精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

昏睡状態の人と対話する―プロセス指向心理学の新たな試み

2009-07-26 18:11:58 | 臨死体験・死生観
◆『昏睡状態の人と対話する―プロセス指向心理学の新たな試み (NHKブックス)

この本は、おそらくミンデルの本の中でいちばん平易で読みやすいものの一つだ。

ミンデルが創始したプロセス指向心理学は、個人療法、家族療法、集団療法などに適用されると同時に、コーマワークとしても新たな展開を見せている。コーマワークとは昏睡状態の人とのワークを意味する。この本は、コー マワークという特異で独創的なワークの視点からのミンデル世界への入門と考えてもよい。

昏睡状態の人と対話などできないという常識にがんじがらめになっていた医師やセラピスト、その他多くの人々を驚愕させる成果の積み重ね。これまで誰もなしえなかった対話を可能にした驚くべき才能と独創性。その成果を基礎にした説得力。

しかも、その対話や実践的な成果から自ずと明らかになるのは、肉体を超えた魂の永遠性や、肉体の死に直面しつつそれを乗り越えて成長する精神の感動的なあり方なのだ。昏睡状態の人と対話をするという、きわめて具体的な実践を踏み外さず、その視点からのみ語りつつ、とてつもなく深い精神の世界を語っているのに驚く。

その実践に基礎付けられた事実の重みがこの本に、他に類を見ない価値を与えてい る。昏睡状態にあった魂が、肉体に閉じ込められた視点から認知する「現実」を超えて、はかり知れない精神の世界へ飛び立とうとする。そのとき、愛、自由、癒しといった偉大な課題を成し遂げていく様が、ミンデルとの感動的なワークを通して明らかになってく。

昏睡状態は「閉じられたアイデンティティから、より大いなる命に向けての自由を生み出すための歓喜に満ちた最後のダンスの試みであるかもしれない」とミンデルは捉えるのだ。彼は、「旅の道のりは、しばしばトランス状態や昏睡状態といった影の部分をさまよい、通り過ぎる」とも言う。

旅とは、もちろん大いなる命へ向けての旅だ。その旅の道のりにおいて昏睡状態は、しばしば積極的な意味を持つ。「命に関わる病気が死のきわで表す症状は、光明につながる道なのだ。身体から発信されるシグナ ルは、それがいつ現われるかに関わりなく、自覚を捜し求める夢なのである。」

身体のどのようなシグナルが、「自覚を探し求める夢」としてどのようにミンデ ルに受止められ、どのように応答されていくかは、ぜひ本をとって確かめていただきたい。ここではミンデルの次のような言葉を紹介するに留めよう。

「私が出会った昏睡状態になった人々は脳の構造上深刻なダメージを受けた人以外は、全員目を覚まし、パワフルな体験を言葉で語ってくれた。脳にひどい外傷的なダメージをこうむった人ですら、プロセスワークに対して非言語的な合図によって肯定的に反応した。一方、脳にひどい損傷を負っていない人々は目を覚まし、未解決の愛や学ぶべきテーマを完了させた」

この本でもう一つ興味深いのは、ミンデルの他の本には見られない、霊的な世界についてのかなり踏み込んだ発言も見られる点だ。 たとえば、「死に瀕した人々の多くがベッドに横たわりながら、同時によその町中を歩き回るという体験を私にきかせてくれた。私はこのようなケースから、人間の意識は肉体の外に飛び出すこともあり得ると考えるようになった」等々の発言。

いずれにせよ、ミンデルのコーマワークが、以上のような生命観をもとに実践され、またコーマワークの実践が、このような生命観を育んでいったのだということを忘れてはならない。

ミンデルは最後の章を「脳死と死の倫理学」にあてている。最近のニュースでも長い昏睡状態から目覚めた事例があったが、昏睡状態での体験を味わい尽くした後で、自らの決心で息を吹き返す人もいるのだ。持続的な植物状態においてさえ、脳と精神が同一とはいえないと彼はいう。そのような状態でも患者と対話ができるのであれば、死の判定を、家族や医師にまかせてしまっていいのだろうか。「生と死」 は、瞬間毎に当人によってのみ定義され得る」というのがミンデルの主張である。 

