キョロキョロ散歩の雑記帳

あちらこちらの里山や緑地公園・史跡を探訪しながらキョロキョロ歩き回って思いつくまま記します。

講座のはしご

2011-10-22 18:52:27 | 知識

10月22日は聞きたい講座が2つ。前から予定に組んであった。

午前10時から瑞穂生涯学習センターで「名古屋城から学ぶ城の建築と技術の歴史」講座に。

午後2時から名古屋市博物館ではくぶつかん講座「ある浮世絵師の選択」を聴講。

明け方の激しい雨に外出躊躇(ちゅうちょ)するも8時ごろには雨も上がり、出かけることにする。

瑞穂生涯学習センターに9時40分到着。

部屋前の講座案内。

昨日の分国法講座はこの時間なら満員だったが、今日は朝の激しい雨に集まりが少ないようだ。

時間になっても用意してあった席が相当空いている。60%か。

講師は名古屋市立大学大学院芸術工学研究科 教授 溝口正人氏。

古代から中世までの戦による防御体制の変遷と城の役割が戦国から近世にかけてどうなってきたか解説。

名古屋城は近世城郭の確立の頂点。

講座のレジメは次の通り。

1.名古屋城はどのような城か?

・城の役割と城の歴史 (ア)城の意味 (イ)先史・古代の城 (ウ)中世武士の居館 (エ)城の役割の変化 戦国~近世 (オ)江戸時代 

・天下普請と近世城郭つぃての名古屋城 (ア)名古屋城の立地 (イ)名古屋城の占地と城郭の構成

2.城のしくみ:名古屋城の防御の技術を学ぶ

・なわばり・・縄を張って利用計画を定める (ア)名古屋城の城郭の構成 (ウ)防御の技術

3.城のはたらき

・都市と城:見え方にみる城の存在意義 

・生活空間としての城と御殿 

4・やぐらに学ぶ城の建物の特徴

・望楼建築の歴史:日本では進まなかった楼閣建設

・空間の積層:天守成立の前提

*城にみる建設技術の発展 1規格化:生産

*城にみる建設技術の発展 2天守をくみ上げる建設技術

*城にみる建設技術の発展 3天守を支える建設技術

非常に多岐にわたる内容で、まとめが簡単ではない。

私にとってほぉーと思ったことを以下にまとめる。

名古屋城の本丸は将軍上洛時の宿泊施設であった。

名古屋城の天守の土台の土は北側の現名城公園の地を掘って土台にしている。

戦国時代の度量衡はばらばら。故に建設は棟梁の感覚で決まった。それが大建築になると問題なので規格化=木割=標準化になってゆく。現在の住宅建設の原型。

日光東照宮は建築家からみると最悪。それを防ぐための装飾。名古屋城の外壁も千鳥破風、唐破風などで飾っているだけ。

何回も焼けた江戸城は最後には財政難から飾りなしの城になっていた。

話は2時間だが盛りだくさんだった。

昼食を博物館近くでとってはくぶつかん講座に。

「ある浮世絵師の選択」副題は「魁・快・怪。浮世絵師歌川国芳」。

今年国芳没後150年で各地で国芳展が開かれているそうで、講師がほかの国芳展を見にいた方いますかと問うと10人ほど手を挙げていた。

最近国芳の人気が出てきているそうで、天保の改革時の奢侈(しゃし)禁止令に反抗する画家という評価があったようだが、学芸員津田卓子氏はさてどうでしょう?と疑問符。ただし風刺がが多いことも確か。

国芳は日本橋紺屋の生まれで、闊達磊落(かったつらいらく=物事にこだわらない)でべらんめー調だったそうだ。

結局、民衆が風刺画の中に幕府を風刺していると思い込んでいたのか、本当に風刺していたのかわからない。

座席を前に取ったので分からなかったが、終了後振り返ると、補助椅子が出るほどの盛況。

講座の梯子は初めて。 


分国法

2011-10-21 18:32:39 | 知識

分国法???

昭和区生涯学習センターで「分国法の世界ー戦国大名の地域支配ー」と題して公開講座が開催された。第1回としてあり、全部で6回の講座のようだ。

会場にはおよそ60席用意されていた。講座開始30分前。座席半分以上埋まっている。

講座は1時半から3時半までの2時間。

講師は萩原淳也氏。

名大大学院博士号取得。卒業後名大図書館で古文書の整理作業にあたり一段落。現在は講座を受け持ったりしながら研究にも携わっていると紹介あり。

内容は結構難解で“分国法”自体初めて聞く言葉。

自分なりに勝手な解釈だが、戦国時代は無秩序と見られているが、鎌倉幕府が作った“御成敗式目”という武家に対する法を下敷きにして、戦国大名の中に家法=分国法を作成し、家臣がそれを承認して遵守(じゅんしゅ)を誓うという形式をとって、秩序を構築するところが出てきたようだ。

国史辞典という辞典に分国法一覧が載っているようで、名称・制定年代・制定者・施行地域・収載書等が掲載されている。

公家には公家法があったそうで、鎌倉幕府が成立して武家の法の必要に迫られ御成敗式目ができたように、大名もそれに倣って作成している。だから内容が御成敗式目を引き写したような分国法もあるとのこと。

