精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

神話の力

2015-02-07 08:51:27 | 精神世界全般
◆『神話の力 』(ジョーゼフ・キャンベル)

神話学者、ジョーゼフ・キャンベルが、様々な神話に隠された意味を対話形式でわかりやすく語っている。小説や映画に登場するモチーフなどと比較しながら、神話がもっている深い精神性を明らかにする。

神話が、時代と地域を越えて共通の要素をもっているのはなぜか。人間のこころは、 基本的には世界中どこでも同じだからだ。みんな同じ器官を持ち、同じ本能を持ち、 同じ衝動を持ち、同じ葛藤を経験し、同じ不安や恐怖を抱くのだ。この共通の基盤 からユングいう元型が出現した。これが神話の共通地盤である。 元型は生物学的な根拠をもっているが、フロイトの無意識は個人的な外傷経験を抑圧したものの集合だ。ユングのいう無意識の元型は生物学的であり、自伝的な要素 は二の次である。人類史上のそれぞれの時代に、こういう元型がさまざまな衣装を まとって出現したのである。キャンベルは「神話は公衆の夢であり、夢は個人の神 話です」という。

神話の共通基盤が、人類の生物学的な条件に基づいているという見解は納得できる。 とくに同じ不安や恐怖を抱くその根底には、人間が死すべき存在だという絶対的な事実がある。だからこそ、もっとも深い根源から共通の元型が生まれてくるのであろう。そこには人間の条件についての人類共通の問いが横たわっており、その問い に対する答えを抽象的な思考によってではなく、物語とイメージによって語るのが 神話なのだ。 神話は、人が生きるということの最深の層に触れているのだ。

キャンベルが、神話 に関心を寄せる視点は、「生きる」ということに対して私が関心を寄せる視点とぴったりと重なるので、共感し、啓発されながら読んだ。 たとえば情欲と恐怖、この二つの感情が、この世のすべてを支配している。情欲が「えさ」で、死が釣り針だ。そこに神話と宗教がかかわる共通の根がある。それは、物質的な欲望と肉体の恐怖とを、肉体を支える精神性のために犠牲にすることである。

肉体の奥に秘められた〈大いなるいのち〉を知り、時間の場においてそれを表現することを学ぶ。この限りある生において、人間性を養い育て開花させるもののために自己を捧げる。 悟りとは、万物を貫いている永遠の輝きを認めることだ。時間の幻のなかで善と見 なされるものだけでなく、悪とみなされるものも含めすべてに。

そこに至るために は、現世の利益を願い、それらを失うことを恐れる心(情欲と恐怖)から完全に脱却しなければならない。 こうした思考が、神話の構造に即して語られることで普遍性を帯び、同時に神話が生まれてくる次元の深さを指し示す。(たとえばガウェイン卿と緑の騎士の物語な ど。)

神話を通して、これほどに深い真実が語られるとは。 キャンベルは、神話学を「ひとつの偉大な物語」の研究だという。私たちはみな、存在のひとつの基盤から生まれて、時間という場に現れている。時間という場は、 超時間的な基盤の上で演じられる一種の影絵芝居だ。私たちは影の場で芝居を演じる。「ひとつの偉大な物語」とは、そのドラマにおいて自分の位置を見出す努力のことだ。

誰でも、自分でそう思い込んでいる〈自分〉以上の存在であり、自分についての観念には含まれない次元と自己実現の可能性がある。生は、いま自分で見ているより はるかに深く、はるかに広い。いま生きている生は、それに深さを与えているもののうち、ほんのわずかな影に過ぎない。わたしたちは、その深みのおかげで生きられるのだ。あらゆる宗教は、その深みについて語っている。神話もまたその深みに 触れている。この世界という偉大な交響曲に対して、それと調和し、肉体のハーモ ニーを世界のハーモニーに同調させるためにこそ、神話が生まれたのだ。

神話の深さと魅力に目を開かれる一冊であった。

『日本人の心はなぜ強かったのか』(齋藤孝)

2012-07-28 12:39:24 | 精神世界全般
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

著者は、戦前に比べ日本人の心は格段に弱くなったと主張する。たとえば自殺者は、もう13年連続で3万人を超えている。その背景の一つには、心の肥大化があるのではないか。この本の副題は精神バランス論である。心の肥大化とは、心と精神と身体(習慣)のバランスが崩れて、心の働きが相対的に大きくなり過ぎたことをさす。