生きる意味の探究

2009-03-21 21:41:03 | 臨死体験・死生観
◆『生きる意味の探究―退行催眠が解明した人生の仕組み

これまでに読んだ退行催眠による過去生の探求や、いわゆる「前世療法」を扱った本に比べると、実証的な姿勢がある点がよい。クライエントが語った過去生の記憶を実証的に確認した結果をある程度語っているのだ。ただ全訳ではないので、もっと実証的な部分は翻訳では省略されているかも知れない。少なくとも、いくつか挙げられた事例から判断して、実証的に確認できる事例を、著者がかなり持ってい るようだということは分かる。

一例を挙げよう。アメリカ人である女性が、アレックス・ヘンドリーという男性として19世紀後半のスコットランドに暮らしていた人生を語った。アレックスは、肉体的なハンディキャップを克服し、エディンバラ大学で医学を修めた。その生き生きとした大学生活の描写は、証明可能な二つの事実を含んでい た。

ひとつは家族がハンプシャーに住んでいたこと。もうひとつは、彼が1878年に医学校を卒業したことだった。こうした100年以上前のスコットランドの一無名人の情報を、クライエントが入手できたはずはないが、勉強のたいへんさや、家族からのプレッシャーを語る彼女の描写は真実味が溢れていたという。

著者はその後、エディンバラ大学に問い合わせて返事を受け取った。「アレクサンダー・ヘンドリー。スコットランド、バンプシャー郡カラン出身。1878年、医学士過程及び修士課程終了。」

この本でも改めて確認したのは、クライエントが過去生で死ぬ場面を語る描写が、臨死体験者の報告とほとんど同じだということだ。これは驚嘆に値する。体外離脱、上から自分の肉体を見る、愛を発散する光に包まれる等々。これも具体例を示そう。

「自分の遺体が見えます。自分の体を、見下ろしているんです。暴徒たちは、その遺体に覆いかぶさるように立っています。ひとりの男が、足で私の遺体をひっくり返して、何かぶつぶつほかの人たちに話しかけています。遺体を運び去ろうとしているんです。もう、自分の肉体にとどまりたいとは思いません。自由になったんです。そして光が‥‥‥とっても感じのいい光です。安らかな気持ちにさせてくれ ます‥‥‥恐怖も苦痛も消えました。私は自由になったんです。」

もちろんこれは退行催眠で過去生での死とそれに続く場面を思い出しているのだが、臨死体験についてある程度知る人なら誰でも、両者の驚くほどの類似性を認めるだろう。

著者は言う、「退行したクライアントがどんな宗教を信じていようと、過去生での死の体験は、みな驚くほどそっくりである。死とは移行の瞬間であり、平和と美と自由の瞬間である。着古してくたびれた衣装を脱ぎ捨てて、新しくもあり、またふるさとのように馴染みある世界へと、踏み込んでいく瞬間なのである。」

多くのクライアントが繰り返し語る死の特徴は、「身の軽さ、浮遊感、自由さ」だというが、これはまた、多くの臨死体験者が繰り返し語る特徴でもあるのだ。

臨死体験の報告と一つだけ相違する部分があるとすれば、退行催眠ではトンネル体験を語るものは、ほとんどいないらしいということだ。

それにしてもきわめて高い共通性があるのは確かで、今後しっかりとした統計的な比較研究をする必要があると思う。これほど臨死体験が知れ渡っている以上、ほとんどのクライエントはその内容を知っているだろうから、たんに共通性が高いだけでは、あまり意味をなさない。細部に渡る比較研究のなかで、この共通性が積極的な主張につながるかどうかを検討しなければならない。

クライエントが語る「中間生」、時空のない世界の描写にも、臨死体験の報告と高い共通性がある。「宇宙を満たす感触、すべての生物を包み込む感触、見えるものも見えないものも含めたすべてのものの真髄に触れる感触、あらゆる知識に同化して文化の制限を超えた真実に目覚める感触、それが、中間生である。」

悟りにも似た精神変容を遂げる臨死体験者も、同様の世界に触れた体験を語ることは、『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』の読者なら、容易に理解してくれるだろう。

中間生の描写は、別項で取り上げた『魂との対話』での「魂」のあり方とも非常によく似ている。「魂」は、それ自体、時間による制限を受けず、時間の外側に存在している。「魂」の視野は広大で、その知覚はパーソナリティー(個々の人生を生きる自己)のもつ限界を超越している。パーソナリティーは、愛や明晰さ、理解、思いやりなどに自身を同調させることで「魂」に近づく。  

