やさしい人生を皆さんと共に

シンプルに気楽に人生を楽しく?

緑町で牛乳販売店兼パンの販売

2012-10-19 13:40:15 | Weblog
『牛乳屋の店開店名糖牛乳緑町店2号店を開店』
初の店を開店してから2年ほどして今度は自分で緑町に支店を作ることにした。牛乳販売店は宅配の本数が1000本ほど有れば会社が応援してくれた、お店を出す毎にバックアップしてくれた。その頃はお店の二階が親子4人で住み込んで、団地の前でしたので山崎のパンを販売しながら、朝早くから牛乳を配ったり調理パンを女房が作って売った本当によく働きました。

『わり書き込み』親父の独り言

2012-10-16 16:56:45 | Weblog
どうやら老神のマラソン企画も駄目になりそうです。
残念ですが今年は諦めて来年に期待して作戦練り直し、イベント企画の難しさを感じます。一人よがりしても皆さんの心が一致しなければそう簡単には行きません。又最初から練り直しですが皆さんをその気にさせる難しさを痛感しました。

『わり書き込み』久し振りの書き込みです。

2012-10-13 16:34:45 | Weblog
五ヶ月ぶりなので全てが新鮮です。
余り久し振りなのでプログの画面が消えていました。探してテンプレート編集してやっと書き込みです。
あんなに長い暑い夏もやっとすごしやすいようになりました。今日はマラソン友達から紅葉に出かけるのですがどちらの方が良いかと訪ねられ。我が田舎吹き割れの滝にでも行ったらと軽く言ってしまつた。おまけに帰りに東明館で風呂にでも入ってと言ったら、先ほど携帯メールが入り吹き割れの滝の前の写真と東明館の前の看板の前で取った写真を添付してきた。さりげなくこんな些細な事でも商売をしてしまった。ごめん本当にごめん、そして有難う
この写真は友達の写真ではありません。

『わり書き込み』昨日は社員旅行新幹線にて京都~大阪

2012-06-13 09:52:27 | Weblog
長旅でしたのでちょっと疲れましたが楽しかったです。
初日は新幹線で京都のビール工場を見学、研修旅行で今回は凄い盛り上がり方に感心しました。二時間も掛けて生ビールの注ぎ方の勉強、今更ながら感動の連続でした。汗をかきながら多分ジョッキで5杯ぐらい飲みながら教えている姿に感動しました。話によりますと我が社の生ビールの器具の手入れやらお客様に美味しいビールの提供の仕方は業界一番だそうです。皆真面目に講習会を受けている姿にかんどうしました。
夜の宴会は大阪では一番大きな宴会料理屋さんで大いに盛り上がりました。さすが大阪食の町ガンバらニャー大いに参考にさせて頂きます。
翌日は一日遊園地で遊びまくり歳を忘れて若い方とスリルを味わい楽しかったです。平日のせいかすいていたので待ち時間なしで乗りまくりでした。

『わり書き込み』昨日は久し振りに東明館に泊まって来ました。

2012-06-09 17:00:03 | Weblog
老神温泉マラソンを仕込み中です。何とかやっとやる方向で意見が纏まりそうです。
ハーフから始まり10キロ5キロ2キロ4コースの道路を見たりコースを見て走って来ました。ハーフに少し上り坂が有りますが景観が良いので素敵なマラソンイベントが出来そうです。昨日は観光協会の方たちと色々と話し合い皆さん凄く頼もしい方ばかりなので楽しいマラソンイベントが出来そうです。
今一つビックリニュースですが
老神温泉は先日オープンしたスカイツリーの高さが海抜634メートルなのだそうです。
大いに盛り上がりました。先日テレビであちらこちらでそんな放送をしていたので何か夢見たいです。
スカイツリー老神温泉マラソンとでも変更しようかしら。だったら好いね。一人で盛り上がっています。
又ゆっくり考えて書き込みます。

『わり書き込み』1ヶ月ぶりのマラソンはハーフでした。

2012-05-28 10:14:20 | Weblog

山中湖は25年ほど続けているが昨日は走りやすかった。

気温25℃湿度35%可なり暑いはづなのに木陰が涼しく感じました。スタート?スターターは瀬古さんのジョークに始まり和やかに始まりました。女房の怪我や病院通いで走り込みが疎かになりましたが続ける底力なのでしょう。いつも通りのタイム(二時間十六分でした)18キロ付近で足がつれてきましたが何とか腹筋運動でクリヤー其の後も二度ほど右足が筋肉が連れてきました。都度、腹筋運動でクリヤーしましたが運動不足から成るものか、それとも水分不足からなるものかは解かりませんが(意識して水分は)取ったつもりですがなってしまいました。
もし対処法をご存知でしたら教えて下さい。
マラソンは夏場は無いのでしっかり体作りをしないとデスネ?

