八(1590)年三月、秀吉は全国の大名を従えて北条氏政・氏直父子討伐に出陣、小田原城を包囲した。長陣を嘆いたある人が「曾我兄弟が昔、水の他は馬に与える飼葉もないと貧窮を詠んだが、今の自分は正にそれだ」と嘆いたところ、これを聞きつけた秀吉の右筆大村由己が詠んだ歌だという。「たかね」は「富士の高嶺」と「飼料の高値」にかけられている。(『醒睡笑』)


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