退行催眠は、クライアントが療法家の世界観の影響を無意識に受けやすいという面があるかも知れない。そうした点に充分慎重である必要はあるが、著者が豊富な臨床例から解明した「人生の仕組み」を参考にして見る価値は充分にあると思った。人生という名の学校で、私たちは、繰り返し学び続けているのだという「仕組み」 を。

生きる意味の探究

2009-03-21 21:41:03 | 臨死体験・死生観
◆『生きる意味の探究―退行催眠が解明した人生の仕組み

これまでに読んだ退行催眠による過去生の探求や、いわゆる「前世療法」を扱った本に比べると、実証的な姿勢がある点がよい。クライエントが語った過去生の記憶を実証的に確認した結果をある程度語っているのだ。ただ全訳ではないので、もっと実証的な部分は翻訳では省略されているかも知れない。少なくとも、いくつか挙げられた事例から判断して、実証的に確認できる事例を、著者がかなり持ってい るようだということは分かる。

一例を挙げよう。アメリカ人である女性が、アレックス・ヘンドリーという男性として19世紀後半のスコットランドに暮らしていた人生を語った。アレックスは、肉体的なハンディキャップを克服し、エディンバラ大学で医学を修めた。その生き生きとした大学生活の描写は、証明可能な二つの事実を含んでい た。

ひとつは家族がハンプシャーに住んでいたこと。もうひとつは、彼が1878年に医学校を卒業したことだった。こうした100年以上前のスコットランドの一無名人の情報を、クライエントが入手できたはずはないが、勉強のたいへんさや、家族からのプレッシャーを語る彼女の描写は真実味が溢れていたという。

著者はその後、エディンバラ大学に問い合わせて返事を受け取った。「アレクサンダー・ヘンドリー。スコットランド、バンプシャー郡カラン出身。1878年、医学士過程及び修士課程終了。」

この本でも改めて確認したのは、クライエントが過去生で死ぬ場面を語る描写が、臨死体験者の報告とほとんど同じだということだ。これは驚嘆に値する。体外離脱、上から自分の肉体を見る、愛を発散する光に包まれる等々。これも具体例を示そう。

「自分の遺体が見えます。自分の体を、見下ろしているんです。暴徒たちは、その遺体に覆いかぶさるように立っています。ひとりの男が、足で私の遺体をひっくり返して、何かぶつぶつほかの人たちに話しかけています。遺体を運び去ろうとしているんです。もう、自分の肉体にとどまりたいとは思いません。自由になったんです。そして光が‥‥‥とっても感じのいい光です。安らかな気持ちにさせてくれ ます‥‥‥恐怖も苦痛も消えました。私は自由になったんです。」

もちろんこれは退行催眠で過去生での死とそれに続く場面を思い出しているのだが、臨死体験についてある程度知る人なら誰でも、両者の驚くほどの類似性を認めるだろう。

著者は言う、「退行したクライアントがどんな宗教を信じていようと、過去生での死の体験は、みな驚くほどそっくりである。死とは移行の瞬間であり、平和と美と自由の瞬間である。着古してくたびれた衣装を脱ぎ捨てて、新しくもあり、またふるさとのように馴染みある世界へと、踏み込んでいく瞬間なのである。」

多くのクライアントが繰り返し語る死の特徴は、「身の軽さ、浮遊感、自由さ」だというが、これはまた、多くの臨死体験者が繰り返し語る特徴でもあるのだ。

臨死体験の報告と一つだけ相違する部分があるとすれば、退行催眠ではトンネル体験を語るものは、ほとんどいないらしいということだ。

それにしてもきわめて高い共通性があるのは確かで、今後しっかりとした統計的な比較研究をする必要があると思う。これほど臨死体験が知れ渡っている以上、ほとんどのクライエントはその内容を知っているだろうから、たんに共通性が高いだけでは、あまり意味をなさない。細部に渡る比較研究のなかで、この共通性が積極的な主張につながるかどうかを検討しなければならない。

クライエントが語る「中間生」、時空のない世界の描写にも、臨死体験の報告と高い共通性がある。「宇宙を満たす感触、すべての生物を包み込む感触、見えるものも見えないものも含めたすべてのものの真髄に触れる感触、あらゆる知識に同化して文化の制限を超えた真実に目覚める感触、それが、中間生である。」

