精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

ケルト巡り(河合隼雄)

2010-08-17 14:28:12 | 心理学全般
◆『ケルト巡り

かつてケルト文化は、ヨーロッパからアジアにいたる広大な領域に広がっていた。しかしキリスト教の拡大に伴いそのほとんどが消え去ってしまった。ただオーストリア、スイス、アイルランドなど一部の地域にはその遺跡などがわずかに残っている。とくにアイルランドはケルト文化が他地域に比べて色濃く残る。ローマ帝国の拡大とともにイングランドまではキリスト教が届いたものの、アイルランドに到達したのは遅れたからだ。

この本は河合隼雄が、そのアイルランドにケルト文化の遺産を探して歩いた旅の報告がベースになっている。なぜ今、日本人にとってケルト文化なのか。それはケルト文化が、私たちの深層に横たわる縄文的心性と深く響き合うものがあるからだ。

私たちは、知らず知らずのうちにキリスト教が生み出した、西洋近代の文化を規範にして思考しているが、他面ではそういう規範や思考法では割り切れない日本的なものを基盤にして思考し、生活を営んでいる。一方、ヨーロッパの人々も、日本人よりははるかに自覚しにくいかもしれないが、その深層にケルト的なものをもっているはずだ。

ケルトでは、渦巻き状の文様がよく用いられるが、これはアナザーワールドへの入り口を意味する。そして渦巻きが、古代において大いなる母の子宮の象徴であったことは、ほぼ世界に共通する事実なのだ。それは、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。また生まれ死に、さらに生まれ死ぬという輪廻の渦でもある。アイルランドに母性を象徴する渦巻き文様が多く見られることは、ケルト文化が母性原理に裏打ちされていたことと無縁ではない。父性原理の宗教であるキリスト教が拡大する以前のヨーロッパには、母性原理の森の文明が広範囲に息づいていたのだ。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。アイルランドに残る昔話は、西洋の昔話は違うパターンのものが多く、むしろ日本の昔話との共通性が多いのに驚く。浦島太郎に類似するオシンの昔話などがそれだ。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。それはかなり不思議なことでもあり、また重要な意味をもつかも知れない。ケルト文化と日本の古代文化を比較することは、多くの新しい発見をもたらすだろう。

いま、ヨーロッパの人々が、キリスト教を基盤とした近代文明の行きづまりを感じ、ケルト文化の中に自分たちがそのほとんどを失ってしまった、古い根っこを見出そうとしている。これは河合が言っていることではないが、日本のマンガ・アニメがこれだけ人気になるひとつの背景には、彼らがほとんど忘れかけてしまったキリスト教以前の森の文化を、どこかで思い出させる要素が隠されているからかも知れない。

影の現象学( 河合隼雄)

2010-06-19 11:44:29 | 心理学全般
◆『影の現象学 (講談社学術文庫)』河合隼雄

私が手元にあるのは1976年に思索社から出版されたものだが、今では講談社学術文庫で手に入る。数多い河合の著書の中でも代表的なものの一つだろう。ユングの 「影」の概念を中心にしてユング心理学の世界が語られ、「影」という視点からのユング心理学へのよき案内ともなっている。

自我は、まとまりのある統一体として自らを把握している。しかし、まとまりをもつためには、それと相容れない傾向は抑圧される。その生きられなかった半面が、その人の影である。ただ、影の概念は多義的であり、狭義には、夢に現れてくる人物像で、夢を見た人と同性のものを影、異性のものをアニマ(男性の夢の中の女性像)、アニムス(女性の夢の中の男性像)と区別することもある。

影は、もちろんすべての人間が背負い、その大きさや濃淡、影響力を変化されながら人生の歩みに付き添ってくる。それは、しばしば意識を裏切り、自我の意図とは逆の方向に作用する。自分の影につき動かされて行動し、自らの破滅を防ぎきれないことすらありうる。

