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芭蕉の発句アラカルト(14) 高橋透水

2022年09月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あられきくやこの身はもとのふる柏  芭蕉

 天和三年、四十歳の作。前年の暮に芭蕉庵が焼失し、甲斐の谷村に流寓したが、夏に芭蕉庵の再興の話が出た。この間に郷里で母が亡くなるという不幸にあっている。伊賀上野の菩提寺愛染院の過去帳に、「梅月妙松信女天和三年六月二十日松尾半左衛門母儀」とある。一説では芭蕉の母は初代新七郎家当主藤堂良勝と宇和島の女との娘であるという。二代目藤堂良精は良勝の他の女との子で良忠(蝉吟)はその子息である。とすると芭蕉と蝉吟は共に良勝の血筋にあたることになり、芭蕉の出仕の謎解明のとっかかりになりそうだ。それはさておき、母の訃報にかかわらず帰郷しなかったのは必ずしも火災にあっただけでない事情があったのだろう。
 江戸に帰ってきたものの芭蕉に住むところがない。しばらくは知人や杉風などの世話で点々としたようだが、やがて門人や近隣の人たちが協力して芭蕉庵を再興することになった。天和三年の冬に一年振りに芭蕉庵が再建されたのである。
 「あられきくや」はその時の芭蕉の感慨である。つまり再建された草庵に入ったときに「ふたたび芭蕉庵を造りいとなみて」と前置きして、
  霰聞くやこの身はもとの古柏
と認めたのである。その句意は、
 「外は屋根や枯葉に霰が当って大きな音をたてている。こうして庵が再建されたが、その住人たる私はそれ以前の私と何も変わりはしない。まるで柏の古葉のように危うい身であるが、それでもようやく安堵できそうだ」くらいだろうか。またさらに芭蕉庵再建に寄付をしてくれた門人知友たちへの謝意も込められているようだ。
 山口素堂の記録した再建時の寄付のリストをみると、高弟から近隣の人たちまで五十二余名が寄付した金銭と物品名が克明に記されている。これによって以前の住まいより立派なものになった。が安住の地と思いきや芭蕉は旅に思いを馳せ、翌年野晒しの身を覚悟に旅にでた。これは蕉風開眼の旅ともなった。
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