プログラマー兼テクニカルライターである石川直太 (いしかわ なおた) のブログです。哲学からゲームまで。
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いろいろありますが、メリークリスマス
2018年待降節
石川直太 (いしかわ なおた)
naota@neo-zion.sakura.ne.jp
義のために迫害される人々
聖書にこう書いてあります。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」 (マタイ5:10) この御言葉を、故・翁長沖縄県知事に捧げます。弔問と座り込みにお伺いする時間がなかったので、「翁長さんへのお香典の代わりに」という言葉を添えて、辺野古基金に募金しました。
教会への献品
受洗20周年だった2014年のクリスマスには、ジョン・ポーキングホーン著、小野寺一清訳、「科学者は神を信じられるか クォーク、カオスとキリスト教のはざまで」、講談社ブルーバックス、2001年という本を、教会へ贈りました。著者はイギリス国教会司祭兼物理学者です。すると、東梅田教会の小豆 (しょうず) 牧師から、「科学と信仰の両方を持っている方が、人間のために科学を使ってください」と、天命を示していただきました。これが、地球環境市民会議と原子力市民委員会を応援する理由のひとつです。理工系の教育を受け、何らかの信仰を持つ者にとって、「科学者は神を信じられるか」は、自分の生き方に関わる問題です。
今年のクリスマスには、ジョン・ポーキングホーン著、本多峰子訳、「自然科学とキリスト教」、教文館、2003年という本を、教会へ贈ります。理工系の求道者様のご参考になれば幸いです。
最もありがたいこと
教会へ献金したからではなく、全ての人が無条件に等しく神様に愛されていると気づいた時に、ありがたさに涙が出ました。世界は神仏の愛に満たされているはずで、それに気づく人が増えれば、世界はもっと良くなるはずなのですが。人間の憎しみがあまりにも強いと、神仏の愛を覆い隠してしまうのでしょうかと、新聞を読みながら考えました。
ヨミドクター
日本国憲法をめぐっては、読売新聞と対立していますが、医師らが執筆している「ヨミドクター」には考えさせられます。親の宗教的理由で子供への輸血が拒否された際の、小児外科医の苦悩を読みました。信教の自由は本当に善なのか、子供の命は誰のものなのかと悩みます。輸血を認める宗派に属し、養子を受けいれる余裕がある家族が、当番弁護士と一緒に待機し、輸血を拒否された子供の里親に立候補するのはいかがでしょうか。
積極的不可知論
立花隆「宇宙からの帰還」中公文庫の305ページで、宇宙飛行士のエド・ギブスン氏が次のように語っています。
-- すると、あなたの場合には、宗教を信じているというよりは、 むしろ不可知論。
「そう、一種の不可知論ではある。しかし、 そんなことはわからんと投げ出す不可知論ではなく、 わからないのが正しいとする積極的不可知論だ。 そして私は、この不可知論の中にほんとの宗教性があると思っている。 なぜかはわからぬが、この我々の宇宙はとてつもなくよきものである。 そういうものとして我々の前にある。それでよいではないか。 そこから出発しようというのが、私の基本的な立場だ。」
星空に涙する時に人間を超えるありがたい存在を感じますが、それが、単数か複数か、男か女かどちらでもないか、自分には解からないし、解からなくて構わないというのが、私の積極的不可知論です。
社会情勢について
安倍首相は、「日本を守り抜く」と頑張っていらっしゃいますが、力で国を守って幸せになるのは、軍需産業だけです。日本に海兵隊はいりません。軍縮を軸に、野党共闘で対抗したいです。
米朝和解も、南北統一も、核兵器禁止条約も、一日では実現しません。遺骨返還、離散家族再会、軍事演習縮小などを通して、一歩ずつ進めるしかありません。日本政府の最大の役割は、和解の邪魔をしないことでしょうか。
外国人労働者の皆さんを、奴隷としてではなく、働く仲間として、迎えたいです。そのために、野党、労働組合、市民運動が、具体的に何をできるか、難問です。
いろいろありますが
クリスマスの季節になるたびに、キリスト教発祥の地の平和を祈ります。聖書地図と紛争地図の重なりが悲しいです。また、クリスマスが、過労自殺を追悼する日になってしまいました。いろいろありますが、メリークリスマス。
釈尊誕生日
恨みは恨みによって果たされず。忍を行じてのみ、よく恨みを解く。これ不変の真理なり。(発句経5)
Hatreds never cease by hatreds in this world. By love alone they cease. This is an ancient Law.