悟りにも似た精神変容を遂げる臨死体験者も、同様の世界に触れた体験を語ることは、『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』の読者なら、容易に理解してくれるだろう。

中間生の描写は、別項で取り上げた『魂との対話』での「魂」のあり方とも非常によく似ている。「魂」は、それ自体、時間による制限を受けず、時間の外側に存在している。「魂」の視野は広大で、その知覚はパーソナリティー(個々の人生を生きる自己)のもつ限界を超越している。パーソナリティーは、愛や明晰さ、理解、思いやりなどに自身を同調させることで「魂」に近づく。  

退行催眠は、クライアントが療法家の世界観の影響を無意識に受けやすいという面があるかも知れない。そうした点に充分慎重である必要はあるが、著者が豊富な臨床例から解明した「人生の仕組み」を参考にして見る価値は充分にあると思った。人生という名の学校で、私たちは、繰り返し学び続けているのだという「仕組み」 を。

死ぬ瞬間―死とその過程について(E・キューブラー・ロス)

2008-12-27 14:40:59 | 臨死体験・死生観
◆『死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫) 

この本は、何よりも死に行く人々に接し、治療し、看護し、介護する人々のために書かれたものであろう。そうした医者や看護婦、家族にとって必読の本であり、きわめて多くの示唆を与えてくれる。E・キューブラー・ロスの本は、これまで臨死体験などに触れた二冊と自伝『人生は廻る輪のように』等を読んだ。『人生は廻る輪のように』にがあまりに素晴らしかったので、この主著も読む気持になったが、今直接に死に行く人々に接しているいなくとも、必読の書であることが分かった。

本書で初めて語られた「否認と孤立、怒り、取り引き、抑鬱、受容」という、末期患者がたどる死の五段階説は、あまりに有名だ。200人以上の末期患者に対して行われたインタビューを元にして本書は書かれている。その具体的な事例のなかで語られる個々の患者の心理的の重さ・真実さ。それは、誰も逃れることのできない死という絶対的な事実の重さから来る。

著者が繰り返し指摘するように「無意識のなかでは私たちはみな不死であるから、自分が死と向かい合わなくてはならないという事実を認めることなど、ほとんど考えられないのである」。読んでいる私自身も、無意識の否認をみごとに行っているのだが、末期患者の生々しい心理やインタビューでの言葉に接することで、いくぶんなりとも「無意識の否認」に揺さぶりがかけられる。

否認はまさしく、ヤスパースのいう「限界状況」からの逃避である。人間が、自己の挫折をいかに経験するかということが、その人間がいかなるものになるかということを決定する。本当の意味で挫折することから眼をそらし続け、最後にそれに打ち負かされるのか、それとも挫折を糊塗することなく、絶対の限界状況を直視し続けるのか。限界状況のうちで無が現れるか、それともあらゆる消滅する世界存在に抗し、それを超越して本来的に存在するものが感得されるのか、そのいずれかなのである(ヤスパース『哲学入門』新潮社、1988年)。このヤスパースの言葉を心の隅に置きながら、『死ぬ瞬間』を読んだ。

私たちは無意識の中では自分の死を予測できず、ひたすら不死身を信じている。そのため、乱闘や戦争や交通事故による死のニュースは、自分は不死身だという無意識の信念を裏づけ、死んだのは「隣のやつで、おれじゃなかった」と、無意識のうちにそっと喜ぶのだ。また、人間の集団は、暴力団から国民全体にいたるまで、それぞれ集団のアイデンティティを利用して他の集団を攻撃・破壊するが、これは逆に破壊される恐怖の裏返しである。もし国民全体・社会全体が死を恐れ、死を認めないならば、破壊的な自衛手段に訴えざるをえない。戦争、暴動、増加するいっぽうの殺人、その他の犯罪は、私たちが受容と尊厳をもって死を直視することができなくなった証拠かもしれないのだ。深い洞察というべきだろう。

死に行く人々の心理を語る部分は、さらに鋭く細やかな洞察に満ちている。その描写は、あまりに具体的で生々しく、多かれ少なかれ自分自身がそのような状況に置かれたならどう反応するかと、自分の身にに置き換えて読み進んでいるのを発見する。つまりこの本は、自分自身が自らの死を見据えることを強いるようなところがある。