ときに影は、個人だけではなく、人間関係や集団の動向にとってもきわめて大きな力をもつ。 個人に影が存在するように、人々が集団をなし、共通の理想や共通の感情によってまとまるとき、そのような自覚的な共同幻想からはみ出す部分は影となるのである。 集団の影を背負う人は、予言者、詩人、神経症、犯罪者になるか、あるいは一挙に影の反逆に成功して独裁者になるか、何らかの異常性を強いられるという。誰が選ばれるにせよ、そこには運命としか呼びようのない抗しがたい力が働く。

集団の影が、その集団自身に反逆するだけならまだしも、その巨大な影を外部に投影して破壊的な行動をとるとき、どんな悲劇が生まれるか。しかし、現実には、そのような集団の抑圧された破壊的なエネルギーが、悲惨な結果を積み重ねてきたのが、現実の歴史だろう。ユングは、たとえばナチスの動きをキリスト文明の影の顕現と見ていたという。私は最近、集団にとっての影というテーマにとくに強い関心 をもっている。

影は、自我に受け入れられなかったものであり、元来は悪と同義ではない。しかし、 創造性の次元が深くなるにつれて、それに相応して影も深くなり、普遍的な影に接近すると、悪の様相をおびることもある。自己実現の要請は必然的に影の介入をもたらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接するのである。その時に、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、 また、影の力を一方的に噴出せしめるのでもない。あくまでも両者を否定することなく、そこに調和が到るのを「待つ」ことが大切だという。

影の得体の知れない奥深さ、不思議さと豊かさ、そして恐ろしさ。この本からは影のそうした多様な姿が伝わってくる。ただ単に抑圧されたものを解放すれば覚りにいたるというほど、ことは生易しくはないのだろう。 神話や説話、文学作品、河合が接した事例や、報告された夢などの具体例に触れながら、ユングの元型論をベースに「影」をめぐる考察が豊かに展開される。影の創造性、善と悪の関係、影の存在の無限の広がりが示唆されて、私たちの心の深層の不思議さを強く印象づける本である。

サブリミナル・マインド(下條信輔)

2010-06-15 23:00:14 | 心理学全般
◆『サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)』下條信輔(中央公論新社)

1520年、世界周航をめざすマゼランとその一行が、南米最南端のフエゴ島に到達したときのこと。マゼラン一行は上陸のために、自分たちの大型船四隻を島 の湾内 一時停泊させた。何世紀もカヌーだけで生活してきた島民たちは驚きの目で上陸してきた彼らを見た。  

しかし、マゼラン一行がどのようにしてやって来たのか、島民たちはまったくわからなかった。なぜなら、フエゴ島の人々の目には湾に錨をおろしている大型のスペイン帆船の船団が映らなかったからだ。島民の目には、大型船団に視界を遮られることなく、いつもと同じように、湾の向こうにのびる水平線が見えていた。 これはその後、何度目かのフエゴ島再訪の際、島民たちがマゼラン一行に語ったことからわかったという。彼らの頭のなかの枠組に大型帆船のイメージがなかったため、 目には映っていても、その映像を脳が拒否し、見れども見えなかったのである。 (濱野恵一著 『インナー・ブレイン―あなたの脳の精神世界』)

この話は、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の中の小論(「覚醒・至高体験とは」) でも紹介した。『サブリミナル・マインド』には、こうしたエピソードを裏付ける ような実験例が載っている。 知覚心理学では、タブー語を瞬間呈示すると、無意識裡に抑制されて、主観的には「見えない」という実験が報告されているのだ。タブー語とは、観察者本人にとって強い不快感や羞恥心をもたらすことば、たとえば性的なスラングとか、ユダヤ人にとってのハーケンクロイツなどである。無意識的な認知プロセスが働いてタブー的な語をあらかじめ選別し、知覚意識に昇るのを抑える「知覚的防衛」が働くらしい。フエゴ島の人々には、まさに同様の「知覚的防衛」が働いたのであろう。  