所沢市上新井町北所に引越

2012-05-19 17:20:50 | Weblog
『牛乳屋の店開店名糖牛乳北所沢店1号店』
牛乳販売店をやめたいお店が有るのでその後をやって欲しいと頼まれて所沢に来た、所が来て見ると手が足りないので働いて欲しかったようでした。だまされたような気がしたが、子供も小さかったので引き継いでやることにした。でも心の中では穏やかではなかった。そこのお店の社長が支店を作りたいという話が出たので、所沢に来たときの目標が違うのでお店を辞めることにしました。少し強引な遣り方でしたがその隣に牛乳販売店を開店しました。そのことに付いては最初から解って居たのか会社でも応援してくれた。会社でも応援してくれたので色々と有ったのでしょう。

脱サラ人生が始まり・所沢市上新井町北所に引越

2012-05-16 16:38:56 | Weblog
『株屋さんの会社で短波放送を聞いていた』
井の頭公園に曲がる、正面にあった江口証券吉祥寺支店によく行った事を覚えています。年令が23歳でしたから今考えたら、嘘みたいに若いし考えられません。でもその時に現金で50万円持っていました。月給が1万円ほどの時ですから、よく貯めていたと思います。そんな若いのに休みの日に証券会社のソファーでラジオから流れてくる株価情報を聞いていたのです。そのころ丸紅の株が一株42円とか八幡鉄工が35円そんな時代でした。今でも証券会社になんか行きにくい様な気がします。お金を株にしておいた事が、その時は貯める一番の近道だったのでしょう。その時の経験が今の仕事の始まりのような気がします。

昭和34年に結婚

2012-05-10 09:35:35 | Weblog
『妻18歳若くして結婚という事は私が23歳の事になる』
(我が田舎の吹き割れの滝)
そこの会社での待遇が余りにも良く、未だ23歳の私達を大事にして会社の幹部までさせて頂きました。未だ若かったのに何故か職場に50名ほどいたのに組合の委員長を遣ったり社員寮の寮長を遣ったり本当にこの頃に今の生活の基本が出来たように思います。
友達の紹介で見合い結婚、今流行の出来ちゃった結婚で妻が18才でした。本当に若かったです。結婚式はしましたが披露宴は遣りませんでした。当時は私のような結婚の遣り方が多かったようです。
最初は3畳間からの出発、今考えるとそんな部屋が本当に有ったのかと言われる位でしたが本当の話、三畳間に狭い流しもありました。トイレと洗濯場は共同でしたがアパートは皆そうでしたので、それが普通でした。この頃社員寮が出来てそこの管理人として6畳2間になりましたが一部屋は管理人用小さなのぞき窓がありましたので、でも急に地獄から天国になったような感じでした。子供が生まれたのもこの時でした。
生まれたところをメモしておきます。
東京都武蔵野市関町の関病院で昭和35年長男生れた。ぎょうざの満洲チーフ長  利行
同じく      今の社長 昭和37年長女生れた             ひろみ

最初の仕事はローリー車で地方に源乳を引き取りに行く仕事でした。後は雑用をして皆さんの仕事の遣り易いようにする仕事でした。
其の頃の思い出に3年ぐらい一日も休まず働いた事を今でも自慢しています。
東京オリンピックの年に会社から所沢に行かないかと言う話があり、牛乳販売店の手伝いをする様にと言われ、所沢に行く事になった。これには色々とありましたが、とにかく此れがきっかけで、所沢で牛乳販売店を遣る事に成り私の脱サラ人生が始まりました。