たとえば著者は、第4段階目の抑鬱を二つの面に分ける。第一は、体力を失い、人生の楽しみを失い、財産さえ失い、さらに様々なものを失うことから来る抑鬱である。忘れがちなのは、死期に近い患者には、この世との永遠の分かれのため心の準備をしなくてはならないという深い苦悩があるということだ。第一の抑鬱は、個々の物事を喪失する体験への反応としての抑鬱、第二は、準備的な抑鬱である。

「人生の明るい面、肯定的な面に目を向けてごらん」という励ましは、第一の抑鬱状態に対しては効果がある場合もある。しかし、終末期の患者が、愛するものとの別れ、人生との分かれへの準備に入っている時には意味がない。死ぬ準備をする覚悟ができているのに、もっと頑張って生きろを言われるのはよけいに悲しい。準備的抑鬱の段階では、むしろ言葉を必要とせず、感覚的に理解しあい、手を握ったり、黙っていっしょにいるだけで十分なときもある。

患者が死を受け入れて安らかに旅だっていくには、このタイプの抑鬱は必要であり、患者のためになる。それを分かってあげなければらない。何と言う深い愛に満ちた洞察だろう。こうした洞察に貫かれた本を読むことは、死に行く人々と接する人々にとっても有意義だが、日常、死から目をそらして生きている私たち一人一人に何か本質的なことを思い起こさせてくれるのだ。この本には、そういう力がある。

「自分自身を正直に見つめることは成長・成熟を大いに助ける。そしてその目的を達成するには、重病患者,年老いた患者、死の迫っている患者に接する仕事に勝るものはない」と著者はいう。そしてこの本を読むこと自体が、自分自身を正直に見つめることを幾分なりとも促すようである。

「死ぬ瞬間」と臨死体験

2008-10-05 15:22:13 | 臨死体験・死生観
「死ぬ瞬間」と臨死体験

今や、死の問題や終末期医療に関心を寄せる人でE・キューブラー・ロスの名を 知らない人はいないだろう。一方で彼女は、レイモンド・ムーディと並んで「臨死体験」を世に知らしめた立役者だ。『死ぬ瞬間』等で世界的に著名な彼女は、その 講演の中で自分が見聞きした「臨死体験」について多く語っていた。そんな講演を 集めたのがこの本だ。

出版された当時に読んだとき多くの箇所にマークをつけた。そこを中心に読み返してみて、自分がこの人の考え方に大きな影響を受けていることをあらためて実感 した。そんなところを中心にいくつかの言葉を紹介する。
 
「すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球 というこの惑星に生きることの唯一の目的です。‥‥もし病気だったり、どこかが 痛かったり、喪失を体験したりしたときに、それに立ち向かえば、あなたはかならず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、とても特別な目的をも った贈り物として受け入れることが大切です。」

「私たちがしなければならないことは、正直になって、自分のなかのヒットラーを 直視し、それをおもてに出して、裁くのではなく無条件の愛と同情を、哀れみではなく共感を学ぶこと、そして、肉体をもったこの人生は自分の存在全体のほんの一 部にすぎないということをしることだ。人生は学校であり、誰が年長で誰が年少か は自分たちで決めるのだし、自分の先生は自分で選ぶのであり、試験や試練をくぐり抜けなければならない。」 

「人は誰でも人の心を癒すことができます。誰だって、高次の意識のどんな段階にでもたどり着けます。難しいことをする必要はありません。ただ自分の持っている ものに感謝すること、そして心からの感謝の気持ちをさまたげるものを取り除くこ と、これだけです。」

「自分自身を癒さないかぎり、世の中を癒すことはできません。誰かをぶったり、 非難したり、見下したりしているかぎり、ヒロシマ、ナガサキ、ベトナム、マイダネク、そしてアウシュビッツで起こったことの責任はあなたにあるのです。このこ とははっきり申し上げます。」 

「手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。そして世界を癒すため には、まず自分自身を癒さなくてはなあないのです。どうかこのことを胸に刻んでください。」

とりわけ、成長こそ生きることの唯一の目的だという考え方は、私の心の深いところでの確信になっている。 なお、この本で語られているキューブラー・ロスの神秘体験については『臨死体 験・気功・瞑想』の覚醒・至高体験の事例集に収録してあるので、お読みいただければ幸いである。

http://www.geocities.co.jp/noboish/case/nobunrui/ross.htm