この本は、こうした様々な「潜在的な認知過程」を豊富なデータに基づいて論じる。「潜在的な認知過程」というと精神分析学や深層心理学でいう「無意識」を連想するかも知れないが、この本で扱う「潜在的過程」は、それよりもはるかに広い射程をもち、行動・認知・神経科学的な過程を含む。それらの各分野において、フ ロイトの時代よりどれほど多様で豊富で説得力のあるデータが蓄積されているかが、読み進むにつれていやというほど分かる本だ。  

人は自分で思っているほど自分の行動の動機を分かっていない。自覚がないままに意志決定をし、自分の行動の本当の理由には気づかない。「認知過程の潜在性・ 自働性」がデータの上でますます強力に実証される。そうした事実は、確かに人間 の意志決定の自由と責任に関する社会の約束ごとさえ脅かす。

しかし、だからから こそ瞑想に関心をもつものは、瞑想的によって深まる「自己覚知」によって、そう した「潜在的認知過程」からどれほど解放されるのか、自ら実践的に問い続けるべ きだと思った。

カール・ロジャーズ入門(諸富祥彦)

2010-06-14 22:09:23 | 心理学全般
◆『カール・ロジャーズ入門―自分が“自分”になるということ』諸富祥彦(コスモライブラリー)

現代日本の心理療法の世界にカール・ロジャーズが与えた影響は大きい。来談者 中心療法というその方法だけでなく、その人間観、人間関係論、教育論など、多く の面で彼の思想から学ぶべきことは、なお多い。この本は、ロジャーズの生き生き とした人間的な側面を伝えるという意味でも、かっこうの入門書だ。

ロジャーズの著作としては、岩崎学術出版社から『ロージャズ全集』全23巻が 出版されたが、高価ですでに入手しにくい。インターネットで検索すると、ロジャ ーズが書いたもので手に入りやすいのは晩年の主著『人間尊重の心理学―わが人生 と思想を語る』 (1984、創元社)くらいか。その意味でも諸富氏の入門書は貴重だ。

私自身は、サイコセラピーを専門にするものではないが、ロジャーズから実に大きな影響を受けてきた。またロジャーズに影響を受けたことが、その後仏教や精神世界に関心を広げ、それらを学んでいく上での、重要な踏み台となったと感じる。 ロジャーズを学び、またカウンセリングを体験的に学習することが、「自分が"自分" になる」過程であった。まさに自分自身の中の成長しようとする《いのちの働き》 が、ロジャーズに共鳴していた。

諸富氏のこの本は、私もその虜となったロジャーズの魅力を充分に伝え、さらに ロジャーズ晩年のスピリチュアルな次元への目覚め、トランスパーソナリストとしてのロジャーズにも触れており、学ぶところが多い。

「自分が"自分"になる」ということの真意は、ロジャーズの次の言葉に端的に示 されている。 「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができる時、そ して自分自身になることができる時、私はよりよく生きることができるようす。‥ ‥‥言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができる時、私は、よりよく生きることができるのです」

こうして、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れた時、どのような変化が生じるのか。これもロジャーズ自身によって次のように表現されている。

1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになっていく
5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
6)他の人をもっと受け入れるようになっていく  

こういうあり方自体が、きわめてスピリチュアルな方向を指し示している。しかもロジャーズは、来談者中心のカウンセリングでの、クライエントの変化そのもの から、こうしたあり方を学んでいったのだ。

諸富氏によるとヨーロッパ諸国では後期ロジャーズの影響が比較的強く、ここ数 年とくに、スピリチャリティーの観点から、ロジャーズの思想と方法を再発見しようとする動向が高まっているという。

そうした動向の中心人物が、英国のブライアン・ソーン教授だという。彼はいう、「セラピストが、宇宙で働いている本質的に肯定的な力を信じる能力と信念体系を持つことが、クライエントの癒しに深い貢献をもたらします。」 ロジャーズ自身 が「治療的関係について、その関係はそれ自体を超えて、より大きな何ものかの一部になる」と述べているから、こうした展開があって不思議ではない。

ロジャーズの基本的な仮説のひとつに「実現傾向」概念がある。あらゆる生命体は、自らの可能性を実現していうようにできている。この世におけるすべての《い のち》あるものは、本来、自らに与えられた《いのちの働き》を発揮して、よりよ く、より強くいきるように定められている。ロジャーズは晩年に、この《いのちの働き》が、宇宙における万物に与えられていると考えるようになった。