『わり書き込み』今の生活と70年前の生活

2012-05-08 11:02:48 | Weblog
女房が怪我で入院してしまった。急に独身生活になった。
其の為ではないが普段から自分のことは自分でやるをもう5年ぐらい前からやる事にしていた。洗濯に始まり庭の草取り部屋の掃除身の回りのこと、偶々では有るが我が家では女房の家私の家があり2人で週を3日と4日に分けて移動してお互いに自分の家は自分でやるを習慣付けているのが良かったと思います。
多分女房は私の居ない時には適当な食事をしていると思いますが、本当にあわて者の女房には困りました。怪我で家を空けるのが三回目最初は入院1ヶ月二度目は10日程今回は15日位掛かりそうです。でも本人は嘘の様に元気其れがせめてもの救いのような気がする。
さてと、食べ物について少し昔を思い出して考えてみるとよそ様の事は解かりませんが粟餅って食べた事ありますか粟だけでは餅に成りませんので10%セント位もち米を入れてあると思いますが、味と言えば焼いて食べると苦いし雑煮にすると餅が溶けてしまい食べられません。今ならば砂糖醤油でも付ければ何とか食べられますが、あの時代は砂糖も有りませんでした。ですから自家製の味噌を付け焼きにして食べた記憶があります。餅の話をしたので粟の草餅(よもぎ)の大福のような餅でした。でも中の餡が塩餡ですので今の食べ物では表現をする対象物が有りませんです。生活の話は又の機会に致します。
そこで一言今ではこんな食べ物ですがお腹を空かしていれば、粟ご飯、稗かき、これが何で美味しいのだろうと今更ながら感じました。昨日の事、朝から病院やら仕事もありご飯を食べる時間も無いので冷凍庫からご飯を取り出し解凍して味噌付けお握りを作って食べました。其れがあんまり美味しいかったのでこんな書き込みをしました。美味しいの原点はお腹を空かす事ですね

『わり書き込み』今で言うアルバイト(薪切り)

2012-05-07 09:59:50 | Weblog
薪は今の石油の働きをしていた、ですから都会では貴重品でした。
中学生の時にこんな事をしていたなんて考えられません。薪には長さと束ねる太さに規定があり竹の箍でした。その後から針金が出来其の後から鋼入りの針金が主流に成りました。
、木の種類もあります。針葉樹の薪は製材所で出るくず材、山で切り出す薪は、活葉樹ですが本楢、水楢、小楢、それ以外は葉雑木と私たちは山では言っていた。正式の呼び名は解かりません。
そんな薪を山で切り出し切り刻んで山から運び出すのに又一苦労子供の小遣い稼ぎに背中で背負い運び出して、町にトラックで売りに行くのです。こんな思いをして修学旅行の費用にしたり小さい時からよく働いたと思います。後書き同じようでも木によって売り単価が違います。

『わり書き込み』悪ガキ学校をサボり魚取り!

2012-05-06 09:02:15 | Weblog
皆でやれば怖くない(この言葉がぴったり当てはまる)
家を出るときには何時ものようにお弁当を持って集団登校如何して話が友達と纏まったのか覚えていないが正門に近くまでは普段通りに行きそこから裏道に入り帰って途中から川に行って魚取りが始まる。何時も中間の顔ぶれは決まって居る3人でした。今の川にはそんな流れは無いが昔は至る所にそんな流れがあった。(魚の取り方を説明しておきます。水干し)と言って川を堰き止めてそこに住み着いている魚をみな取りにする方法。先ず先に場所探し長さが50メートル位が一番やり易い。比較的に堰き止められる所川下ですが川の水が引ける時に一緒に魚が苦られない様に堰き止めておく、其の後川の流れを斜めに堰き止める。堰き止め作業はけっこう大変の作業でした。3人で3~4時間掛かったと思います。そこでお弁当を食べたり取った魚を焼いて食べたり其の頃は悪ガキでしたが好い思い出です。他の友達が帰る時間に合わせて何事も無かったような顔をして帰りました。多分先生も父兄も全てお見通しだったのかも知れません。昔の人はこうして子供を見守って育ててくれたのでしょう。そんな友達も無くなり元気なのは私だけに成ってしまいました。

『わり書き込み』中学校からの就職丁稚奉公の思い出!