心と精神はまったく別物だ。心は個人的だが、精神は、共同体や集団によって共有される。民族の精神のような大きなものもあれば、会社や学校の精神もあり、多かれ少なかれその精神は、所属する個人に内面化される。

人間は、心と精神と身体(習慣)の三つにより成り立ち、それらがバランスよく伸びることで真っ直ぐに成長できる。

ところが昨今は、心の問題がバランスを欠いて大きくなり、思い悩んだり仕事が手に付かなくなったり、体調を崩してしまうことも多い。逆にいえば、それだけ日本人は、精神と身体が弱っているのだ。精神や身体もしっかり機能していれば、心だけが異様に大きくなって余計なことで思い悩むことは少なくなる。共同体に共有される精神や、身体に身に付いた習慣にまかせておける部分が大きいからだ。つまり心の土台がしっかりするからだ。

日本人の心が肥大化したのは、敗戦を境にして、かつての精神や身体の継承が途絶えたからだといわれる。「日本的なるもの」の多くが捨て去られ、以前は共同体によって共有されていた諸々の精神は失われ、個人的な心が肥大化した。頼るべき精神がなく、悩みやストレスばかりが大きくなるところに日本人の心の危機がある。

戦前の日本人の精神性を圧倒的に担っていたのは儒教だった。戦前の教育の柱とされた「教育勅語」にも「父母に孝に、兄弟に優に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」など、儒教的道徳観が盛り込まれていた。過度に神聖視され国家主義体制のために利用されたが、内容的には道徳心を説いた部分が多い。ところが戦後になると、過去の「忌わしい記憶」として全面的に排除され、これに限らず日本古来の「精神」はおしなべて国家主義と批判された。

しかし、言うまでもなく儒教的精神そのものが好戦的でナショナリズムに結びつくわけではない。儒教的道徳心が浸透していた江戸時代が軍国主義だったわけでもない。江戸時代の子どもたちは寺小屋で『論語』を素読し、その精神を感じ取っていた。が戦後は、素読自体が頭ごなしの非民主的な教育とされた。『論語』を中心とする儒教教育全体を捨てたことは、精神の半分以上を捨てたことになり、儒教教育の喪失は日本人にとってマイナス面の方が大きかったと齋藤はいう。

儒教や武術のように古来から精神の形成に一定の役割を果たしてきたものを禁じられると、その結果、個人の感情や気分が一気に肥大化する。共有できる精神を持たない民族は弱い。それが露わになったのが、経済成長が一段落した1970年以降だという。戦前の教育を知らない世代は、精神や身体といった土台が緩んでしまい、その分、心が膨らんでしまった。日本人は概しておとなしく、不安定な心を抱えるようになったというのである。

かつての日本人は、精神の領野と身体(習慣)の領野を切り離せないものとして発達させていた。禅の修行でも、座禅ばかりではなく、作務と呼ばれる日常の作業のなかで無心を学ぶことが大切だといわれる(日常工夫)。また、手作業が心を和らげることは、最近の研究でも実証されつつあるという。体内にあるセロトニン神経系が、リズムカルな運動によって活性化され、心を安定化させるというのだ。

職人の仕事もそれぞれに固有のリズムを持っている。職人気質で一つの仕事に徹する人生も、人の心に深い安定を与える。それが○○道として自覚されれば、禅的な求道の「精神」を生きることになり、心の安定はさらに深まる。職人がその「道」を究めようとする姿勢は、日本文化の深い「精神」に通じており、これも日本人の心の強さを形づくっていた重要な要素だ。

『論語』などの素読も、リズムカルに声を出す「作業」であると同時に、古典の「精神」を呼吸することにつながり、日本人の心を強くしていた大切な要因で、これはとくに齋藤が強調する方法だ。彼の本『声に出して読みたい日本語』はベストセラーになったから知る人も多いだろう。

このように、それぞれの「精神」を生きる手段を豊富にもっていた日本人は、もともと強い心を持っていた。だったらそれを取り戻せばよい。一昔前の日本人がふつうに実践していたことを復活させればよい。それだけで日本人は元通り強くなれると、著者はいう。

本の後半ではそのためのノウハウがいろいろ紹介されている。ただこの本は、コミュニケーション論など彼の他のの著作に比べると、具体的な方法の部分が少し魅力に乏しい感じがする。他の本では、これはと思えるような画期的なノウハウがいくつも紹介されているが、この本にはそれが少ないのだ。その点は少し残念だったが、今の日本人の心に何が欠けているのか、充分な説得力をもって語りかける本だ。

ブッタとシッタカブッタ(1)(2)(3)(小泉宏)