こうした思想は、日本人の感性にきわめて自然に受け入れられやすい。だからこ そ、ロジャーズは日本で何の抵抗もなく受容され吸収されてきたのだろう。しかし、であるとすれば逆に彼にただ感性で共感するだけでなく、その理論としっかりと向 き合い対話することが必要だと、私は感じる。それが、私たちの思考の暗黙の前提 となっている何ものかに、しっかりとした理論的な表現を与える作業につながって いくだろう。

ロジャーズの魅力を、たんにカウンセリングやセラピーの世界だけに閉じ込めて おくのは、あまりに惜しい。

生きる自信の心理学(岡野守也)

2010-06-11 22:35:17 | 心理学全般
◆『生きる自信の心理学―コスモス・セラピー入門 (PHP新書)』岡野守也(PHP新書)

この本は、入門的なハウトゥーものかなと購入を少し迷ったが、読んでたいへん面白かっ た。現代日本の教育の根源的な問題について非常に大切なメッセージがこめられた本だ。

前半は、「身体感覚をとり戻す」「自己能力感を確立する」「自己価値感を確立する」 「認め合う人間関係を作る」等の観点から、シンプルだがなるほどと感じさせるさまざまな ワークが紹介されている。

後半は、現代科学の宇宙論の視点から、宇宙には自己進化、自己組織化に向かう方向性が あり、その方向性の中にその一部として人間も存在するというコスモロジーを提示する。

近代科学の還元主義的な世界観を暗黙のうちに押し付ける現代日本の教育のあり方に対し、 自分の命の意味を納得できるような新たなコスモロジー教育の妥当なあり方を示したと言え よう。もちろん今、自信をもてない若者が読んで自分でワークをすれば自信が取り戻せるよう工夫 されて書かれており、むしろそのように読まれることを主眼としている。

著者が大学生に以下三つの質問をすると、
1)人間は死んだらどうなると思うか?⇒70~90%が、死んだら無になる、灰になると答える。
2)自分がいちばん大切と思うか?⇒70~90%が、ハイと答える。
3)自分に自信があるか?⇒70~90%が、ないと答える。

つまり「自分がいちばん大事だ」と思っているが、「その自分は死んだら無になる」と思 っている。とうことは、自信をもちたいと思っても、その自分はやがて死んで無になるから 頼りにできない。これが現代の若者の自信のなさの一般的な構造だと著者はいう。

死ねば無に帰するという考え方の背景にあるのは、学校教育の暗黙の前提となっている 「物質還元主義科学」、すべてのものは物質的な要素に還元して理解されるという世界像だ。 人間の生命も死ねば、ばらばらな原子に還元されて無となる。これが唯一正しい真理であるかのように教えこまれる。  

「いちばん大事な自分も、死んで無になる」、つまり「最終的に意味がなくなる」、とい う究極の自信喪失=ニヒリズムが、現代日本人の心理の背後にあるというのが著者の推測であ る。

この分析は、構造的に的確だと感じる。かなり確かな事実だと思う。問題は、しかしどう すればよいのかということだ。近代科学的な世界観に対抗できる世界観=コスモロジーをどこに求めればよいのか。たとえそれがあったとして、宗教的なものにアレルギーをもつ公教育の現場で、どう教えればいいのか。

そこで著者が提示するのが、現代科学の最先端の成果をもちいて、ビッグバンから人類の 出現までの宇宙の進化を一貫した流れとして学習することである。そうすることで、コスモス・宇宙の進化は偶然の産物ではなく秩序と方向性がある、その方向性の中に私たちひとりひとりも生きていることを示すことだ。

ワークとしては、宇宙進化の壮大なドラマをイメージ豊かに感じ取るなどの練習が行われ、著者は全体としてこれらをコスモ・セラピーと名づける。その成果にはめざましいものがあるようで、自信がないといっていた参加者たちの90%が自信が湧いて来たと答えるそうだ。