2012-05-04 12:11:33 | Weblog
62年前の事ですので思い出しては書き込みですので後先に成ると思いますが(夜間定時制高校)にかよった時の思い出です。
今では其のお店も辞めてしまい、書き込んでも許してくれると思いますので少し詳しく書き込みます。中学から集団で5名ガラスやさんに当時は(小僧)として就職私は梅吉なので(梅どん)呼名が付いた。お店の形態を少し説明します。場所は桐生市のほぼ真ん中ガラス店、其の頃は桐生と言えば織物の町、裏に入れば機織工場ばかりでした。ですからガラスやさんの存在は商店街でも特別の存在のように感じました。今ではガラスやさんは裏町ですが、其の当時は商店街では花形のようでした。
お店にはガラス用品全て板ガラスから食器グラス全てでした。お店の広さが50坪ぐらい有ったと思います。其の奥に8畳ほどの居間其の脇が食堂、食堂と言っても10人位座れる長椅子です。この空間が小僧達の生活場所です。少しだけ書き込んでおきます。先ず寝るところはお店と同じ空間の8畳ほどの居間居間食事も先ほどの長いす、風呂は家族が入った後風呂、今考えるとそれでも良いほうだった様な気がする。ヤッパリ3年経った時には私を含めて全員辞めてしまいました。時代の流れが激しく変化したのでお店も会社も激動の時代に就いて行けなかったようです。そんな訳で(小僧丁稚奉公)は終わりました。何か思い出なのに書き込んでいる内の涙ぼろぼるで書き込みに成りませんです。この時に定時制高校に通いましたが卒業は出来ませんでした。

記憶をさかのぼり中学当時を思い出して?

2012-05-03 10:46:47 | Weblog
今でもそうですが余り一つの事を長く続けて出来ない変な性格でした。
勉強とは別に好きな事は何時間でも飽きないで出来る不思議な性格でした。一番大切な学校の勉強となると全く駄目、英語などは選択科目で農業を選択しましたので全く致しませんでした。今考えるとあれだけ勉強しなかったのに何で高校も卒業まではしなかったにしろ行ったのだろう。後先になりましたが自動車の免許証も如何して取れたのでしょう。そう自分で思うほど勉強嫌いでした。62年程前のことですので忘れてしまいましたが就学旅行が東京~江ノ島2泊3日でした。最初に泊まった所が駿河台と言う場所だった様に記憶しています。田舎から出てきて余りにも車のクラクションの音にはビックリでした。現在のように規制が無く田舎者の私には田舎では500メーターも離れて居る川のせせらぎが聞えるのですから驚きです。
交通と言えば沼田~上野間は汽車後は都電を乗り継ぎ宿まで時間も掛かるが今考えるとのんびり旅でした。現在の3倍位の時間を掛けた旅行でした。

自動車免許証を田舎に帰り取得

2012-05-03 10:21:48 | Weblog
『無免許運転には厳しくなかった』

(私が最初に運転していた車)
今では考えられない事ですが、あの頃は自動車の教習所なんて無かった。車の免許を取りたくてもトラックの助手をしてハンドルを借りて技術を身につけるしか方法が無かった。製材所の車の助手になり東京に荷物を運んだり山に原木を積みに行ったり色々と遣りました。
当時は、運転をさせて貰うことが目的でトラック助士に成るのですからハンドルを貸してくれるように一生懸命働きました。今思うと嘘のような話。誰でも皆やっていた事なので、それが当たり前でした。二年ほど掛かりましたが何とか免許證が取れ東京に出てきて就職する事になりました。
当時は免許証があればタクシーの運転も出来ました。東京のタクシー運転手は田舎出の私には大変でした。半年位たった時に事故を起してしまいました。もっと見習い助手をして置けば良かったのにやっぱり未熟だったのでしょう。半年も入院しなければ成らない事故をしてしまいました。この事故で私のタクシー人生は終りました。
日本橋の新富町で運送会社をしていた田舎出の人が居るとの事でそこで働いたらと進められて其の会社に就職しました。でも其の会社も一年ほどで倒産してしまいました。その会社の後を引き受けてくれたのが横浜の日新運輸送庫でした。私達、働いている人をまとめて引き受けて頂き其の会社で5年ほど働きました。