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【序】桶狭間の戦いの研究史

2011-06-24 22:08:12 | 戦国時代考証

【序】

 

  1. 桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.0618改訂)
  2. 『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
  3.   (2009.03.27 追加分、2010.06.18改訂)    

   

(1)桶狭間の戦いの研究史  (2008.08.10~、2010.06.18改訂)

後に天下を獲る信長が世に出る契機となった桶狭間の戦いに対する学術的な興味は、今川義元の征西した目的に尽きるのだが、それも後に信長が天下を獲ったことに関連して、義元も上洛の意図があったのではないかと思われたことにある。
これに対して、世間の興味は小兵力で大敵を打破った痛快さがあるため、常に信長の勝利の「Howe to」に向けられてきた。
しかし、歴史学会は長く戦史の研究には関心を示してこなかったため、明治期に創成国軍の将校育成を目的に編纂された、日本戦史の叙述を無批判に受容してきた。この明治国軍による桶狭間の戦いの研究は、先進列国に日本が勝利するための必須戦術として、「迂回による奇襲」の可能性を常に模索すべきことを、将校に教育するために編まれたものである。
ところが、1982年に『歴史読本』誌上で藤本正行氏によって「異説・桶狭間合戦」として、学術的に取り扱うべき一方法が提言され、それによると世間に喧伝された迂回奇襲説は成立しえず、正面攻撃でなければならないとした。しかし、論争らしい論争は起こらず、一方的に藤本正行氏が自説を繰り返すだけで推移してきた。それが、藤本正行の『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)や、その後改題して出版された『信長の戦争』(講談社)により、これもさしたる論争もなく氏の正面攻撃説は広く受け入れられるようになった。従って、最近では、藤本氏の「正面攻撃説」に反論を唱えられることはないのだが、如何せんこの藤本氏の説では、合理的に信長が勝利でき義元が討死したことを説明できないため、未だに終結を見ていない。
藤本正行氏の功績は、桶狭間合戦に関しての一次資料は殆どなく[1] 、歴史家の検証に応えられる記録史料は『信長公記』しかないということを思い出させたことにあり、その方法論は正しいものである。ところが肝心の牛一は、「来た。見た。勝った」[2]としか書いていない。それだから、信長は正面から攻撃して勝ったと言えるのだが、それだけでは誰も納得していない。納得するには彼我の兵力差があまりに大きすぎるからである。そして、『信長公記』も藤本氏の一連の著述もその兵力差[3]をいかにして解消したかについて、合理的な説明を欠いているからである。おまけに、今川義元が千秋・佐々らとの前哨戦を観戦できる山上にいたらしいうえ、その山の麓は深田で進退困難な節所であるというのに、信長勢は易々と義元本陣に迫れたという地形上の問題[4]についても、何の説明もないのである。
誤解をするといけないから、紹介しておくが、藤本氏はちゃんと桶狭間の勝敗の原因について考察されている。その藤本氏の義元敗因とは、「義元が矛盾する二つの目的を持っており、それに優先順位をつけていなかった」ことにあるとされ、それはミッドウェー海戦の日本海軍機動部隊の失敗と同型であるとされている。ミッドウェーでの日本海軍機動部隊は、本来は敵機動部隊を誘致してこれを補足撃滅することが目的であったのだが、索敵に失敗していたために、本来は餌にしていたはずの第二目的を主目的に切り替えてしまうという失策をしでかしたのである。その様な行動をとった背景である経済的な原因は、当時の日本の国力が再度の作戦を許さなかったことにある。それだけでなく、敵が罠に掛るまでじっと待つという事は、日本軍には陸軍も海軍も許されてはいなかったのである。ここに、当時の日本軍人全ての行動を深層で規定するものがあった。旧帝国軍人には一切の余裕はなかった。しかし、通説によるかぎり、今川義元には十分な時間も兵力もあったはずなのである。
ところで、藤本正行氏の主張のうち、(1)義元本陣は高所にあった。(2)信長は正面から攻撃した。という二点については、現在反対する論者はいない。しかし、藤本氏のいわれるように、『信長公記』を一級史料として認めたとしても、牛一の記述が簡潔な文章であり、地形に固有名詞の存在しない地域で戦われたため、そこにある事実は余りにも少ない。従って、戦いの地理的な推移は想像するしかないのだが、信長の勝因・義元の敗因には、一般に納得できる合理的な解釈が提示できないでおりそこから藤本氏が導き出した内容についても、未だに追試・再検証されていないという問題がある。
現在、藤本氏の方法論は広く受け入れられているものの、藤本氏が漠然と示唆した桶狭間合戦の解釈は、到底受け入れられるものではなく、現在は、(1)小和田哲夫氏の『桶狭間の戦い・信長会心の奇襲作戦』(学習研究社・1989)による正面奇襲説、(2)谷口克広氏の『歴史読本・10.06』の東海道上合戦説は牛一の記述する方角に対して整合性を得ようとして唱えられた説である。(3)同様に、牛一の記述する「東」に呪縛された結果、桶狭間山を桶狭間村から離れた場所に求めたものに、藤井尚久氏の高根山説・漆山説、藤本正行氏の高根山説。(4)参謀本部の迂回説を踏襲したものに梶野渡氏の釜ヶ谷待機説、橋場日月氏の鎌倉街道説、江畑英郷氏の飢饉説などがある。その他、(5)黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説や桶狭間山西方の道なき丘陵地帯を踏破するもの、側背から攻撃するための迂回を提示したり、水野信元や徳川家康の裏切りを主張するという説まで存在する。
また義元の西上目的も大きな謎である。久保田昌希氏が『駿河の今川氏(1978)で上洛説に疑問を呈し、『歴史と人物・s56.08』(1981)で三河一国の完全支配尾張への領土拡大のための軍事行動だったと主張された。その後、小和田哲夫氏が『戦国今川氏』(静岡新聞社・1992)で尾張制圧説を唱え、藤本正行氏が『信長の戦国軍事学』(宝島社・1993)で鳴海・大高城後詰の単なる国境紛争を主張して上洛説を否定したことにより、現在では上洛説を採る研究者はいないが、義元の西征目的については未だに決着を見ていない。
現在、桶狭間合戦に対して問題とされているものには、(1)少数の信長が大軍の義元を正面攻撃で討ち破れた理由。(2)『武家事記』の言いだした簗田出羽守の情報と褒賞(沓掛城)は真実か。(3)千秋・佐々らの無謀な突撃の理由は何か。(4)水野信元の行動は如何様であったか。その他、(5)両軍の兵力と、それに関連して、丸根・鷲津砦攻撃を行った部隊は松平元康隊以外にはいなかったのか。(6)義元本陣に関連して桶狭間山の位置。などがある。
これ等以外に、新たに浮上した問題は、『甲陽軍鑑』の史料価値の見直しを迫る黒田日出男氏の乱捕状態奇襲説の登場や、桐野作人『歴史読本2001.11』で尾瀬甫庵の記事は『天理本』を典拠にした可能性を示唆しておられ、これによって軍記物を含めた史料の取り扱いを見直す必要も考えなければなくなってきているだけでなく、歴史学者以外の研究者から、実証は欠くものの、義元の目的に関連して、伊勢湾海運の見直しを迫るものや、弘治・永禄初年の飢饉の影響などをも考慮すべしという提案もなされるに至っている。
  