これは、基本的ないくつかのワークを土台にし、「物質還元主義科学」の世界観をくつが えすような宇宙像を実感してもらうワークで、若者の心の中の構造的な自信喪失が克服される結果だろう。

宇宙進化の背後にある大いなる意図のようなものを現代科学の成果をもとにした体系的な 宇宙進化論を通して感じ取ってもらうというのがこの試みだ。私などは、物質還元主義 世界観を超える世界観の提示としては、今ひとつ物足りない。たとえば「死後」というよう な問題には立ち入らないところなど。

しかし、教育現場で宗教的なものに足を踏み込まずに、若者がニヒリズムを打ち破るため には、非常に有効な第一歩だと思った。

現代日本の教育にとってもっとも欠けている面、それゆれに若者の心を蝕んでいる問題を 克服するために、多くの人が受け入れやすい重要なメッセージと素晴らしい方法を提示した本だと思う。

生と死の接点 (河合隼雄)

2010-06-11 14:00:50 | 心理学全般
◆『生と死の接点 』河合隼雄 (岩波書店) 

西洋近代の自我は、男女を問わず、男性の英雄像で表される。怪物を退治した英雄が、怪物から奪い返した女性と結婚するという、西欧の昔話に典型的なストーリーは、西欧の自我像を端的に表現している。 それは、母親殺し、父親殺し(自立を阻む無意識的なものを断ち切る)の過程を経て、自らを世界から切り離すことによって自立性を獲得した自我が、一人の女性を仲介として、世界と新しい関係を結ぶことを意味する。西洋近代の自我は、壮年男性の自我をモデルにしていると言ってよい。

しかし、人間の意識にはいろいろなタイプがあり、ヨーロッパ型に対して、もっと他の、老の意識、女の意識、少年の意識などと名付けられるものがある。日本人の自我像が老若男女いずれの像によって示されるか難しいが、日本人の意識において母性優位は、河合が早くから指摘するところだ。

いずれにせよ自我は、その統一性を保つために他の可能性を排除する傾向がある。かつて新興国だったアメリカは、フロイトの学説から、壮年男子像を強調する部分を受け取り、それで充分であったが、現在はユングも注目されるようになった。それは「名誉、権力、名声、そして女性の愛」(フロイト)というような、強い自我を確立していく人生前半の課題だけでは解決できない問題に、アメリカを頂点とする近代文明も直面したことを意味する。

壮年男子像をモデルにして頑張って来た自我が、これまで無視してきた半面に気づき、取り組んでいく課題が生まれたのだ。ライフサイクルという考えが重視され、老年も含めた人生の課題が考えられるようになったのは、欧米中心主義が当の欧米でも崩壊しはじめたことと無関係ではない。

近代科学に代表される、可能性の飽くなき拡大や追求は、どうしても西洋的な自我と結び付いて、進歩発展や拡張の方にばかり進むが、本当の人間的な可能性は、老の意識、女の意識、少年の意識などを受容するところにあるだろう。

また、科学の知は、自分以外のものを対象化し客観的な因果関係によって見ることで成立しているが、それによって自他、心身、世界と自我などのつながりは失われがちとなる。自分を世界の中に位置付け、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見るためには、われわれは神話の知を必要とする。

それは、近代科学の発達を逆行させるものではなく、その知の基礎にあるのは「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいとう根源的な欲求」(中村雄二郎)であるという。

河合は、自分と世界を「宇宙論的に濃密な意味をもったものとして」捉え得る事例として臨死体験に触れているが、それは「そのような不思議な意識状態が存在し、その意識にとっては死後生の如きものが認知されたということであって、死後生そのものの存在については」判断を留保すべきであると慎重である。

「ケータイ・ネット人間」の精神分析( 小此木啓吾 )

2010-06-11 11:52:01 | 心理学全般
「ケータイ・ネット人間」の精神分析 (朝日文庫)』(小此木啓吾)