例として御成敗式目第10条の文面を伊達家(仙台に出る前)の分国法ー塵芥集(じんかいしゅう)-第25条は直訳したといわれている。

それにしても面白いのは、家臣の承認をえて遵守させるとは。

それと戦国大名について、これも初めて聞く話だが、織田信長が出る前は大名同士の戦で相手を倒すことはなく収めたが、信長時代から完全に倒すように変わってきたとのこと。これも素人の私には初めての視点。(完全に納得した訳ではないが)

全体に理解度50%?でも初めての話だったので結構興味深く受講できた。

 

 


ウオーキングクラブ例会

2011-10-20 15:50:25 | 日記

先月は例会当日台風襲来。万止むを得ず中止。今回の例会が154回だが現在まで中止したのは2回のみ。

私は151回・152回不参加、153回が中止なので4回振りの参加。

今回(10月19日)は「ススキの大草原曽爾高原(そにこうげん)散策」。

ぬるべの郷とは案内書に「本朝事始」(ほんちょうことはじめ)にこの曽爾の郷に漆部造(うるしべのみやつこ)を置いたので、これが日本のウルシ塗りの始まりといわれていると書かれている。大昔からウルシを採取し朝廷に奉っていたようだ。

現在はススキで一面が覆われた草原で毎年3月には山焼きが行われる。

ここのススキは昔から在所地区の屋根の材料として使われていたが、時代とともに年々使用が減り、一時は杉の植林計画が出たが、村ではこの素晴らしい景観が杉に代わるのは忍びないと奈良県に保護を要請。約40haの草原は生き残ったようだ。今はこの地区の人たちがススキ以外の植物の育成を抑えるよう努めている。

さて、集合時間になってもバスが来ない。当番がバス会社に電話。なんとバス会社が日程取り違えたそうだ。こんなこともあるので、前日再確認しようと申し合わせる。バスが来るまで暫時散会。予定より1時間遅れで出発。

バス会社も申し訳ないと当初予定の一般道を使わずすぐに高速に入る。名二幹名港トリトンに入り遅れを取り戻そうと奮発。できてから初めて通る。結構海面から高い位置を通っているのがよく分かる。

目的地曽爾高原に11時30分に到着。

当初の到着予定12時。途中休憩時間を短縮したにしても早く着いた。食事は国立曽爾青少年の家でバイキングとなっている。

自然の家まで行くのに壁のような急坂が待ちかまえている。バスを降りてすぐに急坂なので喘ぎながら登る。

やっと到着したものの時間厳守のため12時前には入れず。小学生から大学生まで大勢来ているようだ。

待つうちに食堂に入る時間になるがまず入る心構えの説明を聞かなくてはならない。

手洗・乾燥・アルコール消毒・盆と食器・箸とスプーンをとって料理をとるよう説明あり。食後は必ず布巾で自分のテーブルを拭き食器類を所定の方法で返却と細かく規定されている。食器の返却場所には仁王立ちしたおばさんが、返却の仕方をチェック。無事返却終わって外に出る。

午後2時半までにバス停に集合することとし、随時散策開始。

空にトンビが1羽悠々と旋回。恐らく餌を探しているのだろう。

標高差125メートルの亀山峠(810メートル)へ向かうがここも急坂で階段なので一層大変。

それでも健脚者は標高996メートルの山へ行き峠に戻ってさらに反対側の亀山を往復してくるが、私は峠げ一杯一杯。無理すると下りに支障が出そうなのであきらめる。

写真右上の尖った山は屏風岩。昨年桜のシーズンにこのクラブで行った処。あの時は延々と坂を登りクタクタになったが、満開の桜と景色に疲れが吹き飛んだことを思い出す。

私より10分以上あとから小学生が集団で上ってくるがあっという間に追いつき追い越される。

峠から見たお亀池(湿地として希少植物がみられる)。

峠を降りて休憩所で一休み。背中汗まみれ。タオルを背中に通しなんとか拭き取る。

少し周辺を散策。

遠方にススキが光って見える。

バス停まで今度は急坂を下るが、下りながらこの坂を登ったとき喘いだのがよく分かる。

バス停に戻ったのは私一人。

バス停に10人ほどの団体が路線バスを待っていた。1日一本。来るときはどうしたんだろう団体はこのバスを待っているようだ。

曽爾高原バス停から1時間ほど歩くと日に6本くらいのバスが止まる太郎路というバス停があるようだが。

2時半全員集合。帰りは予定通りの行程で3時間かかった。午後5時半到着解散。

このところ、低い山とはいえ今月3回目の山。

自分で元気な証拠と悦に入っている。

 

 

 

 


多武峰~明日香

2011-10-18 14:08:09 | 知識

2011年10月17日 多武峰~明日香ウオーキングの日。

参加者4名。午前7時20分近鉄名古屋駅集合。午前7時31分発鳥羽行き急行に乗車。伊勢中川着午前8時45分。乗換午前9時03分大阪行き急行に乗車。桜井着10時17分着。バスの乗車まで33分待ち。