(2)『信長の戦国軍事学(信長の戦争)』藤本正行の方法論上の問題 (2007.12.12 追加分を移行、2010.06.18改訂)
(イ)<地理情報の問題>  『信長公記』の記事が少ないのは確かなのだが、牛一が「書けなかった」のか。または、「書く必要がないほど自明なこと」であったのか。これらについては検証されていない。例えば、道は鳴海道(鳴海~桶狭間)の他には、鎌倉街道と近世東海道しかなかったならば、これは説明を要しないし、もともと地名がなくて説明できない場合も考えられるのだが、現在の研究者は中島砦から山際の間、および山際から信長の最初に接触した義元勢との間について、情報不足であると一様に感じている。これなどは、当時の地理情報からして牛一がそれ以上には書きようがなかったのだという立場に立って、冷静な解釈をする必要があると思われる。
一般の論者は、信長軍には、道が無かろうと、錯綜した丘陵地であろうと、何処でもお構いなしに踏破させてしまう傾向がある。そのうえ、所要時間という観念を欠いていることもあって、牛一が態々時刻を記載していることを無視してしまっているし、伊勢湾の潮の干満まで書いてあるのだが、その意味についても殊更には考えられてこなかった。戦場になった桶狭間山についても、特定できる固有名詞を持つ山が存在しないこともあって、無闇に想定範囲が広げられており、藤本氏は平子が丘辺りまでをその範囲におさめる[5]のだが、これらは、自身が主張される「牛一の地理に関する記載は正確である」という前提からすると、牛一が「戌亥に向って人数を備へ」と書くことを踏まえるならば、矛盾する結果になっているさらに現在では、中島砦の南にあたる漆山までをも「桶狭間丘陵」などと名付けることによって範囲が広げているものもある。また、方角に関する記載も藤本氏の主張に反して、一概に信用できるものではなさそうであり、改めての検証が必要だろう。
(ロ)<方法論の矛盾>  これ以外には史料がないのだから、真摯に扱わねばならない『信長公記』も、極めて恣意的に扱われる傾向がある。その最たる例が、藤本正行氏自身によってなされている。氏自身が一級史料として認めるべきだとした『信長公記』に記載された内容を、将に当人が恣意的に切り捨てた事実があるばかりでなく、現在に至るまでそれが看過されるのみならず、諸人は無批判に追随してきているのである。
これは、信長が中島砦から今川本陣に向かって将に出撃せんとしたときに麾下の将兵を鼓舞するために向かって行った演説[6]なのだが、藤本氏は「信長の思い込みによる誤認」と決めつけ、それに続いた多くの研究者も、信長の戦況誤認だとして片付けている。
『信長公記』を一級史料として扱う以上、最も重大な信長自身の判断を無碍に誤認だとして切り捨てる前に、それが正しいものとして真摯に受け取る姿勢が必要なのではないのだろうか。第一、信長の判断が間違いであったというような根拠は、『公記』の何処にもみられない。藤本氏の認識は、徹頭徹尾藤本氏自身の思い込みによるものでしかないように思われる。……この問題については、別に「信長の戦況判断」章で論じる。


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