言葉は平易だが、分析は鋭く、現代日本人の顕著な心理的傾向を的確に分析する重要な本。ネットが人間の精神のあり方にどのような影響を与えているかという問にみごとに答えてくれる。

一言でいうと、愛も憎しみもある1対1の人間関係(これを「2.0」の関係と呼ぶ)が希薄化し、逆に「1.5」のかかわりが現代人の心に深く浸透するようになった。「1.5」のかかわりとは周りから見ると物体にすぎない相手に、あたかも本物のお相手のような思いを託して、それにかかわるあり方だという。

特に、テレビ、コンピュータ、「ファミコン」の出現は、これらのメディアによる対象との新しい「1.5」のかかわりによる、現代人固有の心的世界を作り出すことになった。自然と身体の直接のかかわりの代わりに、押しボタン一つでの仮想現実とのかかわりが、あたかも現実とのかかわりそのものであるかのような、倒錯した心の暮らしをする時間帯がどんどんふえているというのだ。

「戦後の数十年間の犯罪・非行統計をきちんと調べてみると、意外なことに他の先進諸国の傾向とは異なり、最近の青少年は昔に比べはるかにおとなしくなっている」「殺人率の低下だけでなく、全体として青少年は決して凶悪化しているわけではない」、そしてごく例外的に起こる重大事件について不必要なものまで微細に報道し、解釈しようとするメディアのあり方が問題だと広田照幸は指摘する。

これに対し小此木は、たしかにメディアがクローズアップするのは例外的事件ではあるが、やはりそこに現代人の心を先駆的に表現する面があると反論する。 一連の少年犯罪は、いずれも、縁もゆかりもない隣人を、しかも、動機不明のまま、犯人のきわめて主観的な思い込みで殺害してしまうという点に奇矯さがあり、衝撃性がある。しかもその主観的な思いこみの背後には、「引き込もり」がある場合が多いという。

彼らは、アニメやインターネットの世界で自分の衝動をアニメ化して暮らしていたのだが、ネットと現実との使い分けをやめて、ネットからの引きこもりから脱出するとき、仮想現実の世界だけに許されていたはずの衝動を、そのまま外の現実の世界で発揮してしまった。一連の少年事件の背後に、そのような心理的特質がある。

そして、少年たちの事件が、大人に衝撃を与えるのは、実は大人たちの心の闇を露呈させるからだ。

近年の日本人は、多かれ少なかれ引きこもり的な人間関係をいごこちよく感じるようになっている。愛も憎しみもある2.0のかかわりではなく、1.5のかかわりにいごごちのよさを感じるようになり、人間関係全体が希薄化している。  

小此木は、われわれが自然の環境から人工的な環境に引きこもって暮らし、さらに1.5のかかわりを基礎にして、テレビ、ゲーム、携帯、インターネットなどによるヴァーチャルな現実に引きこもる現実が生まれたという。  また、そんな引きこもりと平行して、人と情緒的に深くかかわらない、ある意味での冷たさとか、やさしさとか、おとなしさといわれるような引きこもりが最近の一般的な傾向になっている。激しい自己主張をしあって衝突したり、互いに傷つけあったりする生々しい争いを避けて、みんな表面的にやさしく、おとなしく暮らす。現代の若者の特徴とされる、こんなやさしさは、現代人一般に共通する引きこもりの一種である。

「やさしさは同時に、それ以上深いかかわりを避ける方法になっている。時にはやさくしないで、喧嘩をしたり、叱ったりするほうが、本人のためだという場合もあるのに、それをしない冷たいやさしさである」というのだ。 攻撃性、自己主張、激しい感情は消失したように見えるが、それだけに非常に未熟で訓練されていない攻撃性がやさしさを突き破って、激しい破壊性となってあらわれることがある。しばしばそれは、マスコミを騒がす種々の破壊的な行動の形をとる。

現代人は、主張し合い、傷つけあう生々しいかかわりを避け、多かれ少なかれ、冷たいやさしさへと引きこもり、ある種の破壊性を抑圧する傾向にある。だからこそ突然に破壊的な衝動を爆発させる、やさしき少年の事件に衝撃を受る。大人たちは、これらの事件により自分自身の内なる闇に直面させられるのだ、冷たいやさしさの奥の破壊的な衝動に。