「忍」を「love」と訳したところに、翻訳者の知恵と愛を感じます。「Law」と大文字で書かれています。律法は小文字の「law」よりおおきな真理は大文字の「Law」と使い分けているようです。聖書も仏典も、和英対照版は深いです。
世界に忍とloveとLawを。
復活節(イースター)おめでとう
人間は死んだらどうなるか、キリストは十字架に架けられてからどうなったのかという問題は、
人間の知恵を越えるので、人間を越える存在を信じる人は、お任せしましょう。
そうすれば、死を恐れる必要も、急ぐ必要もありません。
これが、私の他力本願です。
病気の快復も、犯罪者の更生も、紛争の平和的解決も、身近な復活と感じ、日々の復活を感謝します。
全ての人に、復活の力が与えられますように。
メリークリスマス
●最もありがたいこと:
教会に献金したからではなく、自分が産まれた時から神様に愛されていると気づいた時に、ありがたさに涙が出ました。世界は神仏の愛に満たされているはずで、それに気づく人が増えれば、世界はもっと良くなるはずなんですが。
●科学者は神を信じられるか:
2014年にクリスマスに、受洗20周年感謝として、「科学者は神を信じられるか」(ブルーバックス)という本を、教会に贈りました。東梅田教会の小豆(しょうず)牧師から、「科学と信仰の両方を持っている方が、人間のために科学を使ってください」と、天命を示していただきました。
●いろいろありますが:
クリスマスのたびに、キリスト教発祥の地の平和を祈ります。また、12月25日が、過労自殺を追悼する日になってしまいました。いろいろありますが、メリークリスマス。
理工系の神主さん
宇宙からの帰還 (中公文庫) | |
クリエーター情報なし | |
中央公論新社 |
釈尊誕生日
恨みは恨みによって果たされず。忍を行じてのみ、よく恨みを解く。これ不変の真理なり。(発句経5)
Hatreds never cease by hatreds in this world. By love alone they cease. This is an ancient Law.
「忍」を「love」と訳したところに、翻訳者の知恵と愛を感じます。世界に忍とloveを。
歴史が動くとき@東梅田教会
メリー・クリスマス
そこで、王は答える。「はっきり言っておく、私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 --- 新共同約聖書「マタイによる福音書」25:40
隣人愛が信仰であるという新約聖書の教えを知って、これなら万人の努力目標かつ普遍的な真理であると感じました。また、信仰とは、儀式に参加するだけでよいのかという問題に、答えが出ました。私にとっては、募金箱に小銭を入れるのも、救命講習を受けるのも、信仰です。
いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適(かな)う人にあれ。 --- 新共同約聖書「ルカによる福音書」2:14
クリスマスのたびに、キリスト教発祥の地の平和をお祈りします。いろいろありますが、メリー・クリスマス。
東京電機大学出身の神主さん
8月第1日曜日は平和主日
釈尊誕生日
恨みは恨みによって果たされず。忍を行じてのみ、よく恨みを解くことを得る。これ普遍の真理なり。
(法句経5)
和英対照仏典では、「忍」を「love」と訳しています。世界に忍とloveを。
イースターおめでとう
病気の快復も、犯罪者の更生も、紛争の平和的解決も、身近な復活と感じ、日々の復活を感謝しています。苦しんでいる人、争っている人、特にキリスト教発祥の地に、復活の力が与えられますように。
いろいろありますが、イースターおめでとう。
メリークリスマス
賛美歌の「神を愛せよ」という歌詞を読んだ際に、姿が見えない存在を愛するなんて、凡人には想像もできないと感じました。しかし、「マタイによる福音書」25:40にこう書かれています。
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
隣人愛がすなわち信仰であるという新約聖書の教えを知って、これならば、万人の目標、かつ普遍的な真理であると感じました。私にとっては、困っている人を助けるのも、募金箱に小銭を入れるのも、救命講習を受けるのも、信仰です。
クリスマスのたびに、キリスト教発祥の地の平和を祈ります。いろいろありますが、メリークリスマス。
祖母の命日と理工系の神主さん
8月16日は、祖母の命日です。
お葬式でお世話になった神主さんは、東京電機大学で電磁気学を学んでいるときに、神を感じ、親戚を継いで神主になったそうです。
この私は、東京理科大学で天文学実習を学んでいるときに、星空に涙して、教会へ行きました。
神主さんと私は、同じ何かに出会ったのかもしれません。
平和主日
8月第1日曜日は、日本基督教団の戦争責任を告白し、平和を祈る日です。
東梅田教会、小豆真人牧師の「国家間の平和だけでなく、心の平和、身近な平和」のお言葉は、「諸派」の限界を喝破するお言葉として受け止めました。私の心の中では、過激派と穏健派が党派闘争をしています。
以下、週報からの抜粋です。
「平和主日を迎えて」
平和の主である神、私たちの心を私たちの歴史へと正しく向けさせてください。
なぜなら、過去に目を閉ざす者は将来にも目を閉ざしてしまうことを、私たちは知っているからです。
主よ、あなたが[打ち砕かれ悔いる心を侮らない]方であることこそが、あなたと隣人の前で告白する私たちの支えです。
今夏、大阪教区常置委員会から[戦後70年の平和メッセージ][戦争法案廃案のために祈りましょう]が出されました。
これらの歴史の流れを踏まえ、先人たちから継承された告白を唱和いたします。
[第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白](別紙)
主よ、私たちを導き平和の実現のためあなたの戒めを守る者とさせてください。
あなたのしもべとして[平和の祈り:フランチェスコの祈り]を祈ります。
主よ、わたしを平和の道具にしてください
憎しみのあるところに愛を
争いのあるところに和解を
分裂には一致を 疑いには信仰を
誤りには真理を 絶望には希望を
悲しみには喜びを 闇には光をもたらす事ができますように
主よ、私たちがあれこれ求めることをやめ
かえって
慰められることより慰めることを
理解されようとするより理解することを
愛されようとするより愛することを望ませてください
恵みのうちに恵みをうけ
ゆるしのうちにゆるされ
死のうちに永遠に生きるのだから
アーメン
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