精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

めざめて生き、めざめて死ぬ(スティーヴン レヴァイン )

2010-08-01 15:14:19 | さとり・覚醒
◆『めざめて生き、めざめて死ぬ』(スティーヴン レヴァイン )

この本の言葉は詩のように美しく、かつ繊細で深く、豊かに変化しながら私の心に触れてくる。著者自身が、広大無辺の世界、静謐の世界に触れる体験をもっていないと、このように豊かな言葉の数々を生み出すことはできないだろう。分厚い本だが、じっくりと読む価値がある。

「われわれは一瞬一瞬、心に浮かんでくるものと同一化し、それが浮かんでいる空間に目を向けることはめったにないため、自分の本性に気づかない。そして、蜃気楼から蜃気楼へと、瞬間的心から瞬間的心へとよろめきながら、『この欲望が私だ』『この心が私だ』『この渇望が私だ』という感覚に自分を見失っているのである。」

「‥‥すべての変化する形態がそこから発生する、あの広大無辺に意識を集中しはじめるなら、われわれは思考を超えて見るようになる。迷妄の心のたえず変化する衝動の背後に、平等観と慈しみにあふれた無執着の目で、通り過ぎる一切のものを目撃している静謐があることを理解するのである。」

個々の経験、自己を中心として縁どられ、色づけられた一切の経験、それらの限定的な経験を成り立たせる、透明な地平。顕れてくるものを顕れてくるままに受け入れる純粋な気づきの地平。その地平が、広大無辺と呼ばれ、静謐といわれるのだろう。

私は、その地平を「私の世界」として限定し、装飾することで見えなくしてしまっている。しかし、一切の限定や装飾を捨て去ったところに、なお純粋な気づきの地平が残るらしい。何となくそんな感じはする。対象化できない純粋な主観性。
意識の源、純粋な気づきの清澄な光から「私」という観念が生まれる。そして「私は私である」「私はこの思考である」という自己同一化が始じまる。 しかし、「私が私であること」に根拠はない。真理の広大さの中に漂うだけの影であり、陽炎である。執着すべき根拠のないものに執着するところに私たちの無知と苦しみの原因があるのだろう.。


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