また、 中・高校生だけでなく、大学生、出社拒否のサラリーマン、どの年代の引きこもりの人々にも共通するのは、肥大化した誇大自己=全能感の持ち主であるということ。しかも、その巨大な自己像にかなう現実の自分を社会の中に見出すことに失敗している。一見ひ弱で、小心、傷つきやすく、内気な人物に見えるが、実はその心の中に「自分は特別だ」という巨大な自己像が潜んでいる。

小此木は、現代日本の社会を多かれ少なかれ自己愛人間の社会だという。衣食住がみたされ、食欲も性欲もみたされているような社会、それでいてお国のためとか革命のためとかいう大義名分も理想も効力を失った社会では、私たちの心に唯一活力を与えるのは自己愛の満足の追求である。そして一方的な自己愛の追求は1.5的なかかわりと呼ばれるのと同じ心性が潜んでいる。( しかも全能感や1.5的なかかわりは、テレビゲームやパソコン、インターネットとのかかわりの中で浸ることのできるものである。その意味で彼らは時代のもっとも深い病を反映している。)

現代日本の特徴である自己愛人間社会が、異常な全能感や自己愛の満足しか身につけていない少年や若者を生み出している。彼ら少年、若者は私たち大人の自己愛人間の分身である。われわれの内なる自己愛人間の反映である。 

自我と無我(岡野守也)

2010-06-08 21:45:43 | 心理学全般
◆『自我と無我―「個と集団」の成熟した関係 (PHP新書)』(岡野守也)

私自身がトランスパーソナル心理学にも唯識仏教にも関心が深いので、この二分野を基盤に発言する岡野氏の著作はほとんど読んできた。が、この本はとくに興味深い。

まず戦中の大多数の仏教者が積極的に戦争協力の発言をし、「無我とは滅私奉公である」「無我とは天皇陛下のために死ぬことである」と説いていたという。禅僧も含め、戦前の仏教指導者たちは「自我を滅ぼして国のために尽くすことが無我だ」という混同に陥っていた。

ほとんどの仏教者がそうだったという事実に驚くと同時に、今はその過ちを認識できる歴史的状況になったが、「私があの時代に仏教界の責任ある地位にいたら、本気で同じことを思い、発言していたかも知れない」という洞察にも、ある種の感動を覚えた。

自我と無我をめぐる戦前の(そして現代にまで至る)思想的な混乱をトランスパーソナル心理学と唯識仏教の視点から整理し、批判するときに開ける展望の新鮮さ。

この本の中の印象に残った話に以下のようなものがある。

戦時中、中国・満州で説法し、兵隊に「国や天皇陛下のために死ぬのが仏教精神だ、思い残すことなく死ね」と説いて回った禅僧が、戦後も宗派の管長として大きな仕事をしていたが、反省して戦後だいぶたってから南方に遺骨拾いに行った。「あの状況下でつい死ねと云ってしまったが、せめて償いにお骨を拾ってお弔いをする」というのだ。

岡野は、この禅僧に心情的な反省はあっても、どうして戦争協力に至ったかの思想的な反省はないと指摘する。 仏教的な「無我」と「滅私奉公」を安易に混同してしまったところに、戦前・戦中の仏教や禅宗の、思想的未成熟があるのではないかと云うのだ。

この話を読んで最初に私が思ったのは、禅宗では覚醒、純粋経験など体験的なものが重視されるが、時代状況や歴史のそれぞれの局面で間違いを犯さないためにも、知的・思想的な探求や体験の位置付けが本当に大切なのだなということ。いくら体験が大切だと云っても、知的な探求を怠ってはならないこと。知的な探求も同じように大切だということを肝に銘じなければならない。

と、同時に、本当に覚った人が戦争協力などするのかという疑いもいまだに残っている。 本当に覚った人が、国家エゴがぶつかり合い、それに駆り出されて無数の人々が殺し合い死んでいく戦争を是認することなどありえるのか、それは本当に知的・思想的探求の不十分さだけによるのか。