自宅を出たのが6時20分(起床5時)。いささか眠いが幹事が遅刻許されず。名古屋駅で朝食用のパン購入したり、飲み物を購入したりと時間を有効活用。

この時間でも通勤・通学で結構乗降客は多い。仲間がやや遅れて到着。聞くところでは名鉄ポイント不良とかで若干の遅れが出たそうだ。

遅れた分座席確保できず、四日市まで約30分立ったまま。その後は伊勢中川まで座れた。乗換に余裕があるので、用足しなどもでき一休みしているうちに大阪行きがホームに入ってきた。ここは余裕で座席確保。桜井まで約1時間30分快適に過ごす。10時17分桜井駅到着。初めて電車で降り立つ。

駅南口から談山神社行きバスは午前10時50分発。この時間前後は9時25分、12時50分なので名古屋から来るとこのバスを利用するためにどうしても早めに出る必要があった。

バスは約30分ほどで終点手前の多武峰バス停で下車。バス停前に屋形橋がありこの橋を渡ると神社の参道に入る。

参道は杉の大木に沿うようにして進む。

しばらく進むと東大門に出る。立派な門で門を過ぎると急な坂。

この坂が急なのでしばらく喘ぐ。途中に重文“摩尼輪塔”(まにりんとう)がほほ笑むようにみえる。摩尼とは宝珠のことと書いてある。(石塔の横の説明)

ここを過ぎると、相変わらずの急坂だが談山神社の門前が見えてくる。

参拝料500円。鳥居の前から長い階段が続くが、脇に楽な道と記されていたのでそちらに。

西の入り口前に出たが、この方が楽に境内を歩けた。

談山神社といえば優美な十三重塔だろう。

本殿は今塗装修理中であったが拝殿は入れるので資料拝見。拝殿から外は紅葉。おそらく来月は紅葉で来場者で身動きできないだろう。

本殿前の楼門も威厳がある。

参拝した後、すぐに明日香に向って歩き出すが、先ほどの坂より一段と急。ようやくのことで旧西門前に出る。

この先は明日香に向かうハイキングコースに出る。昼食はコースの途中に展望台があり休憩所もあるので少々頑張ってそこまで進むことにする。

コース地図で確認しながら進むが途中に案内標識があり、寄り道して戻るつもりだったがどうもおかしいので戻って、標識の明日香方向に下る。

途中、山栗の木、柿の木、花梨の木、アケビの木など実ったままの木が一杯。二人が落ちていたアケビの実を舐めて甘いと大喜び。

民家の垣根にトクサが植えてあり初めて見る。トクサは漆のつや出しに使われるそうだ。

先ほどの明日香方向に沿って進むがどうも様子が違う。こうなったら標識に従って進むことにする。道なき道を進むように細い道を進む。しばらくして舗装した広い道に出るが、この先がどうなっているか分からないまま進むと突然神社の前にでた。神社の案内版では入鹿の首が鎌足に向かってきたので鎌足が逃げて、ここまでくればもう大丈夫だろうと休んだ場所とか。

神社名は「気都和既神社(きつわき)ともうこの森」。もうこの森=はもう来ないだろうと付けた名と書いてある。

この神社を過ぎるとようやく開けた場所に出た。遠くに大和の山々が正面に見え、畑・田圃もある集落に出る。休耕田に腰をおろしてようやく昼食。心地よい風と程よい気温、見える景色。絶好の場所で至福の時間。

いよいよラストスパート、明日香の村には午後2時到着。10分ほど休憩して飛鳥川に出て橘寺に向かう。拝観している時間もないので西門で失礼する。川原寺跡の前で橘寺遠景を撮る。

酒船石へ向かう。

見学後すぐに飛鳥寺へ。

休憩所で一休み。ここまで一挙に歩き全員やや疲れ気味。この後甘樫の丘に向かう予定だが、午後3時を回り、時間的に厳しくなってきた。

バスの時刻表を見ると、折よく午後3時17分発橿原神宮東口行きが来るのでここで終点にしようと提案。皆賛成。

結局、道を間違えたものの農山村の源風景のような道を歩け、満足してくれたのでホッ。

帰りの電車は乗り継ぎ悪く名古屋着午後7時25分。今日は12時間の行程でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


NPO活動報告会

2011-10-16 19:13:33 | 知識

午後2時~4時半まで「つながれっとNAGOYA」において「特定非活動法人(NPO)セーブアフガンチルドレンの会」2011年度活動報告会を開催した。

自宅を12時半に出発。ところが今日は名古屋祭り行列の時間帯だったため、道路は大渋滞。

なんとか集合時間に間に合い、大急ぎで会場設営にかかる。

発足10周年をパネル展示で紹介。

Power Pointの調整。

2001年12月発足。この年に9.11発生。

アフガンの困難が今日も続き、ここ3年ほどは、日本人の渡航は禁止。

映像中心に報告したので、参加者にアフガンの現状認識を新たにして頂けた。

10周年記念報告会になったが、今年はこれまで以上に充実した報告会になった。

我らのホームページだが、PC操作する人的パワー不足で更新が滞っている。

 http://www014.upp.so-net.ne.jp/sac-afghan/