2011-04-04 00:03:56 | 精神世界全般
◆『ブッタとシッタカブッタ〈1〉こたえはボクにある
◆『ブッタとシッタカブッタ〈1〉こたえはボクにある
◆『ブッタとシッタカブッタ〈3〉なぁんでもないよ


ぶたのブッタとシッタカブッタを主人公にした4コママンガの形をとっていて、とても親しみやすい。しかしマンガといっても、そのなかでさりげなく語られている内容は、 人の生き方についてのとてもとても深い真実に触れている。

精神世界やニューエイジ、東洋思想などに関心のある人たちにはなじみぶかい考え方かも知れないが、そんな考え方を知らない中学生や高校生にどう語るかこまってしまうこともある。このマンガは、かわいいブタと、語られる内容が不思議にマッチしていて、 変な押しつけもなくすんなり心に入ってくる。私の息子や娘(高校生と中学生)も、読めと言わないのに夢中で読んでいた。  

とくに(1)の前半は、シッタカブッタの恋の悩みを中心に語られているから、中学・ 高校生たちは身につまされる話だだろう。「これ、俺のことみたいだ、私と同じね」な どと、笑ったり共感したりしながら、いつしか人生の深い真実に導かれる構成になって いる。

息子や娘だけでなく、身近な多くの人に読んでもらいたいと思った。    


彼岸の時間(蛭川 立)

2010-09-14 21:25:35 | 精神世界全般
◆『彼岸の時間―“意識”の人類学』(蛭川 立)

著者は、気鋭の文化人類学者。この著者の本を読むのは初めてだ。他に『性・ 死・快楽の起源―進化心理学からみた「私」』(福村出版)があるが未読。

実に刺激の多い本だった。シャーマニズム、葬送儀礼、臨死体験、セックス、瞑想、サイケデリックス‥‥と多岐にわたる話題を扱いながら、地球上の多様な文化における意識の在りようを、示唆に富む新鮮な視点から描く。文化人類学者としての豊富なフィールドワークや知見を縦横に駆使して、変性意識状態と政治権力との 関係が文化によっていかに変化に富むかを見事に描き出す。

狩猟採集社会では、シャーマン的な人物が政治的なリーダーであることも多いが、その権力はたかが知れており、しかも世襲しない。一方、定住的な農耕社会では、祭司宗教が中央集権的な権力と結びつき、超自然的な世界との交流権を独占するが、それは儀式化し形式化する。そして祭司が権力を持つ社会ではシャーマン的な人物はしばしば異端として弾圧される。

全人類が狩猟採集民だった時代には、サイケデリックスの使用と結びついた脱魂型シャーマニズムが地球上に広がっていた。農耕牧畜の開始以降は、徐々に酒の使用と結びついた祭司・霊媒(憑霊型シャーマン)複合型の宗教文化にとって代わられたという。この段階で、宗教が組織化され団体になると、現世的な権力と相性がよくなり、それと結びつく。そして世界の神秘に直接触れようとするシャーマン的な神秘主義者を弾圧する。シャーマニズムは反体制的なサブカルチャーとなり、現世的な権力と結びついた司祭の立場を危うくするからだ。

これは、農耕牧畜以降の多くの社会が、毒性や依存性のほとんどないサイケディックスを危険な薬物として禁止するのに対応している。しかし実は、サイケディックスがわれわれを文化的催眠状態から「覚醒」させる作用を持っており、「自我」 や「国家」という、本当は存在しないものを存在すると思っている意識状態から、われわれを覚醒させる。だから国家によって禁止されるのだという。

中南米の先住民社会は文明を発展させるとともにむしろサイケデリックスの使用を強化し、脱魂型シャーマニズムを発展させたらしい。著者は、アマゾン先住民の社会でサイケデリックス植物のひとつアヤワスカを用いた儀式に参加し、その変性意識状態を体験している。現存する先住民文化や、この大陸の失われた文明の遺跡などから、サイケデリックな意識状態と共存しうる文明のあり方を考えることが重要になると示唆する。サイケデリィックスを瞑想とならぶ意識変容の技法として捉えて、近代的な思考様式に対する新たな可能性を見ているのだ。

著者はまた、ウパニシャッド哲学に基づいて人間のとりうる意識状態をつぎの4種類に分類している。

0 生命活動が停止している状態‥‥「死」
1 生命活動はあるが知覚のない状態‥‥「昏睡」
2 知覚だけがある状態‥‥「夢のない眠り」
3 知覚に気づいている状態‥‥「自我意識」
4 「知覚に気づいている状態」に気づいている状態‥‥「観察する意識」  

このうち「第四の意識状態」は、悟りとか覚醒とか言われる状態を指すが、これを踏まえて次のようにいう。「資本主義と科学技術の爛熟した時代の中で、『第四の意識状態』がふたたび宗教という装置の検閲を経ないなまの形で経験される状況が生まれてきている。‥‥ 人類史上、意識の神秘それ自体について語れるようになった初めての時代だといってよい」という指摘は、私がニューエイジ対話でも打ち出していた考えであり、深く共感する。

ニューエイジをめぐる対話(7)心霊性運動の歴史 的意味

光を放つ子どもたち(トーマス・アームストロング)

2010-04-11 09:30:09 | 精神世界全般
◆『光を放つ子どもたち―トランスパーソナル発達心理学入門』(日本教文社)

子どもはただ「肉体から上昇して」育つという方向からのみ理解されるべきではない。同時に「スピリットから下降して」この世界にやってきたのだ。そうした一面を無視すれば、子どもについての大切な真実が完全に見落とされてしまう。この本は、従来振り見られなかった、子どものトランスパーソナルな次元に初めて光を当てたという意味では重要な本である。  

子どもの成長は、基本的に生物学的・生理学的な概念を用いて記述することができる。こうした方向は、現代の発達心理学によって詳しく研究され、実証もされてきた。著者は、この方向を「肉体から上昇する」発達と呼ぶ。  

これに対し、子どもの発達には第二の方向がある。それは第一の成長過程とならんで存在し、それに影響をおよぼし、究極的にはそれを支えてさえいる。この隠れた過程を著者は、「スピリットから下降する」と呼ぶ。それは、広く深く包括的な高次の非物質的レベルから、狭く限定された物質的・肉体的レベルへと下降するプロセスである。  

これら二つの発達の方向は、どちらも不可欠である。「肉体から上昇する」部分を欠くなら、子どもはもはや「子ども」とは呼べない。一方、「スピリットから下降する」部分がなければ、子どもから心の深遠な次元が抜け落ちてしまう。人生に方向性と一貫性をもたらすのは、この次元である。それによって子どもは、人生の目的、使命、方向感覚などを得る。

「スピリットから下降する」方向をこのような比較によって明確に語られると、あらためていろいろと気づかされる。私自身、この物質的次元、肉体的な次元だけでは、生きるということの不思議を何も説明できないと強く感じる。それは、まさに「スピリットから下降する」方向の存在を信じるということだ。「スピリット」は、仏性と言い換えてもよい。もちろん、子どものなかにもそれは隠されている。 だからこそ時に子どもは、光輝く高次の神秘体験をすることがある。この本にはそのような体験の事例がいくつも収集されている。  

ところでケン・ウィルバーは、こうした理解を「前/超の虚偽」として批判するであろう。「前/超の虚偽」とは、大人の真に超個的(トランスパーソナル)な体験を誤って幼児的起源へ引き降ろしたり、あるいは逆に幼児的な前個(プレパーソナル)レベルの合一体験を超個的地位へ格上げすることである。たとえば、宗教感情のすべてを幼児的退行状態へと還元するフロイトは、前者の間違いを犯した。後者の間違 いは、ワーズワース、ユング、ベルグソンなどに見られるという。  

著者は、人間の発達のなかに含まれる「前」レベルと「超」レベルを正しく区別 する必要を認める。しかしウィルバーは、スピリチュアルな世界が子どもの意識のなかへ下降してくる可能性をあまり深く考慮していないと批判する。母親との一体感のような原始的で前意識的な体験がスピリチュアルな意識と混同されるべきでは なく、また大人の真の神秘体験が前個的な位置に還元されるべきではない。しかし同様に重要なのは、幼児や子どもの体験する真に神秘的な体験を、何か低い次元に還元してはならないということだ。  

私は、基本的に著者の主張に賛成である。子どもの臨死体験や子ども時代の至高体験の報告に数多く接すれば、「スピリットから下降する」方向が厳然と存在することを認めざるを得ない。たとえば、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の「覚醒・ 至高体験の事例集」に収めた

デイビッド・シュパングラーの事例

を参照してほしい。 わずか七歳のときの「覚醒の体験」である。

「スピリットから下降する」方向をも無視しない理論はまた、子どもたちが生まれる以前の魂の記憶を時に保持していたり、甦らせたりする可能性も説明しうる考え方である。アカデミックな立場の人々は、容易に認めないだろうが、子どもに秘められた高次の精神性を正しく捉えるためには是非ともこうした前提に立たざるを得 ない。こうした側面を視野に含まない発達心理学も、またトランスパーソナル心理学も、真理の反面を見失うだろう。

愛への帰還(マリアン・ウイリアムソン)

2010-04-09 12:48:03 | 精神世界全般
◆『愛への帰還―光への道「奇跡の学習コース」』(太陽出版1998年)

翻訳完成が待望される『奇跡の学習コース』(A Course In Miracles)に基づいて書かれ、『奇跡の学習コース』へのよき案内ともなっている。随所にこの本からの言葉を散りばめながら、その教えをいかに日常生活の応用するかが語られる。これを読んで私も『コース』をぜひ読みたいと思った。

『愛への帰還』を読んで感じるのは、クリシュナムルティやエックハルト・トール、最近読んだ本ではガンガジらが語ることと、その底に流れているものは同じだということである。違うところは、同じことを愛という側面から語っており、それゆれより実践的であるということである。

『奇跡の学習コース』は、伝統的なキリスト教の用語を用いているが、その使い方はきわめて非伝統的であるという。それは、『愛への帰還』を読んでもよく分かる。神、愛、聖霊、光といった言葉が頻繁に使われる。しかし、そこに流れるのは大乗仏教的な精神に通ずるものである。いや「大乗仏教的」という限定的な言葉づかいをすることにも抵抗がある。ひとつの真実が、キリスト教的な言葉によって、深い層から語りかけてくるような印象を受ける。

キリスト教的な言葉遣いながら、その精神は東洋的な真理と一致する。その真理が、愛、許し、受容などより実践的な文脈の中で語られ、深く心を揺さぶる。何度も繰り返し読んで、その言葉をかみしめつつ成長していきたいと思う。

ちなみに『奇跡の学習コース』は、1965年にニューヨークのコロンビア大学医学部の教授ヘレン・シャックマンが、チャネリングした内容を書き写したもので、1200頁からなる大著である。英語では既に150万部出版され、フランス語、スペイン語、中国語でも既に出版され、現在日本語への翻訳作業も進行中とのこと。そのメッセージはきわめて深遠で多くの人々の心を動かしているという。

すべては宇宙の采配

2009-09-22 15:21:27 | 精神世界全般
◆『すべては宇宙の采配

著者が、無農薬・無肥料でリンゴ栽培を成功させるまでの苦しみとその後の劇的な展開が興味尽きない。

自分のやり方でまったく成果がでず、収入もなく追い詰められて自殺を決意するところまでいく。ロープをもって岩木山に登っていき、ある木にロープをひっかけようとするがうまくとまらない。飛んでいったロープを取りにいくと、ちょうどロープが落ちたところに野生のリンゴが3本あった。その根元がふかふかで、ほのかな土の香りがした。自分のリンゴ畑の固い土との差に驚く。「そうだ、畑の土を自然な状態にすればよいのだ」と、家に戻った。それ以来、農薬のかわりのにんにくや牛乳もまかず、下草も生えるにまかせた。すると多種多様な雑草が生え、野うさぎ、野ねずみ、テン、イタチがやってくるようになり、害虫の蛾を食べるカエルも大発生した。大ミミズも増えて土を豊かにし、野生の王国の食物連鎖が始まったのだ。そして、自殺を思って入った山で偶然見つけた野生のリンゴの木(実際はリンゴではなかったようだ)の下のふかふかの土と同じになり、ついに無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功するのだ。

福岡正信の『自然農法 わら一本の革命』を読んだことが、彼のその後の人生を変える。著者の農法も自然農法の一種といってよいかも知れないが、福岡正信の農法と違い、一切を自然に任せてしまうわけではない。ともあれ、リンゴの果樹園に、自然のバランスを取り戻すことで無農薬・無肥料のリンゴ栽培ができるようになったという事実に強く引かれる。人為によって分断されない自然の連鎖の中に真の豊かさがある。

この本には他に、著者のUFO体験や臨死体験などがストレートに語られている。少し無防備に語りすぎるのではないかと心配になるほどだが、そのバカ正直さこそがこの人の魅力なのであろう。著者の体験が面白いのは、たとえばUFO体験で一緒だった人が、その後テレビ番組に出ているのを見て、自分の共通の体験を語るなど、なにかしらの裏づけになるような体験が続くことだ。それでも信じられない人は多いだろうが。

いずれにせよ、私の中の自然農法への昔からの関心をよみがえらせてくれた本だ。