人の心はどこまでわかるか(河合隼雄)

2010-06-07 20:33:47 | 心理学全般
◆『人の心はどこまでわかるか (講談社プラスアルファ新書)』(河合隼雄)

現場で活躍する心理療法家たちのさまざまな質問に答えるかたちで出来上がった本である。気軽には読めるが、読むほどに人と人のかかわりについて胸にしみるような言葉が多かった。

現場で苦労する心理療法家たちの真剣な質問に、著者も熱心に語り、小冊子ながら奥行きと幅のある、良質な本になっている。著者が、来談者にかかわる姿勢が、じかに感じられる。

深いところにどんと安定して来談者にどこまでも付き添っていく限りない包容性。それでいてちょっとした言葉の端はしに、こちらがハッとするような細やかな指摘があったりして、じつに参考になる。

心理療法について語りながら、人間と人間との関係についてのもっとも深いところに平易な言葉で触れていく、魅力的な本だ。

日韓いがみあいの精神分析

2010-02-21 21:45:30 | 心理学全般
◆『日韓いがみあいの精神分析 (中公文庫)

『日本がアメリカを赦す日』にしても、この本にしても、私が興味をもって読むのは、心理学や心理療法への関心の延長上で歴史や社会を読み解くことができるからだ。こういう視点からズバリと社会現象をえぐる著者はあまりいないし、その分析力も鋭く興味深い。

日本列島にひろく縄文人が分布していたところへ、稲作技術をもった弥生人が大陸から九州へ、そして徐々に東進して関東地方にまでいたった。そして大和朝廷が成立する。私たちはみな多かれ少なかれ縄文人と弥生人の混血であり、日本国家成立 の基盤において朝鮮半島から渡来した人々と文化が密接にからんでいるであろう。

にもかかわらずそれを打ち消そうした無理が、日本人の心理にゆがみを与えている、とくに韓国人に対する心理に。日本人の差別意識についての岸田の分析をまとめよう。

キリスト教は、ユダヤ教の一分派だが、キリスト教徒はユダヤ人を長く憎み続けている。誰しも自分の本当の起源が嫌いなのである。自分の独自性を損なうからである。

日本人は、建国の時以来、朝鮮とのつながりを否認し、純粋な日本人という幻想をもつことで日本を建国した。そのような幻想と否認によって、自己のアイデンティティを保とうとするとき、否認する相手への差別意識が必要となる。

しかし、差別意識には時代によって強弱の波がある。外圧のなかった江戸時代には、外に向かってアイデンティティを強調する必要もないから、差別意識が強まったとは考えにくい。韓国人への差別意識が強まったのは、明治以後ではないか。ペリーに開国を責められて屈したために、ヨーロッパ人への劣等感が生まれ、その補償として自分より劣等と思える存在が必要となった。それが韓国人やアジア人全体への差別意識につながったのだ。韓国人に対しては、自分の起源を否認したいという心理も働き、二重の意味で差別 意識が強くなったのだろう。

我々の心のなかには、欧米人への劣等感と、その裏返しとしての、非欧米人への優越意識とが共存する。自分がアジア人であることも忘れて、経済的な発展などを背景に優越感に浸る。これは、個人心理が、そのまま集団心理ともなる、きわめて普遍的な心理現象だろう。

民族差別の問題は、個人の差別意識がそのまま国家レベルの差別意識に連動し、歴史の流れに影響していると考えて間違いない。いや、国家レベルの経験が個人の意識に反映していると言うべきか。

岸田の分析は、全体として日韓関係や、日本の対アジアへの姿勢を考えるうえで大いに参考になると思う。それだけではなく、我々一人 一人のなかにある差別意識を自覚化し、その根元にどんな経験が横たわっているのかを知るうえでも貴重な分析だと思う。個人個人が、自分の無意識に根ざす差別意識を自覚化し、解消していかない限り、国家レベルの問題の解消も困難だろう。岸田の仕事は、もっともっと議